箱根温泉 ~箱根七湯・十七湯・二十湯~ 【彰義隊の発起人・須永伝蔵シリーズ④】

山岳修業の聖地「箱根山」、奈良時代(738年)浄定坊による温泉発見、江戸の「箱根七湯巡り」、文化サロン、庶民の旅 ~多彩な文化が織りなす箱根の湯 

 

『神奈川県鳥瞰図(箱根部分)』(吉田初三郎 作品、1932年)
『神奈川県鳥瞰図(箱根部分)』(吉田初三郎 作品、1932年)
「現在の箱根」  ※「地図で見る箱根山の近代化」より(https://www.hakone.or.jp/files/w007_2021060909001389119.pdf)
「現在の箱根」  ※「地図で見る箱根山の近代化」より(https://www.hakone.or.jp/files/w007_2021060909001389119.pdf)

箱根の温泉地は古くから湯治場(とうじば)として知られていましたが、江戸時代初期になると塔ノ沢温泉や芦之湯温泉などが開かれ、貞享3年(1686)には湯本、塔ノ沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の七つの温泉場が整備され、これらは後に「箱根七湯」と総称されるようになりました。

 

これらの温泉地は、大都市・江戸から近いこともあり、江戸や関東近郊から湯治客が訪れるようになり、その数は増加していきました。将軍への献上湯や大名湯治も盛んに行われ、塔ノ沢や宮ノ下は大名湯治の場として特に賑わいを見せました。

 

また、湯治を目的として訪れる文人や墨客が、温泉地の人々との交流を通じて独自の温泉文化を育みました。芦之湯温泉の「東光庵(とうこうあん)」は、そのような文化人が集うサロン*として名を馳せ、現在でも境内に残る歌碑や句碑が当時の文化活動を物語っています。

* 国学者・賀茂真淵(1697~1769)本居宣長(1730〜1801)、狂歌師・蜀山人(大田南畝/1749~1823)、国学者・清水浜臣(1776~1824)など

 

さらに、箱根各地の温泉場は旅人たちの間で定着し、伊勢講や富士講といった庶民の旅によって賑わいを見せるようになりました。その中でも、各温泉場を巡って楽しむ「七湯廻り」の文化が生まれ、箱根の魅力がさらに広がっていきました。

 


◆箱根温泉 ~箱根7湯・8湯・17湯・20湯~

『七湯方角略図』( 広重模写/福住九蔵板/I-11-029/石本コレクションI) ※東京大学総合図書館蔵
『七湯方角略図』( 広重模写/福住九蔵板/I-11-029/石本コレクションI) ※東京大学総合図書館蔵

※東京大学デジタルアーカイブポータルHP『七湯方角略図』(石本コレクション)より

 

箱根は、山腹や山麓の各地で温泉が湧き出る湯治場として古くから栄え、箱根温泉郷が形成されました。

 

その歴史は深く、奈良時代にまで遡ります。

この頃の箱根山では、駒ケ岳や神山を中心とした山々が山岳信仰の聖域となり、多くの山岳修行僧たちが厳しい修行に励んでいました。

 

「熊野権現願文」(早雲寺文書)によれば、天平10年(738年)、当時関東に疱瘡が蔓延し人々が苦しむ中、加賀白山の開創者泰澄(たいちょう)の弟子である浄定(じょうじょう)が湯本を訪れました。浄定は白山権現を勧請し、十一面観音を安置して修法を行ったところ、たちまち霊泉(温泉)が湧き出し、それに浴した人々はことごとく疱瘡が治ったと伝えられています。

 

その後、箱根温泉が広く知られるようになったのは、豊臣秀吉の小田原征伐がきっかけです。長期滞陣した武士たちが、その疲れを癒すために温泉を利用したと伝えられています。

 

江戸時代には、徳川家光や徳川綱吉への献上湯も行われ、温泉番付では「芦之湯温泉」が「東前頭二枚目」に位置づけられるなど、その名声は高まりました。

 


◆『諸国温泉効能鑑』 ~温泉番付~

「諸国温泉効能鑑」  ※東京大学総合図書館蔵、資料番号(I-11-021)石本コレクション I
「諸国温泉効能鑑」  ※東京大学総合図書館蔵、資料番号(I-11-021)石本コレクション I

 

※東京大学デジタルアーカイブポータルHP「諸国温泉効能鑑」より

 

