~志田威(しだ たけし)先生が伝え続けた「東海道57次」と、家康の街道政策~
NHKの人気番組『ブラタモリ』で2024年11月2日・3日・4日と3夜連続で、『東海道五十七次の旅』というタイトルで放送されました。
東海道というと53次がイメージされますが、番組では、もう一つの東海道のルート「東海道57次」をタモリさんが旅してくださいました。
番組では、旅のはじまりとして、東海道53次の終着点である京都の「三条大橋」、53次と57次の分岐点(三差路)である「髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)」が紹介されました。
また、大坂に向かう道中にある4つの宿場町「伏見(54番目)」・「淀(55番目)」・「枚方(56番目)」・「守口(57番目)」、そして57次の終着点である「高麗橋(こうらいばし)」が取り上げられました。
◆2024年は、東海道が完成してから400周年 ~京までの53次・大坂までの57次~
東海道は、1624年(寛永元年)、3代将軍徳川家光の時代に伊勢に「庄野宿」を設置したことで、「江戸から京都までの53宿」と「江戸から大坂までの57宿」という2つのルートが完成しました。
2024年は、それから400年の節目の年にあたりました。
◆「東海道 53次・57次」の歴史
1《家康による東海道の整備》
●1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利すると、家康はすぐさま街道政策に着手。
江戸と京都をつなぐ東海道に約40の宿場(宿駅)を置き、各宿場に「人足36人、伝馬36疋」を常備させ、各宿場がこの人馬を使って、役人を隣宿まで送り届けることを義務付ける。※1843年には100人100疋に増加。(※中山道の人馬数は50人50疋。)
→東海道における「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」のはじまり。
2《秀忠による大坂延伸》
●1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させると、「大坂城」を再建し、東海道の「大坂延伸」に着手。
大津宿の先にある「大津追分(髭茶屋追分)」から、大坂へと至る街道には、伏見・淀・枚方・守口の4宿を整備する。
→東海道の「大坂延伸」は、「西国大名を朝廷に近づかせない」という幕府の強い意思表示でもあった。
3《家光によって東海道57次が成立》
●1624年(寛永元年)、3代将軍徳川家光の時代に伊勢に「庄野宿」を設置する。
→この結果、東海道は「江戸から京都までの53宿」と「江戸から大坂までの57宿」という2つのルートが完成する。
●1635年(寛永12年)、「参勤交代」が制度化。
→街道往来は急増。
→宿駅は多忙になるとともに、経済的には潤い、活気づいた。
※「中山道 67次」の歴史
●慶長7年(1602年)、東海道に次ぐ幹線道路として中山道の整備に着手。「宿駅伝馬制」を実施。
●元和9年(1623年)、「碓井関所」が置かれる。
●寛永12年(1635年)、参勤交代が制度化される。
●元禄7年(1694年)、木曽川の流れの変化等により、土田宿が廃宿され、上流に位置する「伏見宿」が正式な宿場となる。
●享保9年(1724年)、「新町宿」が正式な宿場となる。
◆幕府公認の東海道に関する史料2つ
~幕府公認の史料に、江戸から大坂までの57宿が掲載~
①「東海道分間延絵図(とうかいどう ぶんけんのべえず)」
江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した絵地図。
「京都までの53宿」と、「大坂までの57宿」の2ルートが描かれています。
②『東海道宿村大概帳(とうかいどう しゅくそんだいがいちょう)』
天保14年(1843年)に、江戸幕府が東海道の各宿場と街道沿いの様子の調査を行った記録。
各宿駅の「人口」や「石高」、「休泊施設」などが記されています。品川宿(1番)~守口宿(57番)までの「57次」の宿場の具体的内容が詳細に記録されています。
→「東海道分間延絵図」、「東海道宿村大概帳」どちらにも、江戸から大坂までの57宿が記載されていることから、江戸幕府は、東海道を「大坂までの57次」と認識していたことが分かります。
※東海道と同様に、中山道については「中山道分間延絵図」と「中山道宿村大概帳」の2つの史料が存在します。この2つの幕府公認史料において、中山道は、「板橋宿」から「守山宿」までの67宿(※ゴールは、東海道草津宿)として記載されています。
◆『ブラタモリ』旅のテーマは「東海道57次の旅」
~行けばわかるさ 徳川の思惑~(3夜連続放送)
番組は、江戸‐京都を結ぶ東海道53次の終着点である「京都・三条大橋」からスタートしました。
「三条大橋」は、1589年(天正17年)に豊臣秀吉が増田長盛に命じて「石柱」の橋に改修された橋です。
番組では、日本で最初の石柱橋であることが紹介されました。
三条大橋の東には、皇居(現・京都御所)を遥拝する高山彦九郎の銅像があります。
彦九郎は江戸時代後期の有名な尊王思想家で、幕末の志士たちに強い影響を与ました。
三条大橋から京都へ入るたびに、橋のふもとで皇居に向かってひれ伏し、拝んだと言われています。
●髭茶屋追分(ひげちゃや おいわけ)
タモリさんたち一行は、東海道53次と57次の分かれ道、「髭茶屋追分(ひげちゃや おいわけ)」に到着しました。
「髭茶屋追分」という名前の由来は、髭の生えた老人が営む茶店があったことに由来していると伝えられています。(※「追分(おいわけ)」とは、街道の分岐点を意味します。)
近江国と山城国の国境である三差路(さんさろ)です。
タモリさんは、「いいなぁ この三差路!」
「この道の曲がり具合、高低差、しかも三差路、大好物がそろってます」とおっしゃっていました。
分岐点には、『みきハ京ミち』と『ひだりハふしミみち』の道標があります。右に進むと『京道』(東海道53次・京都方面)、左に進むと『伏見道』(東海道57次・大坂方面)です。
タモリさんたち一行は、この分岐点を左に進み、『伏見』に繋がるルート(東海道57次・大坂方面)を辿っていきました。
◆東海道57次をつくった江戸幕府の思惑は「京の朝廷に西国大名を近づかせないため」
東海道57次は、京都を"迂回"して大坂に至るルートです。
徳川幕府がこのルートを設けた思惑は、西国大名たちを天皇の住まう京都から遠ざけ、武家と天皇の結託による謀反を防ぐことにあったと考えられています。
