~大涌谷に夢見た国際的な「温泉療養施設」の建設。その情熱と、時代を超えた影響~
◆ベルツ博士と「箱根」の深いかかわり
箱根の温泉の魅力を世界に広めた人物として、ドイツ人医学者エルヴィン・ベルツ博士(1849~1913)がいます。
ベルツ博士は、明治9年(1876)にお雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)に招かれました。明治35年(1902)まで、26年にわたり東京大学医学部で教鞭を執り、日本の近代医学の発展に大きく貢献しました。
ベルツ博士の功績を称え、毎年優れた医学研究・論文を表彰する伝統ある「ベルツ賞」は、1964年に創設されています。
また、ベルツ博士は日本の温泉の素晴らしさにいち早く着目し、その効能を医学的に研究しました。
◆温泉地としての「箱根」を提言
ベルツ博士は各地の温泉を調査し、明治20年(1887)には「皇国の模範となるべき一大温泉場設立意見書」を宮内省に提出しました。博士が「完全無欠の模範となるべき温泉療養所」として理想に掲げたのが、箱根の「大涌谷(おおわくだに)」でした。「この地に温泉療養所を建設すれば、日本だけでなく、中国、インド、アメリカ、そしてヨーロッパにおいても名声を得ることは間違いない」と述べ、その自然の恵みを最大限に活かすことの重要性を説いています。
このベルツが日本一と評した温泉があるということを伝え聞いたのが、渋沢栄一翁とともに「耕牧舎」を設立することになった益田孝です。
◆草津温泉の発展にも寄与
ベルツ博士はまた、「草津温泉」の発展にも寄与し、明治23年(1890)には、約6000坪の土地と温泉を購入。草津の温泉がヨーロッパの温泉地に匹敵する価値を持つことを強く主張し、温泉保養地としての発展を推し進めました。彼の名を冠した「ベルツ通り」は、現在も草津の町に残されています。
◆日本文化への深い理解
ベルツ博士は、単なる医学者にとどまらず、日本の文化や伝統にも深い関心を持ち、歌舞伎を鑑賞したり、剣術・直心影流を学んだりするなど、日本人の精神性にも強く共鳴していました。
博士は、当時、廃仏毀釈の嵐吹き荒れる日本へ危機感を持っており、西洋文明輸入に際しての当時の日本人の姿勢を批判し、美術品や工芸品の保存に努めました。
これは、当時の日本人さえも見過ごしがちだった日本の伝統文化の重要性を、ベルツ博士が認識していたからです。
◆ベルツ博士と、渋沢栄一翁
渋沢栄一翁や益田孝も、「箱根」の発展に重要な役割を果たしました。
渋沢栄一翁と益田孝たちは、最初、箱根仙石原で牧場を開拓しましたが、須永伝蔵の死後、その事業を引き継ぎ、昭和3年(1928)には、温泉付別荘の分譲を行う「仙石原地所」を設立しました。
次いで昭和5年(1930年)、温泉の集中管理を目的とした「箱根温泉供給株式会社」を設立し、宮内省から広大な土地の提供を受け、温泉供給と分譲地開発に尽力しました。
ベルツ博士が愛した日本の自然と温泉は、渋沢栄一翁や益田孝らの努力によってさらに発展を遂げたのです。
◆ベルツ博士の日本での活動
~1876年から1905年まで日本に「29年間」滞在~
▼明治9年(1876年)、ベルツ博士は東京医学校(現・東京大学医学部)の教授として来日。日本の温泉に興味を持ち、その科学的な研究に取り組みました。
▼明治13年(1880年)、『日本鑛泉論』を発刊し、箱根や草津、伊香保などの温泉地に西洋医学を取り入れた温泉治療所の設立を「内務省」に提案。これが箱根の温泉普及の土台となりました。
▼明治14年(1881)、東海道御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコと結婚。
▼明治20年(1887年)、「皇国の模範となるべき一大温泉場設立意見書」を提出。【箱根の大涌谷】を「完全無欠の模範となるべき一大温泉療養所」として推薦し、その優れた温泉資源を高く評価しました。
▼明治26年(1893)、葉山村堀内961番地(現在ソニーコート葉山寮)に土地を買って居住。(~明治37年9月)
