~本庄・児玉地域の文化への貢献と、温かいお人柄に感謝を込めて~
先日、本庄を代表する画家であり、私の姉の中学時代の恩師でもある中村民夫先生がご逝去されました。
12月18日に執り行われた葬儀に参列させていただき、改めて先生の偉大な足跡と思い出に触れる機会となりました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
中村先生は、絵画という芸術を通じて地域文化の発展に多大な貢献をされた方です。
「麓原会(ろくげんかい)」での長年のご活躍や、温かいお人柄と深い芸術性は、多くの人々に愛され、敬われてきました。それらは、本庄におけるかけがえのない財産でもあります。
また、先生は姉の中学時代の美術の先生でもあり、そのご縁で私たちの店「戸谷八商店」にもたびたびお越しいただきました。中村先生との会話からは、絵画への真摯な思いや、本庄の文化に対する深い愛情が常に伝わり、そのお話を伺うたびに心が動かされ、新たな視点を得ることができました。
ここに改めて中村民夫先生を追悼し、先生の偉大さと本庄における功績について、少しでも多くの方にお伝えできればと思います。
◆教え子や親戚の方たちによって実現された「中村民夫個展」
葬儀に参列した際、先生の個展に関する埼玉新聞の記事をいただくことができました。
記事には、中村先生ご自身の画廊で一世一代の個展を開きたいという夢を叶えるため、中村先生の教え子だった飯塚守さんや、親族の小平雄二さんが支援者とともに展示準備を進め、「ぎゃらりー和可(児玉郡上里町)」で「中村民夫個展」を実現されたことが記載されています。
※「ぎゃらりー和可(上里町)」について、よろしければこちらの記事もご覧ください。
教え子の飯塚さんや親族の小平さんが中心となり、多くの支援者の協力を得て準備を重ねたことから、中村先生がどれだけ多くの人々に愛され、敬われてきたかが伝わってきました。
◆「麓原会(ろくげんかい)」について
中村民夫先生が所属されていた「麓原会(ろくげんかい)」は、戦後間もなくの混乱期に、本庄に文化の灯をともすべく発足しました。古川弘先生を中心として、中村先生の恩師である堀英治先生、山田鶴左久先生、金井邦松先生たちによって発足されました。
「麓原会」という名前の由来は、上毛三山や秩父連峰に囲まれた本庄児玉の地にちなみ、この地域を「麓の原」と表現したことから名付けられたものとのことです。
その精神は「美を厳しく追求し、郷土愛を持って地域文化の向上に寄与する」というものであり、先生もその理念を体現されたお一人でした。
◆本庄市長コラム:麓原会をご存知ですか?(平成28年11月1日号より)
「古川弘はそれまで『油絵には見劣りする』といわれていた日本の水彩画のレベルを、小堀進など他の水彩画家と共に、油絵に全く引けを取らない水準にまで高めた、いわば「水彩画革命」を起こした人物です。そして麓原会に集う、古川弘に影響を受けた多くの画家たちは、その後水彩画で「日展」へ数多くの出展を重ねるなど、大きな業績を挙げて行きました。まさに麓原会は我が国の水彩画革命のすそ野を広げた団体であったと言えます。」
◆「麓原展(ろくげんてん)」について
~昭和22年(1947年)に第1回公募展「麓原展」開催~
「麓原展(ろくげんてん)」は、昭和22年(1947年)に第1回公募展を開催して以来、70年以上続く絵画展です。現在も、本庄市立西小学校体育館にて毎年11月3日の文化の日を中心に開催されています。
麓原展には、会員、会友、そして一般の幅広い層から、多い時には150点もの作品が出品されます。
この長い歴史と伝統を持つ公募展は、全国的にも珍しいものであり、このような素晴らしい文化活動が根付いていることは、本庄にとって大きな誇りです。中村先生は、麓原展を通じて地域文化の灯をともし続けてくださいました。
※よろしければこちらの記事もご覧ください。
●戦後の本庄を元気づけた「麓原会(ろくげんかい)」と「本庄文学座」について
●2022年11月3日『公募 第72回 麓原展(ろくげんてん)』~70年以上の歴史を誇る公募展。3年ぶりに、「本庄まつり」と同時開催~
