西武 vs. 小田急・東急 ~箱根を巡る企業間の攻防~
◆戦後20年間続いた「箱根山戦争」
箱根山戦争は、第二次世界大戦後から1968年まで、西武グループ(堤康次郎)と小田急グループ(安藤楢六)およびそのバックにいた東急グループ(五島慶太)が箱根の観光輸送シェアを巡り繰り広げた企業間競争です。
1. 前史(1910年代~1940年代)
【1910年頃~】
1910年頃から芦ノ湖の観光客が増え始めていた。「箱根渡船組合」と「箱根町渡船組合」が芦ノ湖の航路を運航しており、互いに観光客を奪い合っていました。
【1920~1930年年頃】
●西武系
①軽井沢において広大な土地の取得に成功していた堤康次郎は、1920年、「箱根土地」(後のコクド)を設立し、箱根の観光開発を開始しました。
②堤康次郎は、「強羅(ごうら)」に10万坪の土地を買って開発に着手し、更に「仙石原」で70万坪、「箱根町」で100万坪もの芦ノ湖周辺の山林や原野を次々と買収していきました。
※1922年5月時点では、889ヘクタール(約270万坪=東京ドーム約190個分)の土地を買収しています。
③堤が次にターゲットとしたのは、「芦ノ湖遊覧の渡船権」でした。
この頃、芦ノ湖遊覧事業は、「元箱根町」と「箱根町」の渡船組合が実施していましたが、両者は客の奪い合いで激しく対立していました。
1920年、堤はこの対立に目をつけ、地元の有力者の仲介を経て、両組合を一本化した新会社「箱根遊船株式会社」を設立。これが、堤康次郎が箱根で最初に手がけた交通機関となりました。
④堤が次にねらったのは陸上交通でした。1923年、堤は、静岡県三島市や伊豆市を拠点とする「駿豆鉄道(すんずてつどう)」を買収しました。
⑤堤康次郎は1930年頃から箱根エリアに、「3本の自動車専用有料道路」を開通させました。
・「十国峠線」(熱海峠と箱根峠を結ぶ道路)
・「早雲山線」(小涌谷から湖尻に至る道路)
・「湖尻線」(湖尻から元箱根に至る道路)
⑥「箱根遊船」と「駿豆鉄道」を合併。社名を「駿豆鉄道(すんずてつどう)」へと一本化しました。
(※駿豆鉄道は1956年に「伊豆箱根鉄道」と改称しています。)
※十石峠線(「熱海峠」と「箱根峠」を結ぶ道路)
※早雲山線(「小涌谷」から「湖尻」に至る道路)
※湖尻線(「湖尻」から「元箱根」に至る道路)
●小田急系の箱根進出
①1919年、小田原電気鉄道(後の小田急グループ)が「湯本-強羅(ごうら)間」に登山電車を開通させました。
②1921年には、同じく小田原電気鉄道が「箱根登山ケーブルカー」を開業。
これにより、「湯本から強羅(ごうら)」までは鉄道、「強羅から早雲山(そううんざん)」まではケーブルカーで結ばれることになりました。
当時はまだロープウェイがなかったため、観光客は早雲山から芦ノ湖までは徒歩で移動し、湖尻から元箱根までは船で渡っていました。
この頃、小田原電気鉄道と箱根遊船(後の西武グループ)はまだ対立しておらず、1922年5月には提携して「箱根廻遊切符」を発売するなど、協力関係にありました。
③1928年、「小田原電気鉄道」は経営の安定化を図るため、堤康次郎の仲介により「日本電力」に売却され、同年8月16日に鉄道部門が分離独立し「箱根登山鉄道」が発足しました。
その後1933年に、「箱根登山鉄道」のバス部門は「富士屋自動車」に譲渡され、「箱根登山鉄道」は鉄道事業に専念することとなりました。
●富士屋ホテルによる路線バス運行
①1914年、名門国際ホテルとして知られている「富士屋ホテル」が「富士屋自働車」を作り、路線バスの運行を開始しました。