◆上記の温泉番付『諸国温泉効能鑑』において、東の大関は「上州・草津の湯」、西の大関は「摂州・有馬の湯」とされています。

箱根七湯と姥子温泉、箱根の全ての温泉がこの番付に掲載されています。

 

「芦之湯(あしのゆ)」は、東の前頭2枚目に位置し、「ひつひせん(カイセン・皮膚病)に良い」

「湯本(ゆのもと)」は、東の前頭9枚目で「諸病に良い」

「姥子(うばこ)」は、東の前頭22枚目で「眼病に良い」

「塔之沢(とうのさわ)」は、西の前頭26六枚目で「冷え性に良い」

「宮ノ下(みやのした)」は、西の前頭29枚目で「淋病に良い」

「木賀(きが)」は、東の前頭30枚目で「寸白(寄生虫)に良い」

「堂ヶ島(どうがしま)」は、西の前頭32枚目で「頭痛に良い」

「底倉(そこくら)」は、西の前頭38枚目で「疾(疾患)」に良いとされています。(※参照:箱ぴたHP「江戸時代の温泉番付」)

 

「箱根温泉全図」 ※いきいきネットHP「箱根を旅する案内サイト」(https://www.ikiiki9pon.net/hakone/)より
「箱根温泉全図」 ※いきいきネットHP「箱根を旅する案内サイト」(https://www.ikiiki9pon.net/hakone/)より

◆「箱根七湯(はこねしちとう)」

 

江戸時代には五街道の1つである東海道に沿った温泉として繁栄しました。この頃の「箱根七湯」は、湯本(ゆのもと)・塔ノ沢(とうのさわ)・堂ヶ島(どうがしま)・宮ノ下(みやのした)・底倉(そこくら)・木賀(きが)・芦之湯(あしのゆ)でした。 

姥子(うばこ)温泉も加えて「箱根八湯」と呼ぶ場合もあります。

 

① 「湯本(ゆのもと)」箱根で最も歴史のある温泉地、それが湯本温泉です。

 

●湯本温泉は、「箱根の玄関口」とも呼ばれます。

「新宿-小田原間」は、小田急小田原線が乗り入れ、特急ロマンスカーの終点となっています。

多くの観光客がここで箱根登山鉄道や路線バスに乗り換え、箱根の山々へと向かいます。

マイカーで箱根観光を楽しむ方も、ほとんどが箱根湯本を経由します。

 

2007年3月末現在、箱根温泉全体の源泉数は364ヶ所。

「湯本温泉」…77ヶ所が箱根湯本温泉に集中。

 

●箱根温泉全体の年間宿泊者数は約430万人で全国第1位。

「湯本温泉」…年間100万人を超える宿泊者数(箱根温泉全体の約25%を占める)

 

箱根湯本温泉は、歴史が古いだけでなく、箱根温泉の中で最も規模が大きく、箱根を代表する温泉地と言えます。

(※参照:ワクワクはこね温泉 第2回 菊川城司氏著「箱根湯本温泉」)

 

 

◆温泉の開湯

「熊野権現願文」(早雲寺文書)によれば、天平10年(738)、関東に疱瘡が蔓延し、人々は病苦に悩まされました。この時加賀白山の開創者泰澄(たいちょう)の弟子浄定(じょうじょう)が湯本に来て、白山権現を勧請し、十一面観音を安置し修法を行したところ、たちまち霊泉(温泉)が湧き出し、それに浴した人々はことごとく疱瘡が治った、とあります。

(※参照:箱ぴた「湯本湯の開湯」より)

 


◆「熊野神社」(箱根町湯本614) ~「湯場(ゆば)の鎮守」~

「箱根湯本 熊野神社」(神奈川県足柄下郡箱根町湯本614)
「箱根湯本 熊野神社」(神奈川県足柄下郡箱根町湯本614)
『箱根温泉発祥之地碑』 ※https://tesshow.jp/kanagawa/ashigarashita/shrine_yumoto_kumano.htmlより
『箱根温泉発祥之地碑』 ※https://tesshow.jp/kanagawa/ashigarashita/shrine_yumoto_kumano.htmlより
「熊野神社のこと(箱根湯本)」  ※https://www.tabirai.net/localinfo/article/article-15430/ より
「熊野神社のこと(箱根湯本)」  ※https://www.tabirai.net/localinfo/article/article-15430/ より