●『公募 第73回 麓原展(ろくげんてん)』(2023年11月3日~5日開催)に行ってきました。
◆本庄が誇る画家 ~中村民夫先生の足跡~
中村民夫先生が画家としての道を歩み始めたのは14歳の頃でした。
堀 英治先生に師事し、デッサンの重要性を説かれて以来、その教えを生涯にわたって守り続けました。戦後の物資が乏しい時代、先生はわら半紙にひたすらデッサンを重ね、15~16歳の1年間で約2000枚もの作品を描き上げました。その中には450枚に及ぶ「自画像」が含まれていたといいます。この圧倒的な努力の結果、15歳で日本水彩連盟展、18歳で日展に初入選するという驚異的な成果を挙げました。特に「自画像」の制作を通じて、先生のデッサン力はさらに深化し、若い頃から高い評価を受けていました。
亡くなる直前まで筆を手放すことなく絵を描き続けた中村先生。絵画に対する真摯な姿勢と探究心は、まさに生涯をかけたものだったのだと思います。
[参照]
『2019 中村民夫個展~自画像のさらなる展開』のパンフレットの中の秋山功氏(東御市梅野記念絵画館友の会会長)の言葉より
◆中村民夫先生【 画歴 】
●1932年(昭和7年)11月18日 埼玉県本庄市七軒町2756番地(現 本庄市銀座)に生まれる。
●1946年(昭和21年・14歳)堀英治氏に素描の手ほどきを受ける。以降、氏を師とする。
●1947年(昭和22年・15歳)第1回麓原会公募展に出品。以降現在まで出品。日本水彩連盟に出品。(※「自画像」が初入選)
●1951年(昭和26年・19歳)第1回埼玉県展に出品。(※県展で初入選)以降20回位出品。第7回日展に出品。(※全国最年少で日展に「自画像」が初入選)
●1952年(昭和27年・20歳)第8回日展に出品。(※日展で「女教師」が連続入選)
●1953年(昭和28年・21歳)白日会展に出品。以降15回位出品。
●1955年(昭和30年・23歳)埼玉大学教育学部美術学科入学。油彩画技法を学ぶ。
●1959年(昭和34年・27歳)第1回埼玉県北美術展に出品。以降つづけて出品。
●1960年(昭和35年・28歳)弟10回埼玉県美術展(10回記念賞)
●1961年(昭和36年・29歳)第11回埼玉県美術展(県知事賞)
●1963年(昭和38年・31歳)第7回安井賞候補展に出品。第1回中村民夫個展。以降、熊谷・高崎・本庄・伊勢崎の各市において23回の個展。
●1967年(昭和42年・35歳)ヨーロッパ長期美術視察旅行。
●1998年(平成10年・66歳)中村素描研究所「ギャラリー和可」設立。研究会発足(第3土曜日)。
●2007年(平成19年・75歳)藤岡美術会展に出品。以降、つづけて出品。
●2009年(平成21年・77歳)中村民夫素描研究所所蔵展「ゴヤ作版画展」
●2011年(平成23年・79歳)中村民夫個展・出版記念展(東京・京橋)
●2011年(平成23年・79歳)第1回「中村民夫素描集」出版記念展。
●2012年(平成24年・80歳)第2回「中村民夫素描集」出版記念展。
その他 自由出品:現代リアリズム展・彫好会展・高崎平和美術展・藤岡美術会展。
※『中村民夫油彩・水彩作品集 2013』より引用・加筆
◆中村民夫先生【 画集 】
『中村民夫 素描集』(中村民夫素描集刊行委員会、2010年)
【ごあいさつ~恩師堀英治氏との出会い、そして素描との出会い】
“「よく見ること」 「よく描きこむこと」 そして、 対象の把握が悪いときは消し、描き直すことを徹底的に指導された。 この時先生から教えられたことが、私が素描に夢中になるきっかけとなり、 中学3年(改正された教育行政により、 高等科卒業後、新制中学校となり3年に進入する) の時から本格的に素描(デッサン)の勉強(学習)を始めた。
当時の私の絵を「大人のような絵を描くね」 と批評をしてくれたのが、 終生の画友であった故持田政郎氏である。 何となく嬉しくて自負を感じた。
堀英治先生は、 絵画制作の基本である素描をきちんとやることを教えてくれた人である。 その時以来描き続けているデッサンの訓練が現在でも続けられ、私の絵画制作の根幹となっている。”
【私の素描(デッサン) について】