②1928年に「小田原電気鉄道」(小田急系)が日本電力に売却され、「箱根登山鉄道」が発足した後、1933年に富士屋自動車は「箱根登山鉄道」からバス部門を譲り受け、「富士箱根自動車」と社名を変更しました。
→バス部門においては、箱根・小田原の路線ほぼすべてを網羅。「富士箱根自動車」は、戦前の箱根のバス交通を担うようになりました。
2. 第二次世界大戦中
①ガソリン統制による木炭バスへの運行の切り替えや運休路線が拡大し、経営が悪化していた「富士箱根自動車」は、「箱根登山鉄道」の傘下になりました。
②合併した「箱根登山鉄道」と「富士箱根自動車」の親会社となっていた「日本電力」は、「箱根登山鉄道」・「富士箱根自動車」・「強羅ホテル(ごうらほてる)」を他社へ譲渡する意向を示しました。
③堤康次郎は、当時親友と呼べるほど仲の良かった東京横浜電鉄の五島慶太に対して、「箱根登山鉄道」の買収を提案。
④1942年、五島慶太は、「箱根登山鉄道」・「富士箱根自動車」・「強羅ホテル(ごうらほてる)」を日本電力から購入し、「箱根登山鉄道の社長」に就任しました。
⑤しかし、1945年、五島慶太は、「強羅ホテル」を運営していた箱根観光を売却しました。
⑥堤康次郎は、「五島慶太は観光事業に取り組む姿勢がない」と解釈しました。
→これ以降、堤と五島の関係は悪化、「箱根山戦争」へと発展することになりました。
3. 第二次世界大戦後~ 「箱根山戦争」の勃発
●堤康次郎が「小田急・東急グループが独占していたバス路線へ進出」
①戦後すぐの1947年、小涌谷から湖尻までバス運行をしていた西武グループの「駿豆鉄道(すんずてつどう)」が、この路線を「小田原」まで延長する申請を行いました。この申請により、箱根山における戦争が始まったと言われています。
というのも、小田急・東急グループの「箱根登山バス」が独占していた「小涌谷-小田原間」のエリアに、西武グループの駿豆鉄道のバス路線が進出してきたからです。
一方、西武グループの狙いは、免許が認められれば、「駿豆鉄道(すんずてつどう)」が運行する「三島・熱海」から、「箱根」を経由して「小田原」に至るバス路線を開設し、さらに自社の「大雄山線(だいゆうざんせん)」(小田原-大雄山間)と接続することで、広範囲な旅客輸送網を構築することにありました。
②これに対し、小田急・東急グループの「箱根登山鉄道」は、強く反発しました。
というのも、この延長区間は、箱根登山鉄道がバスも運行しており、箱根へ客を運ぶ重要な路線だったからです。しかし、バスの便数を制限したり、条件が載せられた上ではありますが、申請が通り、路線免許が交付されました。これにより、西武が小田急エリアに侵入する形になりました。
●小田急が対抗措置
小田急は、対抗措置として駿豆鉄道が所有する「小涌谷-早雲山-湖尻」に至るバスの運行申請。
小田急が西武エリアに侵入する形になりました。
●西武グループの「駿豆鉄道」がこれに反対
するとこれに、駿豆鉄道が反対しました。
この争いの仲介に入ったのが運輸省でした。運輸省はこの争いの仲介に入り、相互に乗り入れるように勧告しました。勧告に対し、双方はとりあえずは和解という形をとり、ここでこの戦争は終了と思われました。
しかし、今度は、小田急・東急グループの「箱根登山鉄道」が、「芦ノ湖」に進出を図りました。
西武グループが建設した有料道路、「早雲山線(そううんざんせん)」(小涌谷-湖尻間)への路線バス乗り入れを申請しました。
その結果、1950年から両グループによる相互乗り入れが開始されました。
※ただし、西武グループの有料道路は、堤康次郎が多額の資金を投じ、28キロに及ぶ私有道路を13年かけて建設したという特殊な事情がありました。
