「箱根越えルート」の変遷 ~古代から現代まで~ 【彰義隊の発起人・須永伝蔵シリーズ③】

足柄峠と坂東、中世の六地蔵、近世の箱根八里、近代の箱根7湯、現代の箱根駅伝、志田威先生

 

「箱根道」の移り変わり  出典:『はこね 改訂版』(箱根町教育研究会、1972年)
「箱根道」の移り変わり  出典:『はこね 改訂版』(箱根町教育研究会、1972年)

 

「箱根越え」の道筋は、各時代の移り変わりとともに変化しました。

 


①. 「碓氷道(うすいみち)」(大和・飛鳥時代)

~箱根最古の道~

箱根で最も古い道路と言われます。

古くは乙女峠-仙石原-碓氷峠-宮城野-明神ヶ岳-坂本(南足柄市関本)の碓氷道(みち)が使われていたようです。「乙女峠」と「明神ヶ岳」の2ヵ所で外輪山を横断します。

 


②. 「足柄道(あしがらみち)」(奈良・平安時代)

~足柄峠と足柄明神、坂東の起源~

「足柄道」  ※https://kodo.jac1.or.jp/kodo120_detail/asigara/ に加筆
「足柄道」  ※https://kodo.jac1.or.jp/kodo120_detail/asigara/ に加筆

7世紀後半から本格化した律令制の導入に伴い、8世紀には中央政府と地方を結ぶ官道が整備され、駅制が設けられました。箱根山周辺にも、この官道の一つである「東海道」が整備されました。

しかし、険しい箱根山を直接越えるのではなく、その北側に位置する「金時山」(標高1,213メートル)のさらに北にある「足柄峠」(標高759メートル)を越える「足柄道(あしがらみち)」が古代東海道のルートとして採用されました。標高の低い地点を通ることで、比較的容易な通行が可能だったためです。

 

⼀⽅この頃の箱根⼭では、多くの⼭岳修⾏僧たちの厳しい修業の場となっていました。「箱根⼭縁起幷序(はこねさんのえんぎならびにじょ)」(箱根神社蔵)によれば、駒ケ岳や神⼭を中⼼とした箱根⼭全体が⼭岳信仰の聖域となっていたことがうかがえます。その修⾏僧のひとりである万巻上⼈は、箱根⼭中での修⾏の末、奈良時代の天平宝字元年(757年)に、芦ノ湖畔に「箱根三所権現」を勧請し、箱根権現(現在の箱根神社)を創建したと伝えられています。

 

◆『万葉集』と足柄

足柄峠を通る「足柄古道」は、古くから官道として利用され、東国から九州の警備に向かう防人(さきもり)たちが、故郷を振り返り懐かしんだ場所でもあります。『万葉集』には、彼ら防人や東国の人々が詠んだ歌が多く収録されており、その中でも「足柄」という地名が入った歌は約20首見られます。足柄峠から北東へ約600メートルに位置する「足柄万葉公園」には、万葉集に登場する足柄ゆかりの歌を刻んだ歌碑7基と、歌に詠まれた花木が植栽されています。 

 

◆日本の東西を分ける場所としての「足柄峠」 ~「坂東」の起源~

ヤマトタケルの遠征経路  ※『日本の神様を知る』(平藤 喜久子、宝島社、2023年)より
ヤマトタケルの遠征経路  ※『日本の神様を知る』(平藤 喜久子、宝島社、2023年)より
ヤマトタケルの皇后「オトタチバナヒメ(弟橘媛)」 『前賢故実』より  ※海が荒れた際に、「オトタチバナヒメ(弟橘媛)」が、ヤマトタケルの身代わりとなって海に入水(じゅすい)する場面。
ヤマトタケルの皇后「オトタチバナヒメ(弟橘媛)」 『前賢故実』より  ※海が荒れた際に、「オトタチバナヒメ(弟橘媛)」が、ヤマトタケルの身代わりとなって海に入水(じゅすい)する場面。