▼明治30年(1897)、樺太アイヌ調査のため、北海道石狩を訪問。
▼明治35年(1902)、東京帝国大学退官、宮内省侍医を3年間務めました。
▼明治38年(1905)、勲一等旭日大綬章を受章。故国ドイツへ帰国。
▼明治40年(1907)、宮内省の御用で来日。その時、東京大学医学部に5千円を寄付。理学療法と優秀な研究者に贈る賞の基金となりました。
◆ベルツ博士と日本 ~ゆかりの場所~
ベルツ博士は、「箱根富士屋ホテル」に滞在中、女中の手荒れに気づき、「ベルツ水」(グリセリンカリ液)を処方したと伝えられています。また、博士は、葉山や草津に土地を所有し、日本の自然や文化を深く愛していました。現在も、日本各地には「ベルツ博士の胸像」や「記念館」、「ベルツ通り」などが残されており、ベルツ博士の功績や日本への想いを今に伝えています。
①《箱根(神奈川県)》
ベルツ博士は箱根を愛し、「富士屋ホテル」や「芦之湯松坂屋」に来遊していましたが、明治15年頃、木賀温泉に別荘を設けました(MAP)。その渓谷美を愛し、「全山中で最もよい場所」と日記に記しています。
②《葉山(神奈川県)》
明治26年(1893)、ベルツ博士は、葉山村堀内961番地(現在ソニーコート葉山寮)に土地を買って居住しました。(~明治37年9月)
葉山の「森戸神社」には、ベルツ博士と駐日イタリア公使マルチーノ氏が当地を保養地として推奨したことを記した「ベルツ博士・マルチィーノ公使顕彰碑」(MAP)が建てられています。(※詳細はこちらへ)
③《東京大学》
東京大学医学部中央館(医学図書館)の裏に「ベルツ(内科)とスクリバ(外科)の胸像」(MAP)が並んで建てられています。明治40年(1907)4月4日に胸像除幕式が行われました。(※詳細はこちらへ)
④《草津温泉》
ベルツ博士は、明治11年(1878)に草津温泉を訪れると、温泉の効用を科学的に研究し、温泉だけでなくその景観や清浄な空気、飲料水が保養地として最も適していると世界中に紹介し草津の知名度を上げています。
ベルツ博士は、私費で6,000坪の土地を購入し自ら保養所を計画し大きな成果を上げています。
・「ベルツ通り」
草津温泉の北側のホテルやペンションが建ち並ぶ通りは、「ベルツ通り」(MAP)と命名されています。(詳細はこちらへ)
・「ベルツ記念館」
草津町では、2000年の町制施行100周年を記念して、ベルツ博士の功績を後世に伝える「ベルツ記念館」(MAP)が開館しました。(※詳細はこちらへ)
・「ベルツ・スクリバ両博士像」
この両博士像は、元々東京大学構内にあった銅像と同じもので、戦時中、像が拠出された際、コンクリートで模型が作られました。(※詳細はこちらへ)
戦後にコンクリート像は、両博士が草津温泉と深い繋がりがあった為、草津町に譲渡され、平成4年(1992)に、草津温泉の「西の河原公園」に設置されました。(MAP)
⑤《伊香保温泉》
明治初期(1870年代)、数多い日本の温泉のなかで、ベルツ博士に第1番に系統的指導を受けたのが「伊香保温泉」です。この時の指導内容が「日本鉱泉論」として発表され日本温泉医学の原典になっています。
・「若き日のベルツ博士の胸像」
群馬県渋川市の伊香保温泉。 365段の石段を登り詰めると神社があり、そこを横にそれてさらに進むと朱塗りの「河鹿(かじか)橋」があります。
この界隈は湯元通りと呼ばれ、「河鹿橋」からすぐ上流に伊香保温泉の源泉があり、その一角に「若き日のベルツ博士の胸像」(MAP)があります。(※詳細はこちらへ)
◆ベルツ博士と「皇室」との関係
明治19年(1886年)に完成した「箱根離宮」は、二階建ての西洋館と日本館を中心に官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を芦ノ湖に映していましたが、関東大震災と北伊豆地震で倒壊。再建計画は戦争により中止となりました。終戦後の昭和20年(1945年)、跡地は神奈川県に下賜され、整備を経て翌昭和21年(1946年)5月5日に「恩賜箱根公園」として一般公開されました。