そのため、小田急・東急グループの「箱根登山バス」の乗り入れは正式な免許ではなく、1年ごとの更新制となる「乗り入れ運輸協定」に基づくことになりました。
→この「1年ごとの更新制という協定」が、後に両グループの対立を激化させる大きな要因となりました。
4. 「箱根山戦争」対立の激化
●東急・小田急グループが「西武グループ独占の芦ノ湖遊覧船事業へ進出」
①「芦ノ湖上」で起きた大きな争い「双胴船 vs. 海賊船」
(西武系「双胴船」)
(小田急系「海賊船」)
▼芦ノ湖の遊覧船事業は、それまで西武グループの「駿豆鉄道(すんずてつどう)」が独占していました。
しかし1950年、小田急・東急グループが出資する「箱根観光船」が設立され、状況は一変しました。
▼1950年8月1日より、小田急・東急グループの「箱根観光船」は、「乙姫丸」を就航。
「駿豆鉄道」による芦ノ湖遊覧船事業の独占は破られる事となりました。
▼これに対して、「駿豆鉄道」は、客船としては世界初という大型船「双胴船」の導入を図ります。
「双胴船」とは、2つの船を横に並べて上部に船室を設けた形状です。船体の安定性が高く、高速での操船も可能でした。1961年、「駿豆鉄道」は、双胴船「くらかけ丸」の就航を実現させ、世の中を驚かせました。
▼ これに対し、「箱根観光船」では双胴船に対抗するために、アメリカのディズニーランドを視察した際の「海賊船」のアイデアを導入。
1964年7月に、初代海賊船「パイオニア号」が就航すると、あっという間に子供たちの心を鷲掴みにした。
▼(その後・現在)
2023年、芦ノ湖遊覧船を運営していた伊豆箱根鉄道は、山梨県を地盤とする富士急行に事業譲渡しました。富士急行は、「芦ノ湖遊覧船」の名称を「箱根遊船」に改めました。
現在、箱根遊船では、以下の2隻の双胴船が就航しています。
「十国丸」
「SORAKAZE」(2024年2月にリニューアル就航した「はこね丸」)
一方、小田急グループが運営する「箱根海賊船」では、以下の3隻が就航しています。
「クイーン芦ノ湖」
「ロワイヤルⅡ」
「ビクトリー」
②「芦ノ湖上」で起きた大きな争い「桟橋」
▼ 両社は、「桟橋の位置」を巡っても激しく対立しました。
小田急・東急グループの「箱根観光船」の拠点は「箱根町」にありましたが、当時の「箱根町」はまだ、箱根関所など観光客向けの施設が十分に整備されておらず、多くの観光客は「箱根神社」のある「元箱根」を訪れていました。
そこで、「箱根観光船」は、元箱根への寄港を計画しましたが、元箱根の桟橋を独占していた「駿豆鉄道」(西武系)は、安全協定違反を理由に反対しました。
▼しかし、観光シーズンが近づき焦った「箱根観光船」は、厚生省の許可を得ずに独断で桟橋を建設し、1951年から「元箱根」への寄港を開始しました。
これに対し、西武グループの「駿豆鉄道」は強く反発し、神奈川県も「箱根観光船」に桟橋の撤去を命じました。「箱根観光船」が撤去を拒否したため、県は強制的に桟橋を撤去しました。
▼その後、県の仲介により、西武グループの「駿豆鉄道」の桟橋の西側に、小田急・東急グループの「箱根観光船」の桟橋を設置することが認められ、1953年から「箱根観光船」も正式に「元箱根」への寄港を開始しました。
③ 西武グループと小田急・東急グループの「芦ノ湖での港の位置」の違い
芦ノ湖では、西武グループの「芦ノ湖遊覧船」(現富士急行の「箱根遊船」)と、小田急・東急グループの「箱根海賊船」では、港の名称や、港の位置が微妙に異なっています。
◆【港の名称】:
西武系:
①「湖尻港」②「箱根園港」③「箱根関所跡港」④「元箱根港」