「足柄峠」は、東国と西国を結ぶ重要な地点であり、日本の歴史を語る上で欠かせない地域です。

かつては「足柄坂」とも呼ばれていました。

 

『古事記』によると、ヤマトタケルが東征のため、走水(はしりみず・現在の神奈川県横須賀市)から上総へ船で向かう際、海が荒れて進めなくなりました。その時、ヤマトタケルの皇后である「オトタチバナヒメ(弟橘媛)」は、海神の怒りを鎮めるため自ら海に身を投げたとされています。

(→※『古事記』記載箇所)

 

東征を終え、荒ぶる蝦夷や山の神々を平定したヤマトタケルは、足柄峠で亡き妻を偲び「吾妻はや(ああ、わが妻よ)」と嘆きました。この言葉が「東(あずま)」の語源になったという言い伝えがあります。

(→※『古事記』記載箇所)

 

当時、東国は「坂東」と呼ばれていましたが、この「坂」は足柄峠の坂を指していました。

箱根山から続く山々の地形は、古くから日本の「東国と西国を隔てる境界」として認識されていたのです。

(※古事記と日本書紀において、ヤマトタケルの東征ルートなどには様々な違いが見られます。)

 

◆「東(あずま)」の語源 ~辺境としてのアヅマ~

西郷信綱氏の「古事記註釈」によると、「あずま」の「ア」は接頭語で、本体は「ツマ」にあると考えられています。「ツマ」は「端(はし)」を意味する「つま」に通じ、「ツマル」や「ツム(詰む)」といった言葉と関連付けられます。

このことから、「アヅマ」は「辺境の地」という意味合いを持っていたのではないかと考えられています。

(※ジャパンナレッジ「第95回 あづまはや(3)」より)

 

◆ その後の「足柄道」

●建武2年(1336年)、「箱根・竹ノ下の戦い」で、足柄峠に陣取った足利尊氏軍が、新田義貞の分隊を率いて西から攻めた脇屋義助を竹ノ下で破り、この戦いが南北朝時代の幕開けとなりました。

 

●戦国時代には、北条氏によって「足柄城」が築かれ、豊臣軍に対する防衛拠点となりました。

 

●江戸時代になり、箱根峠を越える「旧東海道」が整備されると、足柄道は「矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)」と呼ばれる脇往還となり、天狗伝説で知られ、600年以上の歴史を持つ曹洞宗の古刹「大雄山最乗寺(だいゆうざん さいじょうじ)大山(おおやま)、富士山などへの参詣道として利用されました。

 

「江戸時代の大山道(主要8ルート)」   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/大山道 に加筆
「江戸時代の大山道(主要8ルート)」   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/大山道 に加筆
歌川広重『東海道五十三次細見絵図 程ケ谷』(国立国会図書館蔵)
歌川広重『東海道五十三次細見絵図 程ケ谷』(国立国会図書館蔵)

『大山詣り』では、大山講中が江戸から木製の太刀を担いで神前に奉納しました。

広重の『東海道五十三次細見絵図 程ケ谷』の右奥の人物が担いでいるのが「納めの大太刀」です。

初めは約30cmほどの長さでしたが、次第に「大きいほど粋」とされるようになり、なかには7mを超えるものまで納められるようになりました。

これは、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が、平家討伐を祈願するために大山寺を訪れた際、自らの太刀を奉納したことに由来すると言われています。頼朝にあやかりたい庶民の招福除災の願望と結びつき「納めの大太刀」の信仰が生まれました。

 

◆『古事記』と坂の神「足柄明神」

「足柄明神」の石祠  ※元宮の地にて(神奈川県南足柄市矢倉沢字明神)  ©https://omairi.club/spots/99277/point
「足柄明神」の石祠  ※元宮の地にて(神奈川県南足柄市矢倉沢字明神)  ©https://omairi.club/spots/99277/point

『古事記』には、ヤマトタケルが蝦夷打倒の東征からの帰路、「足柄峠」で、「白鹿」を蒜(ひる=葱)で打ち殺したことで東国を平定したという記述があります。

(→※『古事記』記載箇所)