 

箱根湯本には、「熊野神社」が鎮座しています。この地が早くから温泉場としてひらけてきたことから、温泉の神様として、紀州の熊野権現を勧請し、「湯場(ゆば)の鎮守」として祀られてきました。「熊野」を音読みすると「ゆや=湯屋」となるところから、「温泉の神様」として祭ったといわれています。

現在も、自然湧出源泉「惣湯(そうゆ)」が社殿の下にあります。これは、奈良時代、加賀白山の開創者泰澄(たいちょう)の弟子である浄定(じょうじょう)により発見されたと伝わる古湯です。

鎌倉時代には、幕府の有力な武将も湯治にきており、戦国時代には、小田原北條の武将たちが、早雲寺に参詣のたびに温泉に浴したので「北條氏の足洗い湯」ともいわれてきました。

江戸時代の『新編相模国風土記稿』によれば「熊野社 湯場ノ鎮守ナリ。本地十一面観音像ヲ置。例祭九月九日」と記されています。

 


◆「白山神社」(箱根町湯本431)

「箱根湯本 白山神社」 
「箱根湯本 白山神社」 

※中世歴史めぐり「箱根湯本:白山神社」より

 

箱根湯本には、「白山神社」が鎮座しています。『新編相模国風土記稿』によれば「白山社 湯本村及湯本茶屋村ノ鎮守ナリ。」と記されています。

 

江戸時代まで「白山権現(はくさんごんげん)」と呼ばれ、地元の人々に温泉の守護神として崇められていました。石川県の「白山さん」と親しまれている白山神社総本宮の白山比咩(しらやまひめ)神社の御祭神を勧請したお社です。

 

天平年間(729-748年)に関東に塙瘡(ほうそう)が大流行した時、加賀白山霊場の開祖泰澄から派遣された弟子浄定*が、天平10年(738年)箱根に白山権現社を建て、十一面観音を祭ったところ山から霊泉が湧き出し、病を治したという伝承があります。

 

嘉永年間(1848~1854年)に、小田原北条氏の菩提所早雲寺の境内から現在地に移されたといいます。

 

本殿のさらに奥には、直径2m近い「白山神社大岩」があり、神が降臨した石として、人々の信仰を集めてきたと言われています。  

 

『白山神社大岩』  ©https://castle.sunnyday.jp/jisya2/hakonehakusanjinjya.html
『白山神社大岩』  ©https://castle.sunnyday.jp/jisya2/hakonehakusanjinjya.html

【箱根山に鎮座する神社】

「箱根山に鎮座する神社」   ※https://www.hakone.or.jp/4483「地図で見る箱根山の近代化」に加筆
「箱根山に鎮座する神社」   ※https://www.hakone.or.jp/4483「地図で見る箱根山の近代化」に加筆

※箱根山に鎮座する神社の詳細につきましては、「箱根神社」HPのこちらをご覧ください。

https://hakonejinja.or.jp/hakone/zenzan.html

 


 

② 「塔ノ沢(とうのさわ)」… 塔ノ沢温泉は、慶長10年(1605年)に開湯しました。箱根火山の外輪山「塔ノ峰」の南麓にあり、早川が外輪山を侵食してできた渓流沿いに湧き出る温泉です。

塔ノ沢は、古くから「勝驪山(しょうりざん)」という別名でも呼ばれてきました。

この「勝驪山」という名は、かつて水戸光圀とともに塔ノ沢を訪れた儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)が、この地の美しさと泉質の良さに感銘を受け、明代中国で最高の温泉地であり、歴代皇帝の別荘地でもあった「驪山(りざん)」よりも優れているという意味を込めて、「勝驪山」と名付けました。以来、「勝驪山」は「塔ノ沢」の代名詞として広く知られるようになりました。

塔ノ沢温泉には数多くの旅館がありますが、中でも特に注目すべきは「福住楼(ふくずみろう)」と「環翠楼(かんすいろう)」です。福住楼は京風数寄屋造り、環翠楼は木造の高層建築という特徴を持ち、共に国の登録有形文化財に登録されている、格式高い老舗旅館です。

 