▼「箱根離宮」と「葉山御用邸」造営の進言
ベルツ博士の進言により、明治20年(1887)、芦ノ湖畔に「箱根離宮(現・恩賜箱根公園)」が建設されました。これは、体の弱かった皇太子(後の大正天皇)のための保養地として設けられたもので、ベルツ博士の医学的見地が皇室の健康管理にも大きな影響を与えていたことが分かります。また、ベルツ博士の推薦によって、「葉山」にも皇室の「御用邸」が建設されました。(※離宮についてはこちらへ)
▼ベルツ博士は、皇室の侍医としても重要な役割を果たしました。
特に明治28年(1895)に皇太子(後の大正天皇・明宮嘉仁親王)が肋膜炎(ろくまくえん)を患った際、その治療にあたったことで知られています。当時の侍医たちは西洋医学への抵抗感から適切な処置ができず、緊急でベルツ博士が招集されました。ベルツ博士は葉山御用邸から電報で呼び出され、1日2回の診察を実施。9月に容態が安定するまで治療を続けました。このことをきっかけに、宮中で西洋医学の信頼性が認められ、ベルツ博士は、その後も皇族の診療に携わるようになりました。
※ベルツ博士の肩書は、「東京医学校(現・東京大学医学部)の教師」だったため、正式な「侍医」ではありませんでしたが、皇太子(明宮嘉仁親王)の治療を契機に、「危急の際に頼られる医師」(=事実上の皇室医療顧問)として特別な立場を得ました。ベルツ博士は、 従来の漢方中心だった宮中医療に、西欧の「細菌学・衛生学」の視点を持ち込みました。
◆「箱根」と皇室との関係
明治初期の頃、「箱根」は、まだ皇室との特別な繋がりは深くありませんでした。
しかし、ベルツ博士の素敵なご提案がきっかけとなり、芦ノ湖のほとりに「離宮」が建てられると、その状況は少しずつ変わっていきます。
明治10年代後半~20年代にかけて、皇室の財産が拡大化する動きの中で、宮内省は広大な土地を御料地に編入しました。その中には、風光明媚な芦ノ湖や温泉が豊富な大涌谷も含まれるようになったのです。
最初の頃は、離宮を建てて皇族の方々の静養の場とするのが主な目的でしたが、時が経つにつれて、その土地の恵みを活かした養魚や温泉といった事業も行われるようになっていきました。
◆箱根における御料地化の《4段階プロセス》
※『箱根の開発と渋沢栄一』(武田尚子氏著、吉川弘文館 (2023/3/2))より
1. 第一段階(1884年・明治17年)
皇族の保養施設として、箱根・芦ノ湖畔に「箱根離宮」建設用地を編入。
2. 第二段階(1887年・明治20年)
芦ノ湖全域と湖畔一帯(2,153町歩)を御料地に編入。
明治18年(1885)、宮内省に「御料局」が設置され、全国で官有地の大規模編入が推進されました。箱根においては、芦ノ湖全域と湖畔一体が御料地に編入され、「離宮」の風致維持と収益事業(養魚業など)が開始されました。
3. 第三段階(1889年・明治22年~23年)
大涌谷・姥子温泉一帯(188町歩)を編入。
明治20年(1887)、ドイツ人医師ベルツ博士の「模範温泉場設立意見書」をきっかけに、宮内省が温泉開発に着目。内務省と宮内省の調整により、ベルツ博士の案は却下されましたが、温泉療養施設による収益確保と皇族の健康管理を目的として、大涌谷と姥子温泉の一帯は、「宮内省直轄の温泉場」として編入されました。
4. 第四段階(交通改善後・明治27年)
「宮ノ下御用邸」の建設。
宮ノ下御用邸建設は、道路・鉄道の交通手段が改善されたのち、温泉療養と静養の利便性向上したため実現しました。
◆「御料地化」の背景 ~伊藤博文の2戦略~
※『箱根の開発と渋沢栄一』(武田尚子氏著、吉川弘文館、2023年)より
明治時代、日本は近代国家としての道を歩み始めましたが、その過程で大きな政治的課題に直面していました。明治23年(1890)に予定されていた「帝国議会の開設」が近づくにつれ、自由民権運動が活発化し、国民の間で「天皇の権限縮小」や「立憲君主制の確立」を求める声が高まっていたのです。
この状況に対し、伊藤博文をはじめとする政府首脳は、議会が開設されれば民権派、すなわち政党勢力が台頭し、天皇の権威や皇室の独立性が脅かされるのではないかと強く懸念していました。