この白鹿こそ、坂の神=「足柄明神」の化身でした。

足柄明神は、「坂東人」の誇りを守った古代の英雄でした。

矢倉沢の地域の人たちは、1500年以上も前からこの元宮の地(神奈川県南足柄市矢倉沢字明神)で足柄明神を産土神(うぶすながみ)として祀ってきました。

 

◆「足柄明神」の移り変わり ~神社の変遷~

「足柄神社(あしがらじんじゃ)」(神奈川県南足柄市苅野274)
「足柄神社(あしがらじんじゃ)」(神奈川県南足柄市苅野274)

① 天慶3年(940年)、「足柄明神」創建。

② 平安時代末期、「足柄明神」は「矢倉岳」の山頂へ遷座し、「矢倉明神」と改称。

③ 室町時代初期、「矢倉明神」は「苅野(かりの)」(現在の足柄神社鎮座地・神奈川県南足柄市苅野274)へ遷座し、足柄上郡十八ヶ村の鎮守となりました。

④ 明治維新後、「矢倉明神」は「矢倉神社」と改称されました。

明治6年(1873年)、「矢倉神社」はご祭神を「日本武尊」に改めました。

⑥ 同じく明治6年(1873年)、「矢倉神社」のご祭神変更に異を唱えた地域の人々によって、「足柄明神」は元の鎮座地である「足柄坂」へと戻されました。現在ある石詞は、明治6年(1873年)に足柄明神を祀るために建てたものです。

⑦ 一方、昭和14年(1929年)、南足柄市苅野に鎮座する「矢倉神社」は、重巡洋艦「足柄」の竣工に合わせて「足柄神社」と改称しました。

 

◆ 元宮の地「足柄坂」で、「足柄明神」の記憶を伝えるための活動

「白鹿立像」(足柄峠の足柄明神)の開眼式(2015年5月1日)  ※出典:https://www.kanaloco.jp/news/culture/entry-59112.html
「白鹿立像」(足柄峠の足柄明神)の開眼式(2015年5月1日)  ※出典:https://www.kanaloco.jp/news/culture/entry-59112.html

明治6年(1873年)、「矢倉神社(現・足柄神社)」が祭神を「日本武尊」に改めました。

それに異を唱えた地元の人々により、「足柄明神」は古来からの鎮座地である「足柄坂」(足柄峠)へ再び祀られました。

 

その後、地元の有志の方々によって、平成22年(2010年)には「鳥居」と「案内板」が、平成27年(2015年)には「白鹿立像」が建立されました。

さらに、令和5年(2023年)には、足柄明神が本宮の地である足柄坂に戻って150年という節目を迎え、「鳥居」が再建され、足柄明神鳥居再建御披露目式典が執り行われました。

 

「足柄明神のご案内」(神奈川県南足柄市矢倉沢)  ※ https://ameblo.jp/numabe3/entry-12829777342.html より
「足柄明神のご案内」(神奈川県南足柄市矢倉沢)  ※ https://ameblo.jp/numabe3/entry-12829777342.html より

 

◆『足柄明神のご案内』案内板より※MAP

 

ここ南足柄市矢倉沢(やぐらさわ)字明神は、1500年以上も昔から足柄の開拓者たちが足柄明神を産土神(うぶすながみ)として祀ってきた元宮の地です。

足柄明神は、『古事記』によると、東国平定の帰りに食事をしているヤマトタケルノミコトを、白い鹿になって襲って打ち殺された坂の神です。坂東人(ばんどうびと・関東地方の人)の誇りを守った古代の英雄なのです。

『国名風土記(こくめいふどき)』の足柄明神は、亡き妻の鏡に相模(さかみ)を見る愛妻家で「相模国の起源だと書いてあります。

『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』等によると、足柄明神の神楽歌「足柄十首(あしがらじゅっしゅ)」は、巫女(ミコ)であった坂田金時(金太郎)の母たちによって伝えられ、800年ほど昔、後白河天皇ものどをつぶして練習・伝承されています。