▼「福住楼」

明治23年(1890年)に創業した「福住楼(ふくずみろう)」は、福澤諭吉をはじめ、夏目漱石、島崎藤村、川端康成など、多くの文人墨客が逗留した歴史ある老舗旅館です。

▼「環翠楼」

「環翠楼(かんすいろう)」は、伊藤博文と、将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮と深い縁があります。

●【伊藤博文とのゆかり】

伊藤博文は、定宿としてたびたび当楼を訪れていましたが、ある時、当時の楼主である鈴木善左衛門に漢詩『勝驪山 下翠雲隅 環翠楼頭翠色開 来倚翠欄旦呼酒 翠巒影落掌中杯』を贈りました。この漢詩の一節から、「環翠楼」という屋号が生まれたのです。

※伊藤博文が贈った漢詩の意味:驪山(りざん)を凌ぎ勝るこの地に、青緑色の雲がたなびいている。環翠楼(かんすいろう)のあたり、鮮やかな緑に囲まれている。やがて私は欄干に寄りかかり、朝に酒を求め、青々とした山々の影が手のひらに持つ杯の中に映り込む景色を堪能した。

●【皇女和宮とのゆかり】

皇女和宮は、31歳の頃より脚気を患い、伊藤博文の勧めもあって、明治10年(1877年)8月から箱根塔之沢の「環翠楼(かんすいろう)」に静養のため滞在しました。一時は快復され、歌会を開くほどになったのですが、同年9月2日にこの地で逝去。享年32歳でした。

 

▼塔ノ沢「阿弥陀寺」

塔ノ峰の中腹には、「あじさい寺」として知られる浄土宗の名刹「阿弥陀寺(あみだじ)」があります。

この阿弥陀寺は、木食修行中の弾誓上人が、慶長9年(1604年)から6年もの歳月をかけて洞窟で修行し、開いた浄土宗の寺院です。徳川将軍家の菩提寺である東京芝の「増上寺」の末寺(修行寺)でした。

明治10年9月に皇女和宮が逝去した後、阿弥陀寺の住職は、「増上寺」での本葬に先立ち、通夜と密葬を執り行いました。その後、阿弥陀寺は和宮のご位牌を祀る場所として「和宮香華院(こうげいん)」とも呼ばれるようになり、本堂には和宮生前、御念持仏として信仰していた「黒本尊阿弥陀佛」が現在も安置されています。

 

③ 「堂ヶ島(どうがしま)」堂ヶ島温泉は、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、政治や文化の分野で功績を残した臨済宗の僧侶・夢想疎石(夢窓国師/1275~1351)が開いたと伝えられています。夢窓疎石は、「枯山水」の完成者として世界史上最高の作庭家の一人でもあります。堂ヶ島の美しい風景と閑静な雰囲気を愛し、現在でも「草庵跡」が残されています。

「堂ヶ島」という名前の由来ははっきりしていませんが、『箱根七湯の枝折』には「堂ヶ島は究(きわ)って凹なる所にて早川三方を遮り其(そ)のさま少しく島のかたちをなせり」と記されており、温泉場がまるで島のように見えることからこの名が付けられたと考えられています。

堂ヶ島温泉の最大の特徴は、早川渓谷の深い谷底に位置している点です。現在も2軒の旅館が営業していますが、急峻な谷で車が入れないため、宿泊客はそれぞれの旅館が所有するロープウェーとモノレールを利用して、国道 1 号線から早川の谷底へと下りて行きます。

 

④ 「宮ノ下(みやのした)」宮ノ下温泉の名前は、「熊野神社」の宮の下に温泉場が開かれたことに由来します。 熊野は「ゆや」とも読み、「湯屋」すなわち温泉の神として古くから信仰されてきました。

その宮ノ下温泉に自然湧水が初めて発見されたのは、室町時代の応永5年(1398)です。

 

▼「富士屋ホテル」創業

明治11年(1878年)、山口仙之助「富士屋ホテル」を創業しました。しかし、当時「湯本」から「宮ノ下」への道のりは険しく、明治時代初期までは徒歩、馬、駕籠といった手段に頼るしかありませんでした。

そこで明治20年(1887年)、山口仙之助は集客のため、「塔ノ沢-宮ノ下間」に人力車が通行できる有料道路を完成させました。この道路の開通をきっかけに、温泉地を結ぶ新たな道路の建設が次々と進められ、箱根の温泉場は発展を遂げていきました。