小田急東急系:
①「桃源台港」②「箱根町港」③「元箱根港」
◆【港の位置】:
「箱根関所跡港」と「箱根町港」は近接。
「元箱根港」だけは同じ名称ですが、両社の乗り場が約300メートル離れて位置します。
◆【寄港状況】:
「箱根園港」は、西武グループの施設のため、小田急・東急グループの「箱根海賊船」は寄港しません。
5. ついに全面戦争へ ~西武の「乗り入れ協定破棄」と、小田急の “秘策”~
①芦ノ湖での小田急・東急グループの進出に対して激しく憤った西武グループは、1956年、有料道路の「乗り入れ協定」を破棄し、道路入口に遮断機を設置して「箱根登山バス」の進入を阻止しました。
事態は現場の衝突に留まらず、両者は訴訟合戦に突入し、法廷でも争うことになりました。さらに西武は1957年と1960年の二度にわたり小田急株を買い進めました。
②これに対して、小田急・東急側は真っ向から戦うのをやめ、1957年、新型車両「ロマンスカー」を都心新宿から走らせ、多くの観光客を集めて対抗しました。都心からのアクセスを持たない西武側はこれに太刀打ちできませんでした。
③さらに、小田急・東急グループは、1958年、「早雲山-大涌谷-桃源台」を結ぶロープウェイの建設を発表しました。これは、西武が所有する有料道路の上空を通過させるという秘策でした。
④ただし、ロープウェイが有料道路の上空を通過するためには、駿豆鉄道(西武)の同意が不可欠でした。

6. 堤康次郎の態度の軟化
① 堤康次郎は、「大局的見地から土地使用料は無料で承認する」として、ロープウェイの上空通過を認めました。
② 承認されたことで、1960年にロープウェイが開業しました。
→これにより、小田急系の交通機関だけで箱根を周遊できるようになり、「箱根ゴールデンコース」が誕生しました。
③ 1957年、駿豆鉄道が「伊豆箱根鉄道」(西武系)に社名変更しました。
④ その後も、神奈川県からの有料道路買収の申し出があると、堤康次郎はこれも受諾しました。
堤は当時、直談判をしにきた神奈川県知事の内山岩太郎を「総理大臣としてもやっていける人物である」と高く評価していました。
堤康次郎は、また、将来、西武百貨店が渋谷に進出する時を考慮し、争いの火種となりかねない有料道路を神奈川県に委譲することによって、東急側に貸しを作っておこうと考えていました。
→これにより、1961年に「湖畔線」と「早雲山線」の有料道路2路線が県道として開放されることになりました。
箱根ロープウェイの開通と、神奈川県による自動車道の買収によって、箱根での争いは事実上終結することになりました。
7. 約20年間続いた「箱根山戦争」の終結(1968年)
① 1961年、小田急と箱根登山鉄道からは関連訴訟の終結による「平和回復の声明」が出されました。
争いが事実上の終結を見た後に、小田急の安藤楢六(あんどう ならろく)が挨拶に訪れると、堤康次郎は、「もう、けんかはよそうや」と、安藤の手を取りながら言ったといわれています。
② 1968年、名実ともに戦争終結に向けて大きく前進しました。
五島慶太の長男で、東急電鉄を継いだ五島昇が、「まずは西武と小田急のシコリを解くことが必要」であるとして、「伊豆箱根鉄道」社長だった堤康次郎の三男「堤義明」と小田急の安藤楢六社長を銀座東急ホテルに招き、和平斡旋をしました。
その後、雪解けは急速に進み、「安藤社長と二人きりで会ったのは5、6回を数える」と堤義明がいうように両者は会談を重ね、1968年12月に東京プリンスホテルで、伊豆箱根鉄道、小田急、箱根登山鉄道、東海自動車も加えた4社長が会合し、今後は相互乗り入れについて協調することを確認し、協定書に調印し、約20年続いた「箱根山戦争」が終結を見ることとなりました。