今あります足柄明神の石祠(ほこら)は、1873年(明治6年)、矢倉神社(現・足柄神社)が、足柄明神を祭神から消して、ヤマトタケルノミコトと入れ替えたので、氏子から抜けた田代静平ら矢倉沢村の人びとが、足柄明神社を再建し護持して来たものです。

またここは、足柄城の明神くるわ跡で、ランドマークタワーから房総・三浦半島、江ノ島・酒匂川・大涌谷・金時山までの旧五か国を車椅子でも展望できる景勝地です。そばに天然記念物級の金太郎赤松もあります。

以上のように、足柄明神社地は、足柄の史跡・景勝地であります。しかるに足柄万葉公園からも外れ、森の陰で眠らされていました。

わたしたちは、先人が護ってきた足柄明神を知っていただくために境内(国有地)への入口(五か市町組合地)に紅白の鳥居と案内版を建立しました。」   2010年8月 足柄明神の鳥居を立てる会

 

「足柄明神の鳥居・石祠・白鹿立像」※ https://ameblo.jp/numabe3/entry-12829777342.html より

 


③. 「湯坂道(ゆさかみち)」【鎌倉古道】(鎌倉・室町時代)

~頼朝の「参詣道」として発展、中世・信仰の道~

 

「箱根越えルートの移り変わり」  ※(八十島・花岡『交通計画』1986年)に加筆
「箱根越えルートの移り変わり」  ※(八十島・花岡『交通計画』1986年)に加筆
「湯坂古道マップ」  ※https://kodo.jac1.or.jp/kodo120_detail/60_hakoneyusakamiti/ に加筆
「湯坂古道マップ」  ※https://kodo.jac1.or.jp/kodo120_detail/60_hakoneyusakamiti/ に加筆

奈良・平安時代の古代東海道は、箱根山の西側、御殿場から足柄峠を越える「足柄道」が用いられていましたが、802年の富士山噴火により通行困難となりました。

そのため、新たに開かれたのが「湯坂道(ゆさかみち)」です。

 

この湯坂道は、湯本から「湯坂山、浅間山、鷹巣山」といった前期中央火口丘の “尾根筋” を通り、「箱根権現」前に広がる芦ノ湖畔へと至ります。さらに湖畔から箱根峠を越え、「三島方面」へと下るルートでした。

 

このルートが整備されたのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、文治4年(1188年)正月より始めた、「箱根権現」、「伊豆山権現」、「三島大社」というゆかりのある寺社へ参詣する「二所詣(にしょもうで)」の参詣道としてでした。その後も歴代将軍が二所詣を行うようになり、「湯坂道」の整備は進みました。

源頼朝を尊敬していた徳川家康も崇拝したので、武門による崇敬の篤い神社として、箱根権現は栄えました。

 

 これに伴い、山麓を迂回する足柄道に比べて、道程が短い湯坂道が次第に利用されるようになりました。「湯坂路」の往来が盛んになると、この道の起点となる「湯本」には、休泊施設も整い、宿場が形成されました。

 

文治4年(1188年)正月から源頼朝が始めた「箱根権現」・「伊豆山権現」・「三島大社」というゆかりのある寺社へ参詣する「二所詣(にしょもうで)」  ※©https://shonan-journal.com/magazine/15686/
文治4年(1188年)正月から源頼朝が始めた「箱根権現」・「伊豆山権現」・「三島大社」というゆかりのある寺社へ参詣する「二所詣(にしょもうで)」  ※©https://shonan-journal.com/magazine/15686/