富士屋ホテルには、昭和天皇やタイ国王、オーストリア皇太子などの皇族、王族が宿泊しているほか、ヘレン・ケラー、チャーリー・チャップリンなど、箱根を訪れる国内外の多くの著名人に愛用されました。

 

▼「宮ノ下御用邸」造営

明治28年(1895年)には、「宮ノ下御用邸」が造営されれ、その後昭和9年(1934年)には「高松宮別邸」となりました。高松宮別邸は、昭和21年(1946年)に富士屋ホテルに払い下げ、現在は同ホテル別館「菊華荘」となっています。

 

⑤ 「底倉(そこくら)」底倉温泉は、江戸時代から七湯の一つに数えられていました。「宮ノ下温泉」と隣接し、蛇骨川(じゃこつがわ)に架かる八千代橋の手前を折れて下ります。明治期には、外国人が宮ノ下を好むのに対して、日本人に好まれる温泉として栄えました。

戦国時代、豊臣秀吉が小田原攻めのときに蛇骨川(じゃこつがわ)の川原に掘らせたという伝説の太閤石(いわ)風呂も残っています。毎年8月上旬に熊野神社で催される「太閤ひょうたん祭」は、太閤秀吉ゆかりの祭です。

 

⑥ 「木賀(きが)」木賀温泉は、宮ノ下温泉に近く、箱根七湯の中で2番目に長い歴史を持ちます。開湯は平安時代末期〜鎌倉時代初期とされます。治承・寿永の乱の折、源頼朝の家人であった木賀善司吉成(きがぜんじよしなり)が、合戦の折負傷し、箱根の山中に分け入ると、白狐が現れ、吉成を温泉に導いたとの伝説が残ります。その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後その地の地頭の任に就いた吉成により地名が木賀とされ、「木賀温泉」の名称がついたといいます。吉成を導いた白狐は吉成の妻となり、死後、白狐稲荷として奉られたとされます。

明治15年頃、ドイツの医師ベルツ博士は、木賀の渓谷美を好んで別荘を設けました。その後、国道138号沿いは、亀屋、いせや、松坂屋などが軒を連ねるほどの繁栄を示しました。国道138号の八千代橋を過ぎると、すぐに木賀温泉地区に入ります。

 

⑦ 「芦之湯(あしのゆ)」芦之湯温泉は、江戸時代の温泉番付『諸国温泉効能鑑』では東前頭筆頭に選ばれ、箱根七湯の中でも最も上位に記されています。

芦之湯温泉は、 鎌倉時代後期にはすでに温泉が湧いていたことが残された史料から読み取ることができます。湯治場 (とうじば) として発展するのは、 江戸時代になってからで、 当時芦之湯には6軒の湯宿がありました。それぞれの宿に内湯はなく、 湯治客は惣湯 (そうゆ) と呼ばれる共同浴場を利用しました。 「箱根七湯図会 (はこねななゆずえ)」の中央にある背の低い建物 (半地下構造になっていました) が惣湯の建物です。江戸時代になると、街道が須雲川沿いの東海道に移りましたが、芦之湯は湯治場 (とうじば) として整備されました。現在でも湯治場としての歴史を物語る熊野神社や、当時のサロンである師堂「東光庵」(復元)などの見所があります。明治時代になり、近代化に対応するため、村人の努力により今の国道1号が整備されて車両が通れるようになると、芦之湯は再び箱根の中の主要道沿いに位置することになりました。

(※箱根町HP「芦之湯・芦ノ湖 、 歴史散歩1」より)

 

⑧ 「姥子(うばこ)」姥子温泉開湯は古く、遅くとも鎌倉時代には眼病に効く湯としてその存在が知られていました。姥子の名は、金太郎こと坂田金時にまつわる伝説に由来します。枯れ枝で傷めた金太郎の目を、母親である山姥(乳母との説もある)が箱根権現のお告げに従ってこの湯で洗い、完治させたと伝えられます。

江戸時代・天保年間の温泉番付では東の前頭22枚目にその名が挙がっています。街道筋から離れているため箱根七湯には数えられませんでしたが、歴史の古い当温泉を加えて箱根八湯の名で呼ばれています。

 