◆『大津絵(おおつえ)』 ~東海道の街道土産~
番組では、江戸時代に東海道53次と57次の分岐点「髭茶屋追分」で大ヒットした東海道の街道土産、「大津絵」が紹介されました。
「大津絵」の始まりは、「髭茶屋追分」で、旅人向けに縁起物として神仏画を描き売っていたことに由来しています。旅人にとって「軽くて安くて珍しい」と人気があり、武士や町人にもみやげとして購入されました。東海道を行く旅人から絶大な人気を集めました。
「鬼の寒念仏(おにの かんねんぶつ)」は、大津絵の代表的な絵柄です。
お守り・魔除け・夜泣き止めとして使われました。
「大津絵」も、東海道53次と東海道57次の分岐点があったからこそ、旅人が行き交うということで生まれたもの。タモリさんは、「三差路(さんさろ)はいろんなものを生みますね!」とおっしゃっていました。
◆「大津絵」と歌川国芳
中央の人物は大津絵描きの「又兵衛(またべえ)」です。
実は歌川国芳自身であり、舞い上がった紙でうまく顔を隠しています。
横には国芳の大好きな猫もいます。
国芳の手からは次々と「大津絵」の主人公たちが飛び出していきます。
(※大津絵は江戸後期に「大津絵十種」として、絵のモチーフを10種類に絞り、護符として売られていた時代がありました。「鬼の寒念仏」のほかにも、「藤娘」・「瓢箪鯰」・「鷹匠」・「槍持奴」・「長刀弁慶」・「雷の太鼓釣り」など、さまざまな画題が描かれました。)
よく見るとそれぞれが役者の似顔になっています。
背景として、天保の改革が水野忠邦によって実施され、役者絵や美人画といった風紀を乱す娯楽が厳しく禁止されたのを、国芳一流の機知で逆手にとった作品です。
[参考]
・https://ja.wikipedia.org/wiki/大津絵
・『遊・芸の美』
◆広重の「東海道53次」をパロディにした歌川国芳の「猫飼好五十三疋」
上記の絵は、歌川国芳の『其のまま地口 猫飼好五十三疋(そのままじぐち みょうかいこう ごじゅうさんびき)』です。※「地口」とは、言葉遊び・しゃれのこと。
この絵は、広重の『東海道五十三次』をパロディにしたもので、東海道五十三次に登場する宿場町を、猫の仕草に駄洒落で例えた戯画(ぎが)です。
●日本橋…2本のかつおで、「ニホンダシ→ニホンバシ→日本橋」
●保土ヶ谷…「ノドカイ→ホドガヤ→保土ヶ谷」
●大磯…「オモイゾ→オオイソ→大磯」
この作品には「化け猫」や、当時の歌舞伎で有名だった妖怪「猫又」の姿も登場します。
●掛川…「バケガオ→カケガワ→掛川」
●三島…三毛猫のしっぽが二又に分かれている猫の妖怪・猫又(ねこまた)で、「ミケマ→ミシマ→三島」
国芳の反骨心と軽やかな遊び心が反映されたこの絵は、当時、庶民から絶大な人気を誇りました。
●「伏見宿(ふしみじゅく)」(東海道 54番目)
江戸時代の東海道「伏見宿」は、人口が2万人を超えていて、57次の中では最大級の宿場町でした。
(人口:24,227、戸数:6,245、問屋場:2、本陣:4、脇本陣:2、旅籠:39、距離:東西10町・南北1里6町)
伏見宿がなぜこれほど大きかったかと言うと、もともと東海道ができる前に、豊臣秀吉がつくった城下町がこの伏見にあり、宿場町ができる前から巨大な城下町だったからです。
その城下町・伏見を引き継いだ人物が、徳川家康でした。家康は、秀吉が築いた巨大な城下町を、江戸時代にそのまま引き継いで、手間をかけずに大きな宿場町「伏見宿」をつくったのです。
伏見は幕府の直轄地となり、城下には徳川家康によって日本初の「銀座」が設けられました。(銀座地名の発祥の地)。 銀座は、江戸や大坂よりも早く設置され、伏見が経済拠点として重要な役割を担ったことを示しています。
番組では、家康が駿府(静岡)に続いて、長期間にわたり伏見に滞在していたことが紹介されました。家康といえば江戸の印象が強いですが、実際の滞在期間は伏見の方が長かったのです。幕府にとって、伏見は特別な地でした。御三家の子息たちが伏見で誕生しており、「御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)」には、徳川家の家紋「葵の御紋」が見られます。
※《伏見城について》
伏見城は、秀吉によって2回、家康によって1回、合計3回築城されました。
①秀吉により伏見・指月(しげつ)の地に建てられた「指月伏見城(しげつ ふしみじょう)」(1594年)は、「慶長の大地震」(1596年)で倒壊。
②1597年に、近隣の「木幡山(こはたやま)」に再建されたものが、「木幡山伏見城(こはたやま ふしみじょう)」と呼ばれました。秀吉の死後、家康の部下、鳥居元忠が城将となったが、「関ケ原の戦い」の前哨戦で落城。
③1602年頃、家康により「木幡山伏見城(こはたやま ふしみじょう)」が再建されましたが、1623年に廃城となりました。
※三井住友トラスト不動産株式会社HP「秀吉の「伏見城」と伏見の街」より
◆「伏見港(ふしみこう)」
「伏見宿はなぜ大きいのか」という謎を探るため、タモリさんたちは「十石舟のりば」から十石舟に乗り、蓬莱橋(ほうらいばし)や京橋(きょうばし)を通り過ぎ、「伏見であい橋」の下まで向かいました。「伏見であい橋」は三差路のような印象的な橋で、タモリさんは船上から「三差路の本場だ」と感嘆されていました。
右手(北西)から合流する「濠川(ほりかわ)」は直線的であり、秀吉が築城した「伏見城」のお堀跡であるとの説明がありました。
伏見宿が大きく発展した背景には、秀吉が築いた「城下町」を、家康が「宿場町」として活用したことがあったのです。
◆『ブラタモリ』2016年放送:「伏見は日本の首都だった!?」
◆今回放送された東海道57次の「伏見宿」以外にも、『ブラタモリ』で「伏見」が舞台となった回がありました。
2016年5月7日の放送では、「京都・伏見 ~伏見は“日本の首都”だった!?~」をテーマに、豊臣秀吉が「伏見城」を築き、伏見に首都的な機能を持たせようとしたことが詳しく解き明かされました。
◆伏見城の特徴
伏見城の「北堀」は非常に大規模(幅150m余、深さ約15m)で、城下町の道路(京町通・両替町通・新町通り)は自然の形(等高線)に沿うのではなく、人為的に直線的に整備されていました。これらの設計は、秀吉の権威を象徴するものでした。
◆伏見城における全国の「大名屋敷」と政治機能の集中
秀吉は伏見城下に全国の大名を集め、政治機能を集約しました。城を中心に周辺に大名や武士の屋敷、商業施設、住居などが集まる城下町の形態は、伏見城から始まりました。後に江戸城や全国の大名の城にも適用されるようになりました。伏見には現在も、全国の大名に由来する地名が残っています。