◆「地獄」を想起させた箱根と「地蔵信仰」

「元箱根石仏群マップ」
「元箱根石仏群マップ」

「湯坂道」沿いの「精進池(しょうじんがいけ)」の周辺には、多くの地蔵菩薩像や石塔が建てられています。

これらの石仏や石塔の群れは、鎌倉時代後期にこの一帯が中世の「地蔵信仰の霊場」であったことを示しています。

精進池周辺に地蔵菩薩が数多く造られ祀られたのは、この地が「地獄」のように恐れられていたことと深く関わっています。当時、地蔵菩薩は現世利益をもたらすと信じられる一方、六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻転生する人々を救済する仏様として、武士から庶民まで広く信仰されていました。六道を巡る人々を救う「地蔵菩薩」は、この地を通る旅人にとって、旅の安全を願い、苦しみから救ってくれる存在だったのです。

これらの歴史的価値から、個々の石仏・石塔は国の重要文化財に、そしてその全体は「元箱根石仏群」として国の史跡に指定されています。

 

●「永仁四年」(1296年)の銘がある、高さ約3メートル(相輪を除く)の「石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)」(俗称 多田満仲の墓)には、この地が「精進池之霊泉」を湛える「筥根山之勝地」であり、「六道」の交わる霊地であることが記されています。

 

●精進池周辺にはこの他にも、「正安二年」(1300年)の銘がある元箱根磨崖仏(まがいぶつ)・「俗称 六道地蔵」や、「永仁元年」(1293年)の銘がある磨崖仏(まがいぶつ)・「俗称 二十五菩薩」などの磨崖仏群も見られます。

 

元箱根磨崖仏「俗称 六道地蔵」  ※大きな岩盤に彫られた高さ3.5メートルに及ぶ「地蔵菩薩坐像」で、鎌倉時代に造られた磨崖仏(まがいぶつ)としては線刻のものを除くと関東で最大級のものです。(※現在は、覆屋で保護されています。)
元箱根磨崖仏「俗称 六道地蔵」  ※大きな岩盤に彫られた高さ3.5メートルに及ぶ「地蔵菩薩坐像」で、鎌倉時代に造られた磨崖仏(まがいぶつ)としては線刻のものを除くと関東で最大級のものです。(※現在は、覆屋で保護されています。)

④.「旧東海道」(江戸時代)

~家康が、「江戸防衛の最前線」とした整備した「箱根八里」の東海道~

(現在の神奈川県道732号)

「東海道・箱根宿・箱根関所と5つの脇関所・脇往還の位置関係」  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/箱根関 に加筆
「東海道・箱根宿・箱根関所と5つの脇関所・脇往還の位置関係」  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/箱根関 に加筆

◆旧東海道の成り立ち

 

慶⻑5年(1600年)の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌敬著う6年(1601年)に全国統治に向けて、江⼾と各地を結ぶ街道の整備に着⼿しました。まず、京と江⼾を結ぶ幹線道路である東海道に、宿駅(宿場)を設置し、「伝⾺制(てんませい)」を確立しました。

また幕府は、慶⻑9年(1604年)には、江⼾⽇本橋を起点とする主要街道である五街道を定め、⼀⾥ごとに⼀⾥塚を設置し、街道沿いに並⽊を植えるなど、街道の整備をおこないました。

 

◆「箱根関所」の設置

 

幕府は、須雲川沿いに新道「「箱根八里」を設け、これを東海道の本道として整備しました。

箱根神社のそばに「関所」を設置しようとしたところ、地元(元箱根)住民との対立が生じました。元箱根の住民は、関所の設置に不満を持ち、「本陣」の提供を拒んだのです。

そこで、幕府は、隣接する「小田原宿」と「三島宿」の住民を強制的に移住させ、急遽、「箱根宿」(江戸から10番目)を設置しました。関所は元箱根よりも西側の芦ノ湖畔に置かれました。

 

【5つの脇関所】

箱根山には箱根関所の他に、江戸への人の出入りを監視するため、5つの脇往還に「5つの脇関所」が設けられていました。

箱根裏街道の仙石原には「仙石原関所(せんごくはらせきしょ)」、熱海道には「根府川関所(ねぶがわせきしょ)」

「足柄道」の流れを汲む矢倉沢往還には「矢倉沢関所(やぐらさわせきしょ)」、そしてその北側の川村・谷ヶ村には「川村関所(かわむらせきしょ)」・「谷ヶ村関所(やがむらせきしょ)」というように、計5ヶ所の関所が設置されました。