◆「箱根十七湯」

「箱根温泉全図」 ※いきいきネットHP「箱根を旅する案内サイト」(https://www.ikiiki9pon.net/hakone/)より
「箱根温泉全図」 ※いきいきネットHP「箱根を旅する案内サイト」(https://www.ikiiki9pon.net/hakone/)より
「現在の箱根」  ※「地図で見る箱根山の近代化」より(https://www.hakone.or.jp/files/w007_2021060909001389119.pdf)
「現在の箱根」  ※「地図で見る箱根山の近代化」より(https://www.hakone.or.jp/files/w007_2021060909001389119.pdf)

 

また新たな源泉の掘削開発も行われ、歴史ある「箱根八湯」に加え、明治以降に開かれた以下の9つの温泉を合わせて「箱根十七湯」と称しました。

 

① 「小涌谷(こわくだに)」古来「小地獄」と呼ばれていました、明治天皇の行幸に際して改名。明治10年(1877)頃より温泉地としての開発が始まった。

 

② 「強羅(ごうら)」…明治27年(1894)に「早雲地獄(早雲山)」からの引湯で開発が始まり、明治45年以降、「温泉付別荘分譲」が始まり、大正8年(1919)の登山鉄道開通後に本格化しました当時は早雲山や大涌谷などからの引湯による温泉でしたが、昭和27年(1952)初めて温泉掘削に成功し、以後、数多くの温泉が掘り当てられました。

 

③ 「大平台(おおひらだい)」大平台温泉郷は戦国時代からの古い村落で、温泉地になる前は「箱根細工」の名産地。昭和24年(1949)地元の有志たちによって温泉を掘り当て、箱根十七湯となりました。

 

④ 「宮城野(みやぎの)」名前の由来は、歌枕で名高い宮城野(現仙台市)に似ていたからと言われます。温泉の発見は昭和40年(1965)と遅く、それから保養所や寮が建てられるようになりました。

 

⑤ 「二ノ平(にのたいら)」二ノ平は、神山溶岩流の末端に位置し、強羅と小涌谷の間にはさまれた台地に位置し、昭和38年(1963)に温泉が湧出して開かれた新しい温泉。昭和46年(1971)に彫刻の森美術館がオープンすると、登山鉄道の「二ノ平駅」も「彫刻の森駅」と改称。以後、人気のスポットとして知られるようになりました。彫刻の森美術館の裏手には、南朝最後の人と言われる新田義則(新田義貞の孫)を弔った「新田塚(MAP)があります。

 

「新田塚」(神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下525) 彫刻の森美術館に挟まれた細い道路沿いに静かに佇んで います。新田塚は「底倉温泉」で命を落とした新田義則の墓だと伝えられています。
「新田塚」(神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下525) 彫刻の森美術館に挟まれた細い道路沿いに静かに佇んで います。新田塚は「底倉温泉」で命を落とした新田義則の墓だと伝えられています。

⑥ 仙石原(せんごくはら)」箱根温泉郷の最奥、標高700m前後の広い草原に位置する温泉リゾートです。

上湯(かみゆ)、下湯(しもゆ)、元湯(もとゆ)、俵石(ひょうせき)、仙石(せんごく)の5地区に分かれ、これらを総称して「仙石原温泉」と呼びます。温泉利用は元文元年(1736)、大涌谷の引湯に始まります。

昭和5年(1930)、渋沢栄一翁と益田孝が『箱根温泉供給(株)』を設立し、「仙石原村への安定した温泉供給事業」を開始。温泉の集中管理という現代的な概念を先駆けて導入し、安定的な温泉供給を実現しました。

 

渋沢栄一翁らが中心となって設立された『箱根温泉供給(株)』は、仙石原を含む奥箱根地域に温泉を供給することで、その後の仙石原の発展に大きく貢献しました。

仙石原では現在も、大涌谷(硫黄泉=白濁湯)と姥子(透明湯)の引湯を集中管理して各旅館・ホテルに供給しています。

 

⑦ 「湯ノ花沢(ゆのはなさわ)」駒ヶ岳東斜面の海抜約950m地点、箱根の温泉十七湯の中では最も高い位置にある温泉。神山と駒ヶ岳の間にある「湯の花沢」という場所には、小さな噴気孔や自然湧出する温泉が点在しています。明治23年(1890)頃、この自然湧泉が利用され始め、湯の花沢温泉が誕生しました。

 