”私は、初めの頃は素描を「本画に対する下絵、下図、そして基礎練習として描くもの」という考えで描いていた。 しかし、いつの間にかその素描が絵画の表現形式の一つであり、素描そのものが作品として成り立つのではないかと考えるようになり、そしてこれも本画と何ら変わらないものなのだと確信を持つようになった。
以前から絵画に、本絵と下絵との区別があるのかと疑問に思うことがしばしばであった。 が、美術の表現は自由であるべきだということに気づいた。 そうした中、素描にますます夢中になり、 深く入り込む中で、先人の優れた作品の本質に触れ、それをたよりに更に描き込んでいくと、思いがけないモノに出会うこともある。それが神髄というものなのか、そのようなものに触れた時、今までにない喜びと、新しい緊張感を感じたことを今でも覚えている。
たった1本の鉛筆やコンテで表現された白黒の表現(世界) が絵画とは何かを私に考えさせてくれた。決して、その内容は高度なものではないが、絵画の本質を味わわせてくれたと思っている。 私は、水彩画や油彩画を中心にして制作してきたつもりでいたが、素描によって絵画の本質に触れることができたように思う。
私の今後の仕事の展開は、この素描が方向を示し、その流れの中で進められることになるだろうと考えている。そして、そのことを信じて制作を進めている。”
※『中村民夫 素描集』(中村民夫素描集刊行委員会、2010年)より
※2022年7月17日(日) に開催された『麓原会(ろくげんかい)夏季展』での中村民夫先生の作品について、こちらもご覧ください。
『中村民夫 油彩・水彩作品集 2013』
”絵を描くことは大人すぎてもだめだ
絵を描くことは大人にならないといけないのだ
絵は純真にならねば描けない
絵は生意気でなければ描けない
絵は絵の中に自分を引きずり込んで描かねばならない
絵を描くことを否定し、放り出し自分から隔離しなければ絵は生まれない”
※『中村民夫 油彩・水彩作品集 2013』より
中村先生の作品集には、『中村民夫素描集』や『中村民夫油彩・水彩作品集2013』があります。
画集を通して、中村民夫先生の卓越した素描力や、油彩・水彩における先生独自の表現が堪能できます。
◆「東那須(とうなす)」シリーズ ~卓越した線描の技~
中村民夫先生は、「東那須山」シリーズを1980年頃から描き始め、その後何十点もの作品を生み出されました。唐茄子(※カボチャの別名)のような東那須山を題材としたものです。
中でも最も大きな作品は、100号F(1,630x1,303)サイズのものがあるとのことです。
繊細かつ力強い描線が何度も重ねられ、先生の作品からは、周囲の空気を圧倒するような迫力を放っています。
東那須山を繰り返し描く中で、先生はその本質に迫り続け、自然や風景に宿る深遠な力を作品を通じて伝えようとされていたのではないかと感じました。
◆本庄市出身の画家・四方田草炎(よもだ そうえん)
" 孤高の素描画家 "(1902~1981年)
中村先生と同じ本庄出身の画家として、四方田草炎(よもだ そうえん)がいます。
四方田草炎もまた、素描を重視し、その表現力を極めた “ 孤高の画家 " として知られています。
草炎は、埼玉県本庄市に生まれました。はじめ川端画学校で学び、後に日本画家の川端龍子(かわばた りゅうし)に師事しました。号「草炎」は、川端龍子の作品『草炎』にちなんで授けられたものです。
「青龍社(せいりゅうしゃ)」の展覧会に入選し社子(しゅし)に推されるなど活躍しましたが、昭和13(1938)年に青龍社を脱退、いわば「在野」で活動することになります。戦中には空襲で多くの作品を失うも、戦後、群馬県霧積(きりづみ)山中の炭焼小屋で寝起きしながら、素描に全身全霊を注ぎました。1万点を超える素描作品は、対象の本質に迫る強靭な線と深みをたたえ、見る者を圧倒します。
横山大観が彼の素描を見て「君は一体どうしてこれが描けたのか、まさしく神の手だ」と称賛したことでも知られています。四方田草炎が素描を通じて描き出した世界は、炭焼小屋での山中生活で培われた対象への深い洞察によるものでした。
その姿勢は、中村先生の素描への思いと重なる部分があるように感じられます。