 

 

◆「箱根八里」 ~東坂は「谷筋」に、西坂は「尾根筋」に設定~

 

「箱根八里」とは、徳川家康が整備した東海道の一部で、小田原宿から箱根宿までの4里(約16km)と、箱根宿から三島宿までの4里(約16km)を合わせた総称です。

このうち、小田原宿から箱根宿を結ぶ「東坂」は、中世の湯坂道では主に「尾根筋」が使われていましたが、家康はこれを須雲川沿いの「谷筋」を通るルートに変更しました。

一方、箱根宿から三島宿を結ぶ「西坂」は、中世の箱根越えの道よりも東南側に並行する「尾根筋」を通る新しいルートを新設しました。

幕府がこのように新たな道筋を設けた背景には、徳川家康が険しい箱根山を江戸防衛の最前線と捉えていたことが挙げられます。

そのため、小田原宿側の東坂は、外敵を迎え撃ちやすい「谷筋」に、三島宿側の西坂は、関東へ侵入する敵を発見しやすい「尾根道」に、それぞれ経路が変更されたのです。

 

◆「箱根宿」の新設

 

「小田原宿」と「三島宿」の間に箱根宿が設けられたのは元和4年(1618年)のことです。徳川家康が「宿駅伝馬制度」を設けてから17年後のことでした。

この宿場の設置は、箱根越えの道の険しさに苦労した参勤交代の大名たちの要請によるものとも言われています。

当初、幕府は「元箱根」への宿場設置を検討しましたが、そこが箱根権現の門前町であったため住民の反対に遭い、新たに芦ノ湖畔を開拓することになりました。そして、小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒の住民を強制的に移住させました。現在でも箱根宿の中心部には、小田原町、三島町という地名が残っています。

その後、「箱根宿」は江戸から数えて10番目の宿場として発展し、江戸時代後期には、問屋場が2軒、本陣が6軒、脇本陣が1軒、そして旅籠が36軒もあったとされています。

 

【参考文献】

「史跡 箱根旧街道保存活用計画」(箱根町教育委員会生涯学習課、令和2年)PDF44MB

西淳二氏、森田真氏「箱根路の変遷について-海路から陸路へ―」『土木史研究(第13号、1993年6月)』PDF1.3MB

箱根町HP「箱根の石仏群について」箱根の歴史回廊を歩く1~5

日本の山岳古道120選「足柄古道」

日本の山岳古道120選「湯坂路」

 

「箱根宿」 (東京国立博物館蔵)  ※『東海道分間延絵図』(13巻之内2)に加筆
「箱根宿」 (東京国立博物館蔵)  ※『東海道分間延絵図』(13巻之内2)に加筆
「箱根八里(はこねはちり)の標高差」
「箱根八里(はこねはちり)の標高差」

⑤. 「国道1号線」(箱根国道) ※明治8年~

~「箱根七湯」を結ぶ温泉の道、温泉町の人たち自らの手で進めたインフラ整備~

「明治時代の箱根」  ※「地図で見る箱根山の近代化」より
「明治時代の箱根」  ※「地図で見る箱根山の近代化」より

明治時代になり、「関所」や「宿駅伝馬制度」が廃⽌されると、箱根の「旧東海道」は衰退し、代わって台頭していったのが「箱根七湯」の各村々でした。それぞれの村ではさまざまなインフラ整備を⾃らの⼿で進めていきました。中でも⼈⼒⾞や⾺⾞など、新しい時代の交通機関に対応する⾞道については、「箱根七湯」を結ぶルートで整備が先⾏しました。

 

明治8年(1875年)に、「⼩⽥原板橋-湯本⼭崎間」に開通してから、明治20年(1887年)には「宮ノ下温泉」まで、さらに明治37年(1904年)には、「宮ノ下-芦之湯-箱根」を結んで開通。「湯本ー宮ノ下温泉-芦之湯温泉-芦ノ湖畔」(現在の国道1号)のルートが完成し、現在の国道1号の基礎を作りました。