◆水陸両面から物流の中心としての伏見
地理的に、伏見は京都と大阪を結ぶ位置にあり、陸路と水路の交通の要所として機能しました。
秀吉は、巨椋池(おぐらいけ)の上に道「小倉堤(太閤堤)」を造って、伏見を陸上交通の拠点としました。さらに、巨椋池を挟んで離れていた「宇治川」と「淀川」も直結させました。その結果、商業都市・大坂とも水路で結ばれることになり、伏見は最強の都市となりました。
※https://tentsutsu.exblog.jp/25210179/より
◆急速な城下町の発展
伏見は、秀吉が首都的な機能を持たせた城下町として急速に発展し、商業や文化活動が大いに活発化しました。特に、狩野永徳、狩野山楽、長谷川等伯といった当時を代表する画家たちが手掛けた障壁画に代表される桃山時代の絵画は、この伏見城を中心に発展を遂げました。(※NPO法人伏見観光協会HPより)
◆晩年の住居と景観
晩年の秀吉は伏見城を住居とし、ここで多くの政治活動を行いました。「伏見城」からは京都、奈良、大坂を一望できます。とりわけ、巨椋池(おぐらいけ)から見る月の眺めは、秀吉のお気に入りの風景の一つでした。秀吉は、以下のような和歌を詠んでいます。
「さらしなや 雄島の月も よそならん ただ伏見江の 秋の夕暮れ」
【意味】月の名所である信州の「更科」(長野県千曲市の姨捨)や、「雄島」(宮城県の松島)に勝るとも劣らないほど、伏見城「伏見江(巨椋池)」から見る月は美しい。
このように、秀吉は伏見城を築き、伏見に首都的な機能を持たせようとしました。
伏見城は当初、豊臣秀吉の「隠居の場」として計画されていました。しかし、その後、役割が大きく変わります。その背景には、1593年に入り、明の使節を迎える場として日本の国威を示す必要があったことがあります。また、1593年8月に豊臣秀頼が誕生したことを受けて、秀吉は「大坂城」を秀頼に譲ることを決め、自身の新たな拠点として「伏見城」を選びました。(※Wikipedia「指月伏見城時代」より)
このため、諸大名を動員して大規模な改修工事が行われ、伏見城は「政治、経済、文化の拠点」として新たな役割を果たす城へと変わっていきました。
●「淀宿(よどじゅく)」(東海道 55番目)
東海道五十五番目の宿場である「淀宿(よどじゅく)」は、伏見宿からわずか4キロの距離に位置しています。「淀宿」がかつてどんな場所だったのかを知る手がかりとして、次に「淀競馬場(京都競馬場)」が紹介されました。
淀競馬場の中心には大きな池があります。これはかつて京都南部に存在した巨大な池「巨椋池(おぐらいけ)」の名残です。
巨椋池(おぐらいけ)は、昭和初期に干拓されましたが、競馬場の敷地はその一部にあたります。また、淀競馬場の3コーナーには「淀の坂」という名物があります。これは、豊臣秀吉が築いた堤防の一部を利用した地形によるものです。
さらに、『東海道分間延絵図』を見ると、かつてこの地には徳川の「淀城」が存在していたことがわかります。
淀城は、まるで水の中に浮かんでいるような水城で、宿場町はあくまで付随的なものでした。
徳川が本当に築きたかったのは、「権威を示す象徴としての淀城」だったのです。
◆「淀城」~もう一つの幕府の思惑~
徳川の思惑を探るため、次に一行が訪れたのは「石清水八幡宮」です。この神社は平安時代(860年)の創建で、現在の本社は1634年に徳川家光によって造営されました。境内には、豊臣秀吉が奉納した「釣灯籠」や、織田信長が奉納した「黄金の雨樋(あまどい)」など、そうそうたる武将たちが崇敬した痕跡が残されています。(※この雨樋一本で、ご本殿の建て直しができるくらい高価な雨樋です。)
石清水八幡宮の立地は、京都の西側にある二つの山に挟まれた「関門」ともいえる地形に位置しています。この場所を通らなければ、西から京都に入ることはできません。そのため、この神社は京都を守護するための重要な存在であり、織田・豊臣・徳川といった武将たちに厚く信仰されました。
そして、この地形の関門の目の前に置かれたのが「淀城」です。
徳川が「淀城」を築いた理由は、西国の外様大名が反旗を翻して江戸へ進軍する場合、この地形を利用して防御を固めるためでした。家康が、伏見よりもさらに西寄りに「淀城」を築いたのは、西国勢力への備えを強化するための戦略的な判断だったのです。
このように、江戸と京都を結ぶ東海道57次のルート上に築かれた「淀宿」は、単なる宿場町以上の意味を持ち、徳川の思惑が深く反映された重要な拠点だったと言えることが紹介されました。
《※首都的機能から西の守りへ:「伏見城」から「淀城」へ 》
2016年の『ブラタモリ』で放送されたように、「伏見城」は、豊臣秀吉の命で築かれ、首都的な役割を担っていました。しかし、1606年にその機能は「駿府城」に移ります。駿府は徳川家康が隠居後に大御所政治(駿府政権)を行った場所で、当時の実質的な首都でした。また、江戸時代初期には「府中」といえば駿府を指すほど重要な都市でもありました。
その後、徳川家光が三代将軍として幕府の体制を確立すると、政治の中心は「江戸城」へと移り、江戸が名実ともに日本の首都として発展していきます。こうして、江戸を中心とした幕府の統治体制は約260年にわたって続くことになります。
◆1615年、「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡すると、「大坂城」は徳川幕府によって約10年かけて再建されます。それまで「伏見城」は、大坂城の豊臣氏と対峙する「西の拠点」として重要な役割を担っていました。しかし、1623年、徳川家光が将軍に就任する際に「伏見城」は廃城となります。
◆その後、「淀城」が新たに西国を監視する「西の拠点」の役割を引き継ぎました。淀城は二つの山の間に位置し、交通や防御の要として非常に適していたためです。
[参考]
・伏見区HP「伏見の歴史 : 江戸時代~幕末 港湾商業都市の繁栄」
●「枚方宿(ひらかたじゅく)」(東海道 56番目)
タモリさんたち一行が次に訪れたのは、東海道五十六番目の宿場町「枚方宿(ひらかたじゅく)」です。
枚方宿の江戸時代の面影を感じる場所として、一行は「鍵屋(かぎや)」を訪れました。この建物は江戸時代に宿屋として利用されており、現在は資料館として公開されています。鍵屋の2階に上がり、枚方宿の役割と徳川の思惑を探りました。
鍵屋のそばまで淀川が流れており、川と街道が接するギリギリの場所に宿場が設置されています。