そこで、伊藤博文は、天皇制を維持し、皇室の権威を守るために、二つの重要な対策を講じました。
一つ目は、「華族制度」の創設です。
1884年に華族令を公布し、帝国議会の貴族院議員を選出するための特権階級である華族を設けました。華族は、旧公家や大名、功績のあった官僚などから選ばれ、彼らは「皇室の藩屏(防壁)」として、天皇制を支える政治的エリート層としての役割を担いました。これにより、民権派に対抗する保守勢力を形成し、貴族院を通じて皇室を支持させることが狙いでした。
二つ目は、「皇室財産」の拡大です。
議会が予算や法律で皇室を制約することを防ぐため、皇室が経済的に自立できる体制を築くことを目指しました。帝国憲法第66条において「皇室費は議会の承認を要しない」という原則を確立し、皇室が議会の影響を受けずに活動できるようにしました。
皇室財産には「御料地」(土地などの不動産)と、「御資」(株券、有価証券などの動産) があります。
伊藤博文は、皇室の経済的基盤を強化しました。
◆「御料地(不動産)」…急拡大
(例:箱根の離宮用地を含め、1年で1,300町→15,000町へ。)
◆「御資(動産・金融資産)」…増強
(日本銀行・横浜正金銀行への政府出資金を皇室へ移管。)
これらの対策は、「帝国議会開設」後の政治情勢を見据え、天皇制を維持し、皇室の権威を守るためのものでした。
◆「皇室財産」:明治期と戦後における異なるあり方
明治時代に制定された「大日本帝国憲法」と、戦後に制定された「日本国憲法」では、天皇の地位や役割、そして皇室財産の位置づけが根本的に異なっています。
「大日本帝国憲法」では、天皇は「統治権の総覧者」とされ、国家の統治権を掌握する存在でした。
そのため、天皇は国家を統治するための経済的基盤を持つ必要があり、皇室財産は国家財政の一部として位置づけられていました。
一方、「日本国憲法」では、天皇は「日本国の象徴」とされ、国民統合の象徴としての役割を担っています。統治権は国民に属し、天皇は国政に関与しない存在となりました。そのため、皇室財産は必要最小限の資産保有に抑えられ、国家から分離されることとなったのです。
戦後の民主化改革では、皇室財産の国有化が進められ、皇室の政治関与が禁止されました。
1947年には、箱根の御料地の大部分が国立公園や国有林に編入され、その役割が変化しました。
◆箱根の忘れられた恩人・ベルツ博士
ベルツ博士は、箱根「大涌谷」に「近代的な温泉療養施設」を建設するという夢を抱いていました。
明治20年(1887)、博士は内務省に「模範温泉場設立意見書」を提出し、科学的根拠に基づいた「模範温泉場」を大涌谷に建設することを提案しました。
当時の日本の温泉場は、衛生面や医療効果において未整備であり、ベルツ博士は一般市民も利用できる「社会公衆の便益」を重視した施設を構想していました。
ベルツ博士が大涌谷を選んだ理由は、その優れた泉質にありました。硫黄泉が噴出する大涌谷は、呼吸器疾患や皮膚病に効果があると判断し、芦ノ湖に近い保養地としての潜在性も評価しました。
しかし、博士の計画は実現しませんでした。意見書提出後、1年以上放置され、最終的に却下されました。博士は、官有地の払い下げを希望し、自ら「模範温泉場」を経営することを切望していましたが、代わりに宮内省が直轄で温泉場を整備することになりました。
◆ベルツ博士の計画が実現しなかった背景

明治20年代の日本は、欧米列強との「不平等条約改正交渉」の真っ只中であり、この外交状況が博士の計画拒否に影響しました。
1. 不平等条約問題
●当時の条約の問題点:「領事裁判権(治外法権)」と「関税自主権」の欠如。
●改正の条件:欧米は「内地雑居(外国人の土地所有・居住を認めること)」を要求。
2. 当時の条約改正交渉中、「外国人に土地を渡すのは危険」と判断。
●ベルツ博士の官有地払い下げ要求が、外国人への土地開放の前例となる懸念。
●箱根は軍事・観光の要衝であり、御料地である大涌谷を外国人に管理させることは国益リスク。