8. 現代の箱根観光 ~両社の協力体制~
※2023年、西武系の伊豆箱根鉄道が芦ノ湖遊覧船を「富士急」に譲渡しました。
① 小田急箱根高速バスが西武グループのレジャー施設がある「箱根園」に乗り入れるようになりました。
② 小田急が発売する周遊乗車券「箱根フリーパス」の割引対象に西武グループの施設が含まれるようになりました。
③ 「箱根フリーパス」自体が西武鉄道の駅でも発売されるようになりました。
④ 一部で異なっていたバス停留所名も箱根登山バスと伊豆箱根バスで統一されました。
⑤ 2015年の大涌谷噴火や2019年の台風被害時など、災害時には両社が協力して「代替バス」の運行などを行い、観光客の安全確保に努めました。
⑥ 両社は協力して、外国人観光客の誘致や、多様化する観光客ニーズに対応した取り組みを進めています。
◆堤康次郎と五島慶太:二人のカリスマ経営者
箱根山戦争は、二人のカリスマ経営者が率いる巨大グループが、観光地・箱根の主導権を巡って繰り広げた壮絶な戦いでした。
「ピストル堤」と「強盗慶太」。この異名が示すように、堤康次郎と五島慶太は、それぞれ異なる強烈な個性と経営手腕を持つ人物でした。
堤康次郎は、なりふり構わぬ手段で土地を手に入れる強引な買収を得意とし、その行動力は「ピストル」のように速く、正確で、時に周囲を圧倒しました。
また、他方で、五島慶太は、戦後の混乱期に様々な企業を積極的に買収し、グループを拡大しました。
「強盗」と揶揄されるほど、その手法は大胆かつ強引であり、時に批判も浴びました。
しかし、二人の共通点は、時代の変化を敏感に捉え、大胆な戦略で事業を拡大した点にあります。
彼らの行動は、時に倫理的な議論を呼び起こすものでしたが、その圧倒的なエネルギーは、日本の成長を牽引する力となりました。その結果、箱根は、多くの人々を魅了する場所となったのだとも思います。
「箱根山戦争」は、欲望渦巻く争いではありましたが、その結果、箱根の交通インフラや観光施設は飛躍的に向上しました。
しかし、さらに忘れてならないのは、渋沢栄一翁と須永伝蔵といった先人たちが築き上げた真の礎の上に、現代の箱根の輝きがあるということです。
渋沢栄一翁と須永伝蔵が歩んだ道は、華やかな戦略や派手な買収劇とは無縁でした。
彼らの挑戦は、もっと素朴で、もっと根源的なものでした。荒れた地を耕し、水を引き、牛を放ち、そこに人々の暮らしの息吹を根づかせる。その営みは、静かでありながら確かな「未来への贈り物」でした。
特に須永伝蔵は、時に冷たく過酷な自然と向き合いながらも、一歩一歩、地域の人々と共に開墾の道を歩み続けました。その姿勢は、まさに「実直な開拓者」であり、彼が「仙石原開拓の父」と称される所以でもあります。そして、その彼を支え導いたのが、日本資本主義の父・渋沢栄一翁でした。
現代の箱根が、交通基盤や観光資源の整備によって世界に誇れる観光地へと成長したことは確かです。
しかし、忘れてはならないのは、その華やかな景観の下に、耕牧舎の牧場開拓に汗を流した先人たちの足跡が静かに息づいているということです。
[参考]
・加藤利之『箱根山の近代交通』(神奈川新聞社、1995年)
・おもしろ歴史博物館様YouTube「現代の戦争『箱根山戦争』西武vs小田急・東急の箱根を舞台にした大戦争!」
・大人の社会科 / ペリー楓「西武と小田急が争った箱根山戦争」
・横浜日吉新聞(2022年10月07日)「小田急・東急との「箱根山戦争」も昔話、西武系が芦ノ湖遊覧船を富士急に売却」