川の近くに宿場を置くことで、人や物が集まる便利な場所をつくる、それこそが徳川の思惑だったのです。
しかし、「枚方宿」には大きな課題がありました。伏見から大坂までの約40kmの区間では街道と淀川が並走しており、川船で移動すれば宿場に泊まる必要がほとんどありません。そのため、枚方宿は、上りに偏った「片宿」となり、宿泊客が減少して財政的に厳しい状況に追い込まれました。
そんな中、枚方宿の人々は工夫を凝らしてこのピンチを乗り越えようとしました。一つの作戦として、宿場の絵に描かれている「宴会」が挙げられます。川沿いで楽しげに宴会をしている姿を見せることで、船で通り過ぎる旅人に宿泊を促しました。
さらに、もう一つの工夫が「くらわんか舟」です。淀川を行き交う三十石船のお客に対し、舟で料理や酒を売りに行くという独自の商売が発展しました。広重が描いた『京都名所之内 淀川』にもその様子が描かれています。この「くらわんか舟」で提供された料理の一つが「ごんぼ汁」で、これは『東海道中膝栗毛』(作 十返舎一九)にも登場しています。「ごんぼ汁」は、枚方の名物料理として旅人に親しまれていました。
こうして「枚方宿」の人々は、水運が発達した状況の中で試行錯誤を重ね、宿場のピンチを乗り越えようとしました。
●「守口宿(もりぐちじゅく)」(東海道 57番目)
そして、いよいよ「東海道57次」最後の宿場となる五十七番目の「守口宿(もりぐちじゅく)」です。
「守口宿」の特徴や徳川の意図を探るためには、道そのものに注目する必要があります。
「枚方宿」を越えると、一帯は広大な大阪平野が広がります。しかし、大雨が降り、淀川が氾濫すると、道はたちまち通行困難になってしまいます。この問題を解決するために目をつけられたのが、豊臣秀吉が築いた堤防「文禄堤(ぶんろくつつみ)」です。堤防は少なくとも10km以上にわたって延びており、秀吉の時代には治水のために重要な役割を果たしていました。
この堤防を街道として利用することを考えたのが徳川家康でした。川沿いの移動をより安全で便利にするため、秀吉が築いた堤防を整備し、東海道の一部として活用したのです。これが、徳川の思惑の一つだったと考えられます。
●終着点:大坂「高麗橋(こうらいばし)」
そして、いよいよ「東海道57次」の最終地、大坂へ到着しました。
東海道の起点は江戸の「日本橋」、東海道53次のゴールは京都の「三条大橋」です。どちらも町の中心部に架かる重要な橋です。そして、大坂においても東海道57次のゴールにふさわしい橋がありました。それが「高麗橋(こうらいばし)」です。
「高麗橋」は、大坂の町と大阪城をつなぐために重要な役割を果たしていました。この橋を通ることで、大坂の中心と江戸が一本の街道で結ばれることになります。「高麗橋」から真っ直ぐ進むと、「大阪城」へとつながっており、当時の交通と経済の要衝だったことがわかります。
こうして、江戸と大坂という2つの大都市をつなぐ「東海道57次」は、徳川家の治世において極めて重要な街道であったことが示されました。
3日間にわたる番組は、「徳川の思惑」が込められた街道の歴史を丁寧にたどりながら、無事に終了しました。
二人の天下人が手掛けた「土木」の遺産
◆土木の天才としての豊臣秀吉 ~築城と都市、そして治水~
豊臣秀吉は天下人としてその政治力と軍事力が称賛されていますが、秀吉は卓越した土木技術者としての顔も持っており、その事業は現代にもつながる重要な基盤を築きました。
① 城の建設
秀吉は、軍事的拠点であると同時に政治・経済の中心地としての城を次々と築きました。
たとえば、大阪城(1583年)、淀古城(1588年)、指月伏見城(1594年 ※慶長の大地震で倒壊)、木幡山伏見城(1597年)は、当時の最高技術を駆使して建設されたものでした。これらの城は、都市と経済の発展を牽引する重要な役割を果たしました。
② 京都再編 ~御土居(おどい)とゾーニング~
秀吉は京都においても、都市計画の手腕を発揮しました。「御土居(おどい)」を築いて「洛中」と「洛外」を区分し、用途別に「公家町」、「武家町」、「寺町」などのゾーニングを行うことで秩序ある都市を形成。
③ 水攻め
秀吉は、戦術的にも土木技術を活用しました。その代表例が「高松城の水攻め」(1582年)です。
城を取り囲む堤防を短期間で築き上げ、城を湖に孤立させるという斬新な攻城戦術を用いました。この戦法は、地形を巧みに利用し、敵を降伏させるまでの流れが非常に効率的でした。
※秀吉の家臣・石田三成の「忍城」(埼玉県行田市)での水攻めについて
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による関東平定の一環として、北条氏を支援する成田氏の居城「忍城」を石田三成らが攻めました。三成は、秀吉から影響を受けた斬新な戦術の一つである「水攻め」を決行。全長約28キロメートルに及ぶ堤防をわずか一週間で築き上げたと言われています。堤防が完成すると、利根川や荒川の水を引き入れて城を孤立させようとしましたが、直後の大雨で水位が急激に上昇し、堤防は耐えきれずに決壊。水攻めは失敗に終わりました。
現在、この堤防は「石田堤」として、行田市から鴻巣市にかけてその一部が残されています。「石田堤」に足を運ぶと、当時の壮絶な戦場の雰囲気だけでなく、秀吉の土木技術者としての精神を感じ取ることができるかもしれません。
忍城の水攻めは2012年に公開された映画『のぼうの城』(監督:犬童一心氏・樋口真嗣氏/原作:和田竜氏/主演:野村萬斎氏)でも描かれています。
◆「忍城の水攻めと石田三成の本陣」(イメージ図)
④ 「文禄堤(ぶんろくつつみ)」による治水と交通の融合
秀吉は「大坂城」と「伏見城」を最短距離で結ぶため、1594年(文禄3年)、淀川左岸沿いに「文禄堤(ぶんろくつつみ)」を整備しました。大阪府枚方市から大阪市長柄まで全長約27km続くとされる堤防です。
秀吉は、この堤防の上を道路として活用することで、「京街道」という新たな街道を形成しました。
この堤防は、治水・運輸・軍事という三つの用途を同時に果たし、物流と経済の発展に大きく寄与しました。その後、徳川幕府にも受け継がれ、「東海道57次」の重要路線として再整備されました。
⑤ 秀吉が整備した主要街道
秀吉は、伏見を中心に多くの街道を整備しました。これには、伏見を政治・経済・軍事の中心地とすることで、豊臣政権を安定させる狙いがあったと考えられます。
とくに、「文禄堤」の上に整備した「京街道」は、徳川時代に「東海道57次」の一部として再整備され、日本の交通網の中核として機能し続けました。