●自由民権運動家らが外国勢力の侵入を批判する中、皇室の土地を外国人に渡すことへの国民感情への配慮。
結果として、ベルツ博士の案は却下されましたが、宮内省が博士のアイデアを受け継ぎ、大涌谷を御料地に編入して温泉開発を推進しました。
ベルツ博士の提言は実現しませんでしたが、その情熱は箱根の発展を促しました。宮内省も温泉療養を重視し、皇族の健康管理に活用しました。また、博士の提案がきっかけで大涌谷の価値が「発見」され、現代の「黒たまご」観光も間接的に博士の功績と言えます。
もし、宮内省がベルツ博士との共同が実現していたら、箱根はもっと国際的な療養地になっていたかもしれません。しかし、博士の夢は形を変えて実現し、今の箱根に息づいています。
◆箱根と皇室 ~ゆかりの場所~

「箱根」周辺には、皇室と歴史的に関係のある場所が数多く存在します。
▼「箱根離宮」(現・恩賜箱根公園)
明治19年(1886)に皇族方の避暑と外国からの大事なお客様をおもてなしするために建てられた離宮跡です。
▼宮ノ下に設けられた「御用邸」(現・菊華荘)
明治28年(1895)年建設。建設当初は、明治天皇の8番目の内親王・富美宮美津子さまがご静養に使用され、大正時代には、皇太子時代の昭和天皇がたびたび訪れられていました。そして、昭和9年(1933)に高松宮さまの別邸となりましたが、終戦後の昭和21年(1946)に富士屋ホテルに下賜され、「菊華荘」と命名されました。
▼強羅(ごうら)に建てられた「閑院宮さま別邸」(現・懐石料理 花壇)
旧宮家・閑院宮(かんいんのみや)の第6代当主・載仁(ことひと)親王は、強羅に別荘を持っていた実業家・岩崎康弥より敷地を譲り受け、昭5年(1930)に別邸を建てました。
植物学者でもあった昭和天皇が、昭和40年(1965)に来園されたときに、「これは大変珍しいものです」とお話になったと伝えられている桜があります。
昭和天皇や天皇陛下・皇后陛下ほか多くの皇族方がご来訪されました。
▼「富士屋ホテル仙石ゴルフコース」(※仙石原)
宮ノ下の「御用邸(現・菊花荘」)に滞在中の皇太子(後・昭和天皇)が、毎週、来場しゴルフをプレーしました。それ以来、昭和天皇と富士屋ホテルとの縁が深くなりました。
明治時代には、伊藤博文が定宿として度々訪れました。皇女和宮様、天璋院様も訪れています。
▼「葉山御用邸」(神奈川県三浦郡葉山町)
明治27年(1894)ベルツ博士が皇室の転地療養先として葉山を推奨したことにより建設されました。
▼「秩父宮記念公園」(静岡県御殿場市)
大正天皇の第2皇子・秩父宮雍人(やすひと)殿下と勢津子(せつこ)妃殿下は、昭和16年(1941)に御殿場に別邸をお建てになり、およそ10年間にわたり過ごされました。
ベルツ博士は、来日当初は生理学を講義しましたが、前任者の帰国後には内科学を担当し、臨床の重要性を説きました。その他、産婦人科学や診断学なども講義し、26年間にわたり東京大学医学部(当時の東京医学校)で学生の教育指導と患者の診療に尽力しました。その功績が認められ、明治25年には医科大学名誉教師の称号が贈られています。(※「エルウィン・ベルツ」より)
箱根の温泉の可能性を誰よりも早く見抜き、その発展を熱心に提言したベルツ博士。
皇太子殿下(後の大正天皇)の病状を救い、箱根離宮の建設を進言するなど、皇室からの信頼も厚かったベルツ博士が、大涌谷に国際的な「温泉療養施設を建設」するという壮大な夢を描いていたことは、あまり知られていません。
不平等条約改正という時代の大きな壁に阻まれ、その構想は実現を見ることはありませんでしたが、もし宮内省との協力体制が築けていたならば、箱根はさらに早く、世界に名だたる温泉療養地としての地位を確立していたかもしれません。
渋沢栄一翁が近代日本の礎を築くことに尽力したように、ベルツ博士もまた、日本の文化を深く愛し、箱根の自然の恵みを最大限に活かして人々の健康増進に貢献しようとした公益の人であったと言えるでしょう。
その熱意は、形を変え、現代の箱根の賑わいの中に確かに息づいているのだと思います。