⑧ 「芦ノ湖(あしのこ)」昭和41年(1966)に「湯の花沢温泉」から湯を引いて生まれたのが芦ノ湖温泉です。

 

⑨ 「蛸川(たこがわ)」箱根十七湯の中で最も新しい温泉。九頭龍神社の南側に位置する。当初は芦ノ湖温泉と共に「元箱根温泉」を構成していたのが、昭和62年(1987)に駒ケ岳ロープウェーの北側に温泉が噴出。分離独立する形で平成5年(1993)に誕生しました。

 


◆「箱根二十湯」

 

この他、「大涌谷温泉」・「湖尻温泉」・「早雲山温泉」の3つを合わせて「箱根二十湯」とも呼ばれます。

 

① 「大涌谷(おおわくだに)」…明治20年(1887)、ドイツ人医師のベルツ博士は宮内省に対し、「帝国の規模となるべき一大温泉浴場設立意見書」を提出し、箱根大涌谷の温泉を「日本一」と評しました。

 

昭和5年(1930)には、渋沢栄一翁と益田孝が中心となり、温泉の製造と配湯を目的とした『箱根温泉供給株式会社』が設立されました。これにより、泉源がなく温泉を提供できなかった仙石原や強羅の旅館やホテルなどへ広く温泉が配湯されるようになりました。

 

② 「湖尻(こじり)」…湖尻温泉は、芦ノ湖の北の湖畔にあります。1960年以降、箱根町内の交通シェアの主導権争い「箱根山戦争」を契機に、大型の観光船が停泊する「湖尻港(休止中)」や、「桃源台港」の周辺に拓けた温泉場です。

湖尻温泉では、昭和41年(1966)に最初の源泉が掘削され、現在までに源泉が10本開発(※箱根温泉の源泉は全部で349ヶ所)されています。

箱根火山には地表では形がはっきりとは見えない小さなカルデラ構造が少なくとも 4 つあることが判っています。湖尻温泉の源泉は、そのうちの一つである湖尻潜在カルデラ構造の内部やその周辺にあります。

(※参照:菊川城司氏著「ワクワク はこね温泉 第16回 湖尻温泉・蛸川温泉・芦ノ湖温泉」『神奈川県温泉地学研究所観測だより(第74号、2024年)』)

 

③「早雲山(そううんざん)」…早雲山温泉は、箱根ロープウェイの始発駅でもある「早雲山駅(MAP)の近くにありますこの温泉は、神奈川県足柄下郡箱根町強羅に位置する「最乗寺 箱根別院(MAP)の境内から湧き出ています。

(※神奈川県南足柄市に位置する「大雄山最乗寺」は、天狗伝説で知られる、600年以上の歴史を持つ曹洞宗の古刹です。この寺は、全国に4千以上の門流を持つ曹洞宗の大寺院としても有名です。「最乗寺 箱根別院」は、「大雄山最乗寺」の箱根にある別院にあたります。)

「早雲山(MAP)の北東斜面には、箱根山最高峰「神山」の「爆裂火口」である「早雲地獄」があり、大涌谷と同様に活発な噴気活動が見られます。

 

【参考】

・神奈川県温泉地学研究所ホームページ(https://www.onken.odawara.kanagawa.jp/)

ワクワクはこね温泉 第1回「箱根二十湯」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第2回「箱根湯本温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第3回「塔之沢温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第4回「大平台温泉」(菊川城司氏著

ワクワクはこね温泉 第5回「堂ヶ島温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第6回「宮ノ下温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第7回「底倉温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第8回「木賀温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第9回「小涌谷温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第10回「二ノ平温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第11回「強羅温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第12回「宮城野温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第13回「芦之湯温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第14回「噴気地帯の温泉場:大涌谷・早雲山・湯ノ花沢温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第15回「姥子温泉・仙石原温泉」(菊川城司氏著)

ワクワクはこね温泉 第16回「湖尻温泉・蛸川温泉・芦ノ湖温泉」(菊川城司氏著)

 


◆【大正~昭和期:箱根の開発】~箱根山戦争~


明治以後、箱根は保養地、観光地としての開発が進みました。終戦後西武鉄道グループと小田急・東急グループの「箱根山戦争」の舞台して乗客の誘致合戦が行われた結果、多くの観光客が訪れました。

 

※「箱根山戦争」についての詳細は、こちらの記事もご覧ください。