 

このルートは、明治41年(1908年)に箱根国道(現在の国道1号)となり、「旧東海道」に代わって、箱根の主要ルートとなりました。 

 

また宮ノ下から分岐して宮城野、仙⽯原を経て御殿場を結ぶ道路も、明治43年(1910年)には国道に編⼊、「国道58号」として⼤正2年(1913年)に開通しました。(現在の国道138号)。 

 

これにより、「旧東海道」は主要ルートとしての役割を終え、「国道1号」が箱根の主要な交通路となりました。人々の流れは国道1号へと移り、箱根は温泉観光地として発展していきました。

 

《国道1号開設までの歴史》

●明治初め、箱根を訪れた福沢諭吉は、まだ道路が整えられていない箱根山の現状に驚き、箱根の人々に道の重要性を説明しました。

●これに答えたのが、二宮尊徳の弟子の一人で湯本の旅館の主人・「福住正兄(ふくずみ まさえ)」でした。

●明治8年(1875)、湯本の旅館の主人であった福住正兄(ふくずみまさえ)は、小田原の「板橋(いたばし)」から「湯本村山崎」まで東海道の改修工事を行い、箱根に人力車が入るようになりました。

(※日本初の有料道路となる「人力車道」の開設。)

●明治20年(1887年)、「塔ノ沢-宮ノ下間」に、富士屋ホテル山口仙之助が私費で建設した有料の人力車道が開通。

●明治37年(1904)、「小涌谷-芦之湯間」の完成により、「宮ノ下」経由の「(小田原)板橋-元箱根間」に道路がつながり、現在の国道1号の基盤を作りました。

●明治41年(1908年)に箱根国道(当時は国道2号=現在の国道1号)となりました。

●⼤正8年(1919)、「道路法」により、箱根の旧国道2号は、現在の国道1号に変更されました。

 

【参考】

Web版 有鄰 第476号「[座談会]箱根に命を吹き込んだ人びと /松沢成文・金原左門・松信 裕」

箱根町HP「キッズページはこねっこ・国道一号(近代)」

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所HP「街道について」

Wikipedia「箱根国道」

箱根町観光協会HP・観光マップ・パンフレット「地図で見る『箱根山の近代化』」

 


⑥.  「箱根新道」(昭和37年~)

~国道1号のバイパスとして~

 

「箱根新道」は、交通の円滑化や安全性向上のため、国道1号のバイパスとして整備されました。

 

昭和33年(1958年)に、「国道1号」の「箱根バイパス建設工事」として事業許可を受け、昭和37年(1962年)に一般有料道路として開通しました。平成23年(2011年)7月に、料金徴収期間が満了となって、恒久的に無料開放されています。

 

「箱根の山は天下の嶮」の言葉は、箱根新道においても例外ではなく、約14 km の道路の両端で780 m もの高低差があり、全区間で急勾配が続く道となっています。

 

「箱根新道」の開通により、並行する「国道1号」の交通量が分散し、慢性的な渋滞が大幅に緩和されました。

 


◆現代の駅伝 ~箱根駅伝のルート~

「箱根駅伝のコース」(黄色丸は箱根山の5区と6区)  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/東京箱根間往復大学駅伝競走#コースの特徴 に加筆
「箱根駅伝のコース」(黄色丸は箱根山の5区と6区)  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/東京箱根間往復大学駅伝競走#コースの特徴 に加筆

◆『箱根駅伝』について

徳川家康の「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」~現代にも息づく“継ぎ送り”の精神

 

箱根の「国道1号線」は、毎年開催される「箱根駅伝」で選手たちが走るコースとしても知られています。

「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」は、日本の伝統的なスポーツイベントで、毎年1月2日と3日に実施されます。競技は往路5区間(107.5km)と復路5区間(109.6km)から構成されます。

 