・「京街道」…「文禄堤」を基盤に、淀川沿いを通って大坂城と伏見城を結んだ街道。徳川時代に「東海道57次」として再整備。
・「新大和街道」…「巨椋池(おぐらいけ)」内の島々を南北に結び、「小倉堤」と呼ばれる堤防を築いて奈良と京都を結ぶ。
・「伏見街道」…藤森(伏見区)から伏見稲荷大社・東福寺前を経て、京都五条に至る。
・「竹田街道」…竹田(伏見区)を経て京都の油小路通と結ぶ。
・「大坂街道」…京橋(伏見区)から「淀堤」を通り、淀や大山崎(近くに石清水八幡宮があります)を経て大坂に至る。
・「大津街道」…藤森から大岩山と稲荷山の間を抜けて、勧修寺(山科区)を経て「髭茶屋追分」を通り、大津に至る。徳川時代に「東海道57次」として再整備。
・「宇治街道」…六地蔵(伏見区)から木幡(こはた・宇治市)を経て宇治に至る。
⑥ 「巨椋池(おぐらいけ)」の治水事業
《「伏見城」築造以前の巨椋池周辺》 ~3本の河川が流れ込む低湿地帯~
かつて伏見は、「巨椋池(おぐらいけ)」という大きな池に囲まれた地域でした。巨椋池には3本の河川(桂川、宇治川、木津川)が流れ込み、増水時にはたびたび洪水を引き起こしていました。
巨椋池が形成されたのは縄文時代とされており、京都を流れる「宇治川」によってその形が作られました。宇治川は「琵琶湖」を源流とする河川で、滋賀県内では「瀬田川」、京都府内では「宇治川」と呼ばれます。そして、京都府の淀で「桂川」や「木津川」と合流し、大阪湾へ注ぐ下流部分が「淀川」となります。
◆秀吉の「巨椋池」治水工事 ~伏見を「水陸交通の要所」へ~
この巨椋池(おぐらいけ)で治水工事を行い、伏見を低湿地帯から「水陸交通の要所」へと大きく変貌させたのが、豊臣秀吉でした。
◆ 「宇治川」の流路変更
1594年、秀吉は「宇治堤(槇島堤)」を築き、巨椋池に直接流れ込んでいた「宇治川」を切り離しました。その際、宇治川の流路を巨椋池の東側から北側へと回り込ませて伏見城の下に引き込みました。さらに、「宇治川」を「淀川」に直結させることで、大坂城と伏見城を結ぶ水路が新たに開かれました。この工事により、宇治川の水深が確保され、伏見港には大きな船が入港可能となり、舟運が大きく発展しました。
◆ 「小倉堤」・「大和街道」・「観月橋(豊後橋)」の新設
さらに、1594年、秀吉は巨椋池内の島々を結び、「小倉堤(おぐらつつみ)」を築きました。その堤上には「大和街道(奈良街道)」が整備されました。また、宇治橋を撤去し、伏見城下と小倉堤の間には「観月橋」(当時の豊後橋)が架けられました。これにより、大和街道は奈良(平城京)と京都(平安京)を結ぶ重要な幹線道路となり、人々の往来が伏見城下に集中しました。この結果、伏見は陸上交通の要所としてさらに発展しました。
※豊臣秀吉は、文禄3年(1594年)の伏見城築城を機に、「宇治川」の流路変更をともなう大規模な築堤工事を諸大名に命じて実施しました。この工事で造られた堤防群を総称して「太閤堤(たいこうつつみ)」といいます。
◆ 「伏見港」の整備 ~他港を閉鎖し、「伏見港」を舟運の拠点に~
秀吉は、「宇治川」と「濠川(ほりかわ)」の合流地点には、「伏見港」を整備しました。濠川(ほりかわ)は、「伏見城」築城に伴い、建築資材を運ぶためにつくられたお堀です。
また、秀吉は、巨椋池周辺にあった「与等津(よどのつ)港」と「岡屋津(おかやつ)港」を閉鎖し、舟運の拠点を「伏見港」に集中させました。これにより、伏見港は重要な交通の要所としての役割を果たすことになりました。
このように、秀吉は巨椋池の上に道「小倉堤」を造り、伏見を陸上交通の拠点としました。
さらに、巨椋池を挟んで離れていた「宇治川」と「淀川」を直結させました。
また、他の港を閉鎖し、舟運の拠点を「伏見港」に集中させた結果、商業都市・大坂とも水路で結ばれることになり、伏見は最強の都市へと成長したのです。
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江戸時代になると、豪商・角倉了以によって高瀬川が開削され、「伏見」と「京都」が一本の水路でつながり、水運は隆盛を極めました。また、大坂と伏見を結ぶ「三十石船(さんじっこくぶね)」の発展により、「伏見港」は水上交通の中継地として賑わいました。「寺田屋」に代表される船宿も多く置かれました。
江戸時代、「淀川」を上り下りし、伏見と大坂を結んでいたのが、「三十石船」と呼ばれる客船です。三十石の米が積めることから名前が付いています。船頭4、5人と、約30人の客を乗せることができました。
伏見を出る下り船は川の流れを利用しましたが、上り船は船頭の棹(さお)とともに男たちが綱を引いて「淀川」を遡りました。
[参考]
・Newsがわかるオンライン「気宇壮大な土木技術者の顔を持っていた豊臣秀吉①」(文・緒方英樹)
・Newsがわかるオンライン「気宇壮大な土木技術者の顔を持っていた豊臣秀吉②(文・緒方英樹)
・史跡宇治川太閤堤跡保存整備フォーラム「じっくりみよう太閤堤」
※角倉了以(すみのくら りょうい)の偉業 ~「水運の父」として~
角倉了以(すみのくらりょうい・1554〜1614)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した京都の豪商であり、画期的な土木技術を駆使して日本の河川舟運を開拓した先駆者です。
角倉了以は、「吉田家」四代目として生まれました。吉田家は、代々、足利将軍家や天龍寺に医者として仕え、土倉業(金融業)と造り酒屋を営み、屋号を「角倉」とし、「京の三長者」の一つに挙げられる富裕な家でした。
(※「角倉」という名字は、京都の東西南北それぞれに官倉があったことからのちに角倉と言い表すようになったといいます。)
角倉了以は、医業を継がず弟に譲り、算数・地理を学び、当時勃興してきた海外貿易および河川開発事業に進出しました。
① 「朱印船貿易家」としての角倉了以
了以は、1592年に豊臣秀吉から朱印状を受け、1604年以降は徳川氏からも朱印状を得て、安南国(現在のベトナム)に朱印船(角倉船)を送り出し、大きな利益を得ました。
船内のスタッフに向けて作られた『舟中規約』には、「人を捐てて己を益するに非ず」という自他共利の言葉が綴られており、世界最古の経営倫理とも言われています。(※「偉人たちの歴史街道~保津川・高瀬川の開削に従事 角倉了以の偉業~」より)
了以は、商人としてだけでなく、土木技師としてもすぐれており、国内の河川開発事業に進出しました。
② 「保津川(大堰川)」開通 ~丹波と京都を結ぶ舟運~
了以が、水運事業に目を向けたのは1605年のことです。当時、保津川の水運は「筏(いかだ)流し」のみで、丹波の農作物等は、人馬で京都まで運んでいました。
角倉了以は、保津川の開削を幕府に上申、すぐに許可が下りると翌年、私財を投じて長男の素庵とともに着工しました。河川開削の技術集団を組織し、1606年、「丹波地域」と「京都」を結ぶ舟運ルートを作り出しました。この工事は、巨石に網を巻いて滑車で引いたり、岩を火で焼き砕くなどの難工事を経て、わずか5か月(1606年)で完成させた、日本土木史に輝く偉業でした。これにより、丹波の豊富な農作物や木材が京へと運ばれました。
③ 「富士川」開通 ~駿河と甲府を結ぶ舟運ルート~
さらに、この成功により了以は幕府から、「富士川」と「天竜川」の河川工事も依頼され、1607年には「富士川」(駿河の岩淵から甲府まで)の舟運ルートも開通させています。
※「天竜川」(遠江の掛塚から信濃の諏訪まで)は激流を制しきれず未完に終わりました。
④ 「高瀬川」開通 ~京都二条と伏見港を結ぶ舟運ルート~
京都に戻った角倉了以が次に手掛けたのは、「高瀬川」の開削でした。
これは、1608年に始まった「方広寺大仏殿」の再建がきっかけです。大仏殿の再建には多くの木材が必要で、その輸送手段として鴨川の水運を利用する計画が持ち上がりました。しかし、当時の鴨川は暴れ川で、舟運には不向きでした。
この問題を解決するため、了以は鴨川に沿った安定した舟運ルートを新たに設ける計画を立て、幕府に「高瀬川」の運河開削を願い出ました。「高瀬川」は、「京都の二条大橋付近」から「伏見」までを結ぶ全長約11キロの運河で、水深約30cmの浅い川です。洛東と伏見の高低差約6尺(約1.8メートル)を平らにする土木工事を成功させ、物資が伏見から京都の二条大橋まで直接運ばれる画期的な舟運ルートが完成しました。
「高瀬川」が開通したことで、「大坂」から三十石船で届けられた荷物は、「伏見港」で「高瀬舟」に積み替えられ、曳き子たちが綱で引きながら川を上ることで、街道を人馬で輸送していた頃に比べて、「京都市内」に物資を効率よく輸送できるようになりました。最盛期には159隻の高瀬舟が稼働し、700人の曳き子がこの輸送網を支えていました。工事費用は現在の価値で約150億円といわれ、了以はそのほとんどを私財で賄いましたが、航行料を徴収することで莫大な利益を得たといいます。
1614年、「高瀬川」が完成して間もなく、了以は61歳の生涯を閉じました。その遺骨は、保津川と高瀬川を一望できる京都洛西の「二尊院」に葬られています。この寺では、工事中に亡くなった人々の菩提も弔ったといわれています。
「高瀬川」の完成により、「京都」と「伏見」、さらには「大坂」を結ぶ物流ルートが確立され、近畿圏の経済は飛躍的に発展しました。江戸時代、経済が江戸に一極集中する可能性があった中で、角倉了以が開通させた「高瀬川」は、江戸と関西の経済バランスを保つうえで重要な役割を果たしたと言えます。
◆家康による都市づくり ~湿地帯から水辺都市への大転換~
(江戸時代以前の利根川・荒川・渡良瀬川水系)
◆家康が見た「江戸」の将来性
徳川家康が関東に入った当時、江戸は湿地帯が広がり、良質な井戸水を得ることも難しい土地でした。
しかし、家康はその地理的条件に大きな可能性を見出していました。
「江戸前島」の東西に河口と湾、旧利根川の河口部があり、人や物資が自然と集まる交通の要衝だったからです。家康は、戦国時代を通じて水の重要性を痛感しており、都市建設の第一歩として上水設備の整備に着手しました。
◆湿地帯から世界的な水辺都市への大転換
水の確保と並行して、家康が取り組んだのが洪水対策です。家康は、「利根川東遷」と「荒川の西遷」と呼ばれる壮大な河川改良事業を実施しました。これらの事業は、①江戸の水害を防ぎ、②洪水地帯を新しい農地に変え、さらには③舟運のネットワークを整備するという、極めて野心的な試みでした。
湿地帯に過ぎなかった東国の土地が、水の流れを巧みに活かした都市計画により、世界的にも類を見ない「水辺都市」として蘇ったのです。
◆秀吉の影響と「土木による統治」
家康の都市づくりには、豊臣秀吉の影響も見られます。秀吉は大阪や京都、伏見で大規模な土木事業を通じて治水や都市基盤を整備しました。その成功を通じて「土木と政治の結びつき」を戦国大名たちに示しました。家康は、秀吉の技術と理念を継承し、江戸の基盤づくりに活用したと考えられます。
◆「土木技術」がもたらした平和への転換
秀吉と家康、二人の天下人が手掛けた「土木技術」は、戦乱から平和への歴史的大転換を表しています。
家康の手によって、湿地帯からダイナミックに生まれ変わった江戸は、日本最大の都市として発展し、現代の私たちが暮らす社会の中にも息づいています。
[参考]
・Newsがわかるオンライン「水浸しの地で洪水対策をした徳川家康」(文・緒方英樹)
◆東海道57次を伝え続けてこられた「志田 威(しだ たけし)先生」
※https://ja.wikipedia.org/wiki/志田威より
「東海道町民生活歴史館」の館主・館長で、元JR東海専務の志田 威(しだ たけし)先生は、日本の街道文化研究家として広く知られています。
志田先生は、東海道57次のご著書や交流会、講演会、シンポジウムなどを通じて、正しい街道文化を10年以上にわたって伝え続けるとともに、観光誘客による地域活性化を提唱されてきました。
※2013年7月には、吉田 信解本庄市長とともに中山道「本庄宿」の調査の一環として、戸谷八商店、開善寺、安養院、金鑽神社、二の蔵、旧本庄商業銀行レンガ倉庫をご訪問くださいました。大変ありがたかったです。(詳細はこちらへ)
《志田 威先生・略歴》
●1943年(昭和18年)生まれ。
●1967年、東京大学経済学部卒業後、日本国有鉄道入社。
●1987年に東海旅客鉄道(JR東海)経営管理室長以降、取締役総務部長、常務取締役、専務取締役などを歴任。
●2001年からジェイアール東海不動産代表取締役社長を兼任、2002年から社長専任。2010年顧問、2011年に退任。
●現在は、「東海道町民生活歴史館」の館主・館長。朝日大学客員教授。(財)恵那市観光協会「恵那観光大使」。社会福祉法人中部盲導犬協会評議員会委員長。
●ご著書に『歩いて学ぶ東海道57次』(静岡新聞社、2024年)、『東海道・中山道 旅と暮らし』(静岡新聞社・2019年)、「東海道57次」(ウェッジ・2015年)、「東海道五十七次の魅力と見所」(交通新聞社・2012年)など。
●東海道の蒲原宿にある江戸時代の建築物で、2001年に志田家住宅主屋として有形文化財に登録された志田邸(志田家住宅主屋)の当主。
[参考]
・『歩いて学ぶ東海道57次』(志田 威氏著、静岡新聞社、2024年)
◆東海道が完成してから400周年を記念して出版された、志田 威先生のご著書
2024年は、東海道が「江戸から京都までの53宿」と「江戸から大坂までの57宿」という2つのルートが完成してから400周年の年です。
志田 威先生は、400周年を記念して、『歩いて学ぶ東海道57次』(大型カラー本)を出版されました。
◆『歩いて学ぶ東海道57次』大型カラー本(志田 威氏著、静岡新聞社、2024年)
【内容紹介】
東海道の宿駅といえば、江戸・日本橋から京・三条大橋までの「53次」が広く知られている。だが、実際には京の手前から4宿(伏見・淀・枚方・守口)を経て、大坂・高麗橋へと続く道も存在した。
そんな「東海道57次」の各宿の見どころを、現地の写真や当時の雰囲気が分かる絵図とともに紹介。各宿場町の歴史や文化を深く理解することができる。
【特別付録】
特別観光MAPが付いており、観光地を効率よく巡ることが可能。地図を使って実際に歩くことで、より一層の理解が得られる。
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志田先生のご著書『歩いて学ぶ東海道57次』は、東海道の各宿場について詳しく解説されており、特別観光MAPも付いているため、初心者から歴史好みの方まで幅広い層にとって非常にわかりやすく楽しめる一冊です。宿場ごとの魅力や歴史的背景が丁寧に紹介されており、まるでタイムスリップしたかのような感覚で東海道を旅することができると思います!
東海道53次・57次が完成してから400年という記念すべき年に出版されたこのご著書は、東海道の歴史や文化を次世代に伝える上で非常に意義深いものだと思います。
時代を超えた日本の「街道文化」の魅力を、多くの人々が再発見するきっかけになることを心から願っています。
◆「街道・宿駅」の本質とは、「人馬継立と継飛脚」
◆志田 威先生は、2021年9月2日の「朝日新聞」の中で、宿場町の本質について以下のように述べています。
観光ガイドさんの解説を耳にすると『宿場町は旅人のために旅籠(はたご)などの宿泊施設を備えた街で、その中心が本陣』とだけ説明することが多いです。しかし、宿泊施設を備えた街は昔からあり、徳川家康の指示で幕府が整えた宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)の本質は違うんですね。
宿駅伝馬の使命は、幕府から義務づけられて人足(にんそく)と馬を常備し、公用で旅する役人や荷物、幕府の公文書を次の宿場まで継ぎ送りすることです。そのうち公文書の継立て業務が郵便制度につながるわけです。
宿駅設置は、泊まるところの増設ではなくて『人馬継立場(じんばつぎたてば)』の開設であり、問屋、問屋場はその中心になる重要な役職と場所なのです。
◆また、ご著書『歩いて学ぶ東海道57次』(静岡新聞社、2024年)の「東海道57次とは? 太平の世を支えた江戸~京・大坂の大動脈(P6)」の中で、徳川家康の街道政策の発想について以下のように述べておられます。
『沿線の潜在力を遠隔地の管理に活用する』という画期的な発想が、260余年にわたる江戸幕府の礎を築いたといっても過言でない。
志田威先生のお話を読んで、改めて江戸時代の宿場町が持つ本質について考えさせられました。
先生が指摘されるように、宿場町を単なる旅人の “宿泊地” と捉えるだけでは、家康による街道政策の真意を見誤ることになります。宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)のもとで宿場町は、「物流と情報を効率的に次へ繋ぐネットワークの要」となり、幕府が全国を統治するための中枢機能を担っていました。この視点は、宿場町を理解するうえで非常に重要です。
また、志田先生の「『沿線の潜在力を遠隔地の管理に活用する』という発想が、260余年の江戸幕府を支えた」という言葉に深く共感しました。宿場間・地域間の連携が幕府統治の安定を支えたことは、現代の地域活性化にも通じる視点だと感じました。
「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」とは、幕府から義務づけられて人足(にんそく)と馬を常備し、公用で旅する役人や荷物、幕府の公文書を次の宿場まで「継送り(つぎおくり)」することです。
この制度を通じて幕府の指示が迅速に地方へ伝わり、地方の情報も効率的に幕府に集まりました。これにより、広大な領域を効果的に統治し、不正や反乱を未然に防ぐことが可能となりました。
さらに、街道の整備は経済や文化にも大きな影響を与えました。物流が活発化することで地元の特産品の流通が促進され、地域経済が活性化しました。また、街道を通じた人々の交流により、地方と都市の文化が融合し、全国的な文化的多様性を生み出しました。宿場町は単なる中継地ではなく、経済・文化の中心地としても機能していたのです。
志田先生のお話を通じて、宿場町が果たした多面的な役割について改めて考える機会を得ました。
◆「本庄宿」から見る「沿線の潜在力」
志田威先生の言葉を受け、宿場町の本質と沿線の潜在力を「中山道・本庄宿」の視点から考えてみました。
◆文化的には
宿場町は単なる「宿泊地」を超え、江戸の文化を取り入れながら、本庄の文化を江戸に発信する拠点となりました。この交流を通じて、伝統文化や技術、老舗の知恵、庶民の逸話等が広まりました。
たとえば、『耳袋』には、本庄宿の戸谷半兵衛、通称三右衛門の逸話が記されています。彼は呉服店「仲屋」で丁稚から始まり、成功を収め、名字帯刀を許されました。彼が考案した暖簾印「¬中ム」は「シラミはよく増えて絶えない」との発想から生まれました。
さらに、地方商人の三右衛門が、名高い京の商人を巧みに言いくるめ、大量の品物を安値で手に入れた逸話が記されています。三右衛門の大胆な行動は、地方商人が大都市の商人を相手に見せた機知と勇気、そして豪胆な精神を象徴するものとして描かれています。
◆経済的には
本庄宿は商人や旅人が行き交う物流の拠点として発展しました。特に、利根川の水運が加わることで、大量の物資を迅速に運ぶことが可能となり、地元の特産品や農産物が広範囲に流通しました。これにより、「中山道最大の宿場町」として繁栄し、多くの商人や職人が集まる活気ある経済圏が形成されました。
街道と水運の相乗効果は、旅籠や茶屋の増加を促進し、本庄宿の経済基盤を支える重要な役割を果たしました。この発展は家康の街道政策による恩恵といえます。
◆宿場町の意義
志田先生の「『沿線の潜在力を遠隔地の管理に活用する』という発想が、260余年の江戸幕府の礎を築いた」という言葉は、宿場町が「地域間の連携を支えるネットワーク」として重要な役割を果たしていたことを示しています。このネットワークは江戸時代の安定と発展を支え、明治以降の日本経済の基盤ともなりました。
本庄宿の旧家「諸井家」も、家康の街道政策によって生み出された政治・経済・文化のネットワークの恩恵を受け、その能力を伸ばし、渋沢栄一翁とともに近代日本の経済を支えたのだと思います。
このように、家康の街道政策は、政治、経済、文化のすべてにわたって深い影響を与え、江戸時代の長期的な安定と発展を支えたのだと思います。
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※(余談ながら)
① 『児玉記考』には、豊臣秀吉の時代である天正15年(1587年)、本庄宿に移り住んだ「戸谷八郎左衛門家」が、利根川を通じた江戸・京都・大坂諸国への「継送り(つぎおくり)」において、近郷の大取締役を務めたことが記されています。(※下図参照)
約450年前の戦国時代、戸谷・関根・内田家をはじめとする新田家家臣の末裔の「花の木18軒」と呼ばれる仲間たちは、利根川沿いの「世良田」という港町から本庄に移り、1570年代頃から「本庄宿」の開発に携わりました。世良田は当時、物流の拠点として重要な役割を果たしており、この港町で培われた知識や経験が、本庄宿の形成にも生かされたのではないかと考えられます。
こうした背景の中で、戸谷八郎左衛門家は水運を通じた「継送り(つぎおくり)」において地域の中心的な役割を担い、物流・情報ネットワークの構築に貢献してきました。
志田 威先生は、宿場町の本質を単なる “宿泊施設” ではなく、「物流と情報を効率的に次へ繋ぐネットワークの要」として捉えるべきだとご指摘されています。この視点は、中山道「本庄宿」の発展を考える上でも、非常に重要だと感じました。
このように、「利根川水運」と「中山道の陸路」が連携して物流や情報の流れを支えたことは、「本庄宿」の発展を促す大きな要因の一つとなったのではないかと思います。
② 簗瀬大輔氏による「渋沢内匠(しぶさわ たくみ)と平塚百姓衆 ~渋沢栄一の源流は川辺の船頭侍か~」(『戦国人 上州の150傑』上毛新聞社、2021年)では、渋沢栄一翁を輩出した「渋沢家」について詳しく述べられています。その中で、永禄年間(1558~1570年)、利根川の「平塚・横瀬の渡し」で渡し船を操っていた「川辺の船頭侍」、渋沢内匠(しぶさわ たくみ)の姿が描かれています。(※下図参照)
この背景には、戸谷八郎左衛門家が利根川水運を通じて「継送り」を務めた歴史と共通するものがあるように思われます。
利根川は、江戸時代を通じて水運の「大動脈」として機能しており、この川を活用した物流ネットワークが、地域の経済や文化の発展を支えていました。渋沢家が「川辺の船頭侍」としてその物流網を支えたように、戸谷家もまた、世良田から本庄へと移り住み、水運の「継送り(つぎおくり)」を通じて物流や情報の流れを促進する役割を担っていました。
さらに、渋沢栄一翁が利根川流域という豊かな物流環境の中で、商才や経済思想を磨いたように、戸谷家を含む「花の木18軒」の仲間たちもまた、この水運を基盤に本庄宿の発展に貢献しました。
こうした歴史を振り返ると、利根川の舟問屋や水運業務に携わる家々が、江戸時代の物流ネットワークの中で果たした役割の大きさを改めて感じます。渋沢家と、戸谷家を含む「花の木18軒」の仲間たちはそれぞれ異なる形で利根川を活用しながら、地域社会を繋ぐ重要な役割を果たしていたのだと思います。
◆広重が描いた53次・志田先生が伝え続けてこられた57次
※恵那市公式YouTubeチャンネル「志田威様ご講演『宿場街道が生み出す【交流と地方活性化】』」より https://youtu.be/F74H9ujFiUs
東海道と聞けば多くの人がイメージするのは、歌川広重が描いた浮世絵『東海道五十三次』です。
『東海道五十三次』は、宿場町や街道の風景を、鮮やかな色使いと構成、繊細な筆遣いで描き上げ、日本だけでなく世界中で愛されています。広重の浮世絵は、江戸時代の旅路を生き生きと私たちに伝えてくれます。
しかし、その陰で、長い間ほとんど知られていなかったもう一つの道、「東海道五十七次」がありました。「髭茶屋追分」から、京都を迂回して大坂へと続くそのルートは、歴史の中で忘れられがちでした。
けれども、そこにもまた、徳川家康の壮大な思惑が隠されていたのです。
この「東海道五十七次」を語り継いできたのが、志田威(しだ たけし)先生でした。志田先生は、10年以上もの間、講演会や交流会、シンポジウム等を通じて、五十七次の歴史的意義を伝え続けてこられました。先生のたゆまぬ熱意とご尽力によって、東海道五十七次の存在は少しずつ光を浴び始めたのです。
そしてついに、2024年、NHKの人気番組『ブラタモリ』が、三夜連続で「東海道五十七次の旅」を放送しました。タモリさんが旅したのは、「髭茶屋追分」から「伏見、淀、枚方、守口」の4宿を通り、大坂の「高麗橋」に至る、もう一つの東海道のルートです。タモリさんのユーモアあふれる旅の視点で紹介されたことにより、多くの方々に「こんな道があったのか!」と驚きと新たな発見をもって東海道五十七次の魅力や奥深さが伝わったのではないかと思います。
広重の浮世絵が東海道五十三次を広めたように、志田威先生が長年情熱を注いで伝え続けてこられた「五十七次」の価値が、『ブラタモリ』という形で結実し、多くの人々に知っていただくきっかけとなりました。
私たちが今日、東海道五十七次を知ることができるのは、広重が「五十三次」を描いたこと、そして志田威先生が「五十七次」の本質を伝え続けてくださったおかげだと深く感じています。
志田先生が積み重ねてこられたご尽力に、心より感謝申し上げます。
今回の『ブラタモリ』の放送をきっかけに、東海道五十七次の歴史と文化がさらに多くの方々に親しまれることを願っています。そして、私自身も「五十七次」の魅力を学び、広めていきたいと改めて思いました。
※志田 威先生と東海道57次については、よろしければ、こちらの記事もご覧ください。