中村民夫先生は、素描について「絵画の本質を味わわせてくれた」と語り、そこに新しい発見と喜びを見出しておられました。同じように、四方田草炎も素描という表現を通じて、自らの絵画世界を構築しました。
お二人に共通するのは、「素描」を、絵画の基礎としてだけでなく、新たな画境追求への核心と捉えていたことだと思います。
[参照]
・群馬県立近代美術館HP「コレクション展示:四方田草炎の素描」
・『中村民夫 素描集』(中村民夫素描集刊行委員会、2010年)
◆2010年5月『中村民夫個展 ~ある旧日本兵の靴~』開催時の中村民夫先生
※「ytgunma1」様 YouTube チャンネル(https://youtu.be/QppliyDkx_8)より
2010年5月20日~25日開催
「20年前、高崎の若い画家Kさん(故人)が『中村さんはよく靴を描きますが、この靴をプレゼントします』とわざわざ本庄の私の家まで持ってきてくれました。その靴は旧日本兵の古い軍靴で戦況のすさまじさを想起させるものでした。靴が発する魂のようなものにひかれ一気に制作を始め、油彩、水彩、各種の素描を多数仕上げました。本展はその半数を展示しています。」(※【You Hall】中村民夫個展 ~ある旧日本兵の靴~より「概要欄」より)
◆『2019 中村民夫個展~自画像のさらなる展開』開催時の中村民夫先生
※『2019 中村民夫個展 ~自画像のさらなる展開~』パンフレットより
【中村民夫個展によせて】
東御市梅野記念絵画館友の会会長
秋山 功
この度、中村民夫先生が人物画に特化した個展を開催するとのお話を伺った。待ちに待った展覧会である。私は、この画家の特筆すべき才能、魅力は「自画像」にあると前から確信していたからである。
14歳で堀英治氏(元群馬県立富岡東高校教諭)に師事して以来、デッサンの重要性を説かれ、その教えを頑なに守りデッサンに励んだ。戦後間もない時期ゆえ、画用紙は高価なためわら半紙に描いたという。15歳から16歳までの1年あまりで凡そ2,000枚のデッサンを描いたと云うから尋常では無い。結局、描く対象も自分にならざるを得ず、うち450枚が「自画像」になったという。こうした努力と才能は瞬く間に開花し、弱冠15歳で「自画像」を日本水彩連盟展に出品して初入選を果たす。3年後には県展にも「自画像」を出品してこれも初入選、さらにその翌年には、全国最年少で日展に「自画像」が初入選するなど、この作家の「自画像」は若い頃から定評があった。また翌年の日展には後に妻となる同僚の女性をモデルに、「女教師」と題して出品し、連続入選を果たしている。
その後も、こうした実績や評価に驕ることなく熱心にデッサンに励み、1961年の県展では県知事賞、さらに63年には安井賞候補となるなど、その作品はさらに深化し、凄みさえ感じさせる。特にヨーロッパを訪ねたことが契機になり、北欧ルネッサンスの影響を強く受けたことで初心に返り、もう一度写実というものを見直し、自己のものにしてきた経緯がある。このような体験と長い鍛錬を通して培われたデッサン力により、現在の「自画像」では、自己の有り様を意識することなく、変幻自在に表現できる技術が身につき線描による中村独自の作風が生まれ、それは今なお修練を継続していることで簡略化され進化し続けている。
今回の展覧会はこの作家の十代から現在に至る、これまでの70年に渡る「自画像」の透徹した描写力とその変遷を一覧できる待望の企画であり、「美とは何か」を改めて考えさせたり、「本物の美」に出会える貴重な機会となることだろう。
【2019個展に際して】
中村民夫
この度の個展「自画像のさらなる展開」は私がかつて個展等で発表してきた極めて具象性の強い作品から大きく変わってきたと感じることと思います。自分の中では10数年前から作品の傾向として具象性だけではなく、平行して抽象的なものにも挑戦していました。すなわち、対象物(モチーフ)に対しての見方に変化が生じていきました。絵画の純粋な質に対して、違う角度から迫ってみたいと思ったのです。
日々の制作に対する姿勢が、たくさんの作品を描くうちに、「略す」ということで、現在の私の中に方法としての発見があったのです。今までの素描画は、制作するにも長時間であったのですが何度も描くうちに感覚的な描線に次第に変化して、結果的に早描きになっていきました。
出来上がった作品を比べると、対象物の捉え方の違いはありますが、新しい発見と共に魅力的な描線にも思えるのです。私にとってこの成行が自然であり生き生きとしたものとして画面に生気を感じさせていると思います。
*略す=緻密から進化した描く技法
●出品歴/水彩連盟展・白日会展・日展・安井賞候補展・藤岡美術会展・麓原会展
◆2022年5月『中村民夫個展 ~髪と花のコレクション展~」開催時の中村民夫先生
※中村民夫先生 個展DVD~「髪と花のコレクション展(2022年5月23日~31日開催)」(※菅野公夫先生ご作成)より
2022年、中村民夫先生の画廊「ぎゃらりー和可」(上里町)にて、「中村民夫個展 ~髪と花のコレクション展~」(5月23日~31日)が開催されました。
教え子の方々に囲まれ、笑顔を浮かべる中村先生の姿がとても印象的で、その喜びが伝わってきました。
※詳細につきましては、よろしければこちらの記事もご覧ください。
◆本庄の文化 ~中村民夫先生から教えていただいた天井画の伝統について~
生前、中村先生は、「本庄の神社の天井画は地元の画家が描くのが習わしだ」というお話をよくされていました。中村先生のお言葉を通じて、本庄の「天井画」という貴重な文化を私たちに伝えてくださったことに、心から感謝しています。
■金鑚神社 幣殿の天井画
金鑚神社「幣殿」の格天井には、江戸時代に活躍した武正南盧(たけまさなんろ)や小倉紅於(おぐらこうお)といった本庄宿の画家たちによる花鳥画が奉納されています。
(本庄宿の画家たちによる花鳥画)
■金鑚神社 神輿殿(みこしでん)
本庄宿のこの伝統は現代にも受け継がれ、中村先生もまた、金鑚神社「神輿殿(みこしでん)」の天井画「玉水双龍」を描かれました。天井画は想像を超える大きさで、力強い「龍」は、今にもそこに命を宿しているかのようでした。また、神輿殿(みこしでん)の四方には、中村先生による「四神画」(東「青龍」・南「朱雀」・西「白虎」・北「玄武」)が配置されています。
(中村民夫先生による『玉水双龍』)
■阿夫利天神社(あふりてんじんじゃ)の天井画
阿夫利天神社(本庄市)の天井画もまた、中村先生と地元画家たちによる共同制作です。
以前、例大祭で拝見した際、一枚一枚の絵が丁寧に描かれ、色鮮やかに社殿を彩るその姿に感動を覚えました。そこには、本庄の人々の幸せと平和を願う画家たちの思いが込められているように感じられました。
(本庄の画家たちによる共同制作)
(中村民夫先生画)
※「奉納天井画」に、中村民夫先生の名前も見えます。
◆本庄市の「阿夫利天神社(あふりてんじんじゃ)」の由来
①弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠が本庄城築城に際し、城の鎮守として、鬼門方向に「天神社(天満宮)」「神宮寺」「椿稲荷神社」を、裏鬼門には児玉党の「金鑚神社」をそれぞれ東本庄より移しました。
②天正18年(1590)本庄氏の滅亡後、新しい城主である小笠原信嶺は、椿稲荷神社(現材の「城山稲荷神社」)を新城内に移転しました。現在の「城山稲荷神社」です。
※「天神社」と「神宮寺」については天神林5反が寄進され小笠原氏によって保護されました。
③小笠原氏が国替え(古河へ転封)となり本庄城が廃城となると、「天神社」と「神宮寺」は衰微しました。
寛文7年(1667)「神宮寺」は「慈恩寺」として寺坂(現照若町)に再興され、「天神社」は、別当寺菅霊山自在院慈恩寺境内(現 本庄市照若町)に移されました。
④小笠原氏時代には金鑚神社が鎮守とされましたが、地元の人々は「天神社」を古鎮守として崇敬していました。
大正2年(1913)町役場建設にともない、「阿夫利神社」に「天神社」を合祀し、「阿夫利天神社(あふりてんじんじゃ)」が誕生しました。
【参照】
・『本庄のむかし こぼればなし(p132-133)』(柴崎起三雄著)
・『稲荷神社創建450年記念誌 本庄の歴史と城山稲荷神社』(本庄市本町自治会)
「阿夫利天神社」境内の常夜灯前にて
阿夫利天神社の境内には、常夜灯があり、その中央部分には「当駅 絹太織 商人 連中」の文字が刻まれていました。
◆本庄に息づく仲間を大切にする文化
「本庄の神社では、地元の画家が天井画を描くという風習がある」という本庄の文化に象徴されるように、本庄は地元の仲間を大切にする文化が根付いています。阿夫利天神社の天井画には、中村先生をはじめ地元画家たちが手掛けた作品が描かれ、その一つ一つに地域への深い愛情が込められています。
さらに、阿夫利天神社の境内には、常夜灯があり、その中央部分には「当駅 絹太織 商人 連中」と刻まれていました。これは、本庄の絹織物(太織)に関わる仲間たちが協力してこの常夜灯を奉納したことを意味しているのだと思います。この常夜灯には、絹織物で本庄を支えた仲間たちの思いや、地域全体を大切にする本庄の精神が刻まれています。
中村先生が所属した「麓原会」の精神「美を厳しく追求し、郷土愛を持って地域文化の向上に寄与する」や、天井画に込められた地元愛、そして常夜灯から見える絹織物仲間の絆、これらはすべて本庄に根付く「仲間を大切にする文化」を象徴しています。この文化は時代を超えて受け継がれているのだと思います。
中村先生はご自身の生き方を通じて、本庄の言葉や、伝統として受け継がれてきた本庄の素晴らしいところを体現し、今に伝えてくださる存在でした。
中村先生の本庄文化への思いが、先生の作品に宿る力強さや温もりの源であったと改めて感じます。
※2022年7月17日(日) 本庄市民文化会館で開催された『麓原会(ろくげんかい)夏季展』にて
◆葛飾北斎の言葉
~北斎は死の間際、90歳になってもさらに画風を変えようとした~
※https://ja.wikipedia.org/wiki/葛飾北斎より
◆天保5年(1834年)、北斎75歳の時の言葉
「己六才より物の形状を写の癖ありて、半百の比より数々画図を顕すといへども、七十年前画く所は実に取に足ものなし。七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故に八十才にしては益々進み、九十才にして猶其奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)。百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし。 画狂老人卍筆」
※『富嶽百景』初編の跋文
(私は六歳の頃から物の形を写生する癖があって、50歳の頃から数々の画図を発表してきたが、70歳より前に描いたものは、取るに足らないものであった。73歳になって、鳥獣虫魚の骨格や草木の成り立ちを理解できた。したがって、80歳でますます成長し、90歳でさらにその奥義を極め、100歳で神の域に達するのではないだろうか。100何十歳ともなれば、点や骨組みだけで、生きているような感じとなるだろう。願わくば長寿の君子よ、私の言葉が偽りでないことを見ていてください。)
◆弘化5年(1848)、北斎90歳の時、亡くなる間際の言葉
「翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめはといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめは、真正の画工となるを得へしと、言訖(おわ)りて死す、」
※飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、明治26年(1893)
(あと10年、いや5年の命を与えてくれば、本物の絵描きになることができるのに、と。北斎は90歳という年齢でありながら、亡くなる瞬間まで、もっと長生きして、絵を描きたいと願ったのです。)※太田美術館ウェブサイトより
中村民夫先生は御年90歳を超えても、「自分の可能性に挑戦する」心意気で毎日筆を取り続けていると、おっしゃっていました。
その姿勢は、江戸時代の有名な絵師・葛飾北斎を思い起こさせるものです。北斎は90歳に至るまで毎日筆を握り続け、「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」と自称したことでも知られています。北