特に「箱根山」の5区は「山上り」、6区は「山下り」と呼ばれ、箱根駅伝の象徴的な区間とされています。往路の5区では、選手たちが険しい箱根の山を駆け上り、最後の4.5キロは逆に急な下り坂を走るという難所で、この区間は「天下の険」と称されるほど過酷なコースです。

※今年「第101回箱根駅伝」の結果についてはこちらへ

 

 

◆駅伝の由来:「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」

 

「駅伝」という言葉は、徳川家康が江戸時代に整備した街道制度「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」に由来しています。

 

慶長6年(1601年)、徳川家康は全国に約40の宿場を定め、公用の旅行者や荷物を効率的に運ぶため、宿場ごとに人馬を交代させて継ぎ送りする「伝馬制度(てんませいど)」を導入しました。

「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」とは、幕府から義務づけられて人足(にんそく)と馬を常備し、公用で旅する役人や荷物、幕府の公文書を次の宿場まで「継送り(つぎおくり)」することです。

 

幕府はまた、各宿場に人手と馬を常備させ、公用の書状や荷物は「継飛脚」と呼ばれる飛脚によって、宿場から宿場へとリレー形式で運ばれました。

 

明治維新後、箱根関所や宿駅伝馬制は廃止されましたが、その制度は「郵便制度」や「箱根駅伝」という形で「継ぎ送りの精神」が現代にも受け継がれています。

 

◆郵便制度と「継飛脚」

明治維新後、宿場や宿駅伝馬制、そして継飛脚の仕組みを基盤として、郵便制度が創設されました。

 

◆駅伝と「宿駅伝馬制」

駅伝の選手たちが襷(たすき)を繋いで走る姿は、かつての飛脚や伝馬制度を彷彿とさせます。襷のリレーやコース選定には、日本の伝統的な「継ぎ送り(繋ぐ)文化」が息づいていると感じました。

 

特に箱根駅伝は、そのコースが「東海道の宿場町」を通ることから、スポーツを通してかつての東海道の賑わいを現代に再現しているようです。単なる競技以上の、歴史と街道文化を受け継ぐ伝統スポーツだということを改めて実感しました。

 


◆街道文化研究家の「志田 威先生」について

番組のエンディングでは、取材協力として志田 威先生のお名前が掲載されていました。  ※NHK『ブラタモリ ~東海道 “ 五十七次 ” の旅~ 第一夜』(2024年11月2日放送)より
番組のエンディングでは、取材協力として志田 威先生のお名前が掲載されていました。  ※NHK『ブラタモリ ~東海道 “ 五十七次 ” の旅~ 第一夜』(2024年11月2日放送)より
志田 威先生・朝日新聞記事(2021年9月2日)「東海道『57次』伝え続ける~提唱続ける元JR東海専務・志田さん」
志田 威先生・朝日新聞記事(2021年9月2日)「東海道『57次』伝え続ける~提唱続ける元JR東海専務・志田さん」

 

日本の街道研究家で、元JR東海専務の志田威(しだ たけし)先生は、徳川家康が整備した「宿駅伝馬制」や「東海道五十七次」研究の第一人者です。10年以上にわたり、講演会や交流会、シンポジウムなどを通じて、宿場町の本質と五十七次の歴史的意義を伝え続けてこられました。

 

2021年9月2日の朝日新聞記事で、志田先生は宿駅(宿場町)の本質について次のように述べています。

「宿駅の設置は単なる宿泊施設の増設ではなく、『人馬継立場(じんばつぎたてば)』の開設が目的でした。問屋場はその中核を担う重要な機関です。」

 

2024年11月2日から4日にかけて、NHKの人気番組『ブラタモリ』で「東海道五十七次の旅」が三夜連続で放送されました。

 

志田先生が長年情熱を注ぎ伝えてこられた五十七次の価値が、『ブラタモリ』という形で多くの人々に知られることになり、大変嬉しく思いました。

 

● 志田 威先生のご活動については、こちらの記事をご参照ください。

 

「東海道57次」についてはこちらをご覧ください。