~渋沢栄一翁の「箱根温泉供給株式会社」が結んだ、日本を代表する民俗学者たちの縁~
◆折口信夫(おりぐち しのぶ)と「仙石原」
日本の民俗学者であり、詩人・歌人としても知られる折口信夫(おりぐち しのぶ)(1887~1953年)は、詩人・歌人としては「釈迢空(しゃく ちょうくう)」と号しました。
昭和8年(1933年)、43歳の折口は、渋沢栄一翁たちが開設した「箱根温泉供給株式会社」から仙石原の「温泉分譲地」を購入し、昭和14年(1939年)4月に山荘を建てました。
この山荘を折口は「叢隠居(そういんきょ)」と名付け、仙石原の地をこよなく愛しました。
そして、夏の2か月をこの地で過ごすことを習慣としていました。
折口信夫の別荘であった「叢隠居(そういんきょ)」は、昭和33年(1958年)に國學院大學に譲り渡され、保存されるとともに宿泊施設が増築され、「叢隠寮(そういんりょう)」となりました。
◆箱根仙石原 ~折口信夫の別荘~
昭和14年(1939年)4月に箱根仙石原に別荘を建てた折口信夫は、柳田國男や渋沢敬三といった民俗学者たちとも、この仙石原の地で親交を深めました。
◆折口信夫と「渋沢敬三」の親交

折口信夫は、各地の民俗芸能や風習に深い関心を持ち、自ら現地を訪れて調査を行う熱心な研究者でした。そんな折口をよく知る人物のひとりが、渋沢栄一翁の孫であり、民俗学の支援者でもあった渋沢敬三(1896~1963年)です。折口との親交が深かった敬三は、折口について次のように語っています。
「折口さんについて思い出すのは花祭である。花祭は三河山中でいまもさかんにおこなわれている古い神事芸能である。その山中に育った早川幸太郎氏が、昭和の初め頃から調査に手をつけた。(中略)その中でとくに花祭に憑かれたようにこの山中をおとずれ、更に信州の遠山や新野、遠州の西浦などへも足をのばし、立役者の早川さんにおとらぬほどあるきまわったのが折口さんである。(中略)
折口さんはアチックへもよく来られた。茶目気のある人で、地方から持ってきた民具などを身につけて喜ぶ人であり、そうした記念写真も残っている。」
(※渋沢敬三アーカイブ『渋沢敬三著作集 第5巻』平凡社、1993年、p252-254より)
折口が花祭に強く惹かれ、自ら現地を巡りながら研究を深めた様子がよく伝わります。研究対象である文化を全身で楽しみながら学ぶ姿勢が、折口らしい魅力のひとつだったのかもしれません。
◆民俗学の二巨頭、折口・柳田の対立の真相と、「渋沢敬三」の奔走
昭和4年(1929)、若手研究者との編集思想上の衝突があり、柳田國男が編集していた雑誌『民族』が廃刊となります。歴史科学としての民俗資料を広く採集したい柳田國男と論文集としての雑誌を目指す若手研究者たちの間に溝が広がり、昭和4年(1929)7月には、折口信夫、金田一京助、伊波普猷らが新たに「民俗学会」を設立し、『民俗学』を創刊しました。柳田はこれに参加せず孤立しました。
しかし、折口信夫は柳田への敬意を保ち、関係修復を望んでいました。渋沢敬三も、そんな折口の気持ちを理解していました。
昭和5年(1930年)4月13日、渋沢敬三は自邸(三田綱町)の落成披露宴を開催し、折口信夫と柳田國男を同時に招待しました。この宴には、泉鏡花、金田一京助、伊波普猷ら民俗学研究の関係者も招かれました。
この宴は、折口と柳田の対立を緩和し、学問的な協力関係を再構築するための敬三の配慮だったと考えられます。
当時、敬三は民俗学研究の中心人物として、学問的結束を重視していました。折口と柳田の対立によって、民俗学の分野が分裂する状況を憂い、仲介役を買って出て、民俗学研究の結束を図ろうとしました。
昭和6年(1931)4月、敬三の祖父・渋沢栄一が死去し、敬三は葬儀や銀行業務で疲弊し、糖尿病を発症してしまいました。自身の健康問題や祖父の死という苦境の中でも、敬三は折口信夫と柳田國男を慕い、民俗学の発展のために尽力しました。
◆折口と柳田 ~関係の修復のきっかけ~
『民族』の廃刊がきっかけで、こじれていた折口信夫と柳田國男二人の関係が修復するきっかけとなったのは、昭和10年(1935年)7月31日から8月6日にかけて東京・日本青年館で開催された柳田国男還暦記念の「日本民俗学講習会」においてです。
折口や金田一京助が柳田に「還暦の祝賀会」を開きたいと懇願したところ、柳田が平凡な祝賀会は固辞したので、 学術的な研究大会が開催されることになりました。折口をはじめとする多くの研究者が準備に奔走し、全国から150名以上が参加する盛況な会となりました。期間中には、柳田が自宅に60名ほどを招いて園遊会を開き、この日、柳田を中心とした「民間伝承の会」が結成され、雑誌『民間伝承』が創刊されることが決まりました。
◆関係修復後の交流:「仙石原」での再会
柳田との関係が修復した折口は、仙石原の自身の住居「叢隠居(そういんきょ)」に柳田を招きました。
昭和16年(1941)7月6日には叢隠居で柳田らと連句会を開き、翌17年(1942)7月30・31日にも柳田国男、歌人穂積忠と歌詠みの会合を開きました。
昭和21年(1946)、折口信夫が還暦を迎えた際、雑誌『民間伝承』は還暦記念特集号を企画しました。
昭和22年(1947)7月17日から19日にかけて、柳田は「叢隠居(そういんきょ)」に滞在し、柳田、折口、穂積の三人による座談会が行われました。この座談会は「仙石鼎談(せんごくていだん)」と題され、昭和22年10月発行の『民間伝承』に掲載されました。
◆昭和22年(1947)、「叢隠居」で開催された座談会「仙石鼎談(せんごくていだん)」の内容
~古代の「葬制」について~
仙石原の叢隠居で開催された座談会「仙石鼎談」では、「民間伝承の会」の発足当時やその後の変遷、「古代の葬制」について議論が交わされました。
柳田國男は、「葬制」が古い民俗を色濃く残している点に着目し、今後の民俗調査は「葬式」から始めるべきだと提案しました。その例として、信州の白骨温泉付近では、人が死ぬと一度は儀式として「屋根板に穴をあけて呼ぶ」という今井君の報告を紹介し、自身の郷里でも同様の風習があったことを語りました。そして、「葬制」こそが最も古いものを多く残しているのではないかと述べました。
穂積 忠は、葬式の際の竹の門や、音を立てずに拍手をする「しのびの拍手」について質問し、柳田はそれぞれの地域における「葬送儀礼」の違いを指摘しました。
柳田はまた、在来の史学や考古学では上代の「葬制」を解明することが難しいと述べ、折口にその方法について問いかけました。折口は、古代の人々にとって生と死が明確に区別されていなかった点を指摘し、「仏教伝来以前の葬制」について議論を深めました。
※「葬制」については、よろしければこちらの記事もご覧ください。
日本民俗学の大家である二人が、「仙石原」の地で、民俗学の可能性や研究方法について語り合った「仙石鼎談(せんごくていだん)」は、民俗学の発展を願う渋沢敬三にとって、温泉荘建設の大きな意義を感じさせる出来事でした。
[参照]
・『箱根の開発と渋沢栄一』(武田 尚子著、吉川弘文館、2023年)
・柳田國男「葬制の沿革について」『人類學雜誌』(44巻、1929年、6号)
・岩田重則「柳田国男の墓制研究」(東京学芸大学紀要、第3部門、1996年)
◆折口信夫と「箱根」との深い関わり
折口信夫は、仙石原に別荘を建てる前から、箱根を含む足柄下郡(あしがらしもぐん)の民俗調査に深く関わっていました。
▼足柄下郡との出会い:友人・武田祐吉との縁
折口は、大正5年(1916年)に友人・武田祐吉(小田原中学教員)を訪ね、足柄下郡の道祖神祭りを調査しました。この時、武田から『万葉集』の口語訳を勧められ、3か月でほぼ完成させるという学問的な転機を迎えました。
▼『足柄下郡史』編纂委員としての活動
大正6年(1917)には、私立郁文館中学を退職後、足柄下郡の『郡史編纂』を委嘱され、専任編集委員に就任しました。小田原近郊の早川村に半年間滞在し、古文書や民俗資料の収集・整理に従事しました。資金不足で中断しましたが、この経験は後の民俗学研究の基礎となりました。
▼現代にも通じる民俗調査の方法の覚書「足柄下郡史ひんと帳」
『郡史編纂』の過程で、折口は民俗調査の方法をまとめた覚書「ひんと帳」を執筆しました。
調査対象は職人、村道、神石、祭礼、民間信仰など多岐にわたり、話者の自然な語りを尊重し、誘導質問を避けるなど、現代の社会調査手法にも通じる先進的な内容でした。
昭和8年(1933年)に仙石原の分譲地を購入し、昭和13年(1938年)に別荘「叢隠居」を建設した背景には、若い頃からの足柄下郡での現地調査経験や、『郡史編纂』で得た土地への理解があったと思われます。
足柄下郡での経験は折口の民俗学研究の基礎となり、仙石原に別荘を構える動機にも繋がりました。
【参照】
・『箱根の開発と渋沢栄一』(武田尚子著、吉川弘文館、2023年)
◆折口信夫、仙石原『叢隠居(そういんきょ)』への深い愛情
仙石原の山荘「叢隠居(そういんきょ)」は、折口信夫が東京の喧騒を離れ、静かな温泉地で過ごすことを切望していたことを知る、弟子の鈴木金太郎と藤井春洋が、丹精込めて設計・建設を進めた場所でした。木造の平屋建てという質素ながらも温かみのある佇まいは、仙石原の雄大な自然に溶け込み、温泉好きの折口にとってかけがえのない隠れ家となりました。
「つつましやかな平屋建の山荘は、起伏する高原の萱原をへだてて、外輪山の長尾峠、その上に肩をのぞかせた富士に真向う西向きの斜面に建てられていて、北側に台ヶ岳、南側には遠く芦ノ湖の湖面を見下ろすことができる。(中略)そして、8月29日、自転車に身を横たえて山を下る前夜まで、この山荘から去ることを拒みつづけたのであった。」
(※『釈迢空(近代短歌・人と作品 ; 第4)』千勝重次、岡野弘彦、桜楓社出版、1961年より)
折口は「叢隠居」を深く愛し、その地を離れることを折口は最後まで躊躇していました。
1953年7月、折口は体調が優れない中、「叢隠居」を訪れました。
しかし、病状は悪化の一途を辿り、8月31日には慶應義塾大学病院に入院することとなりました。そして、9月3日、胃癌のため永眠しました。
折口の魂は、現在、養子として迎えたものの戦死した藤井春洋と共に、石川県羽咋市一ノ宮町にある気多大社近くの墓に眠っています。
折口信夫の過ごした「叢隠居(そういんきょ)」は、昭和33年(1958)、国学院大学の所有(叢隠寮)となり、その面影を今にとどめています。
仙石原は、渋沢栄一翁と益田孝が「耕牧舎」を立ち上げた地であり、須永伝蔵の死後は「温泉付き別荘地」として発展しました。そのような歴史を持つ仙石原に折口信夫が山荘を建て、渋沢敬三とも親交があったことには、不思議な縁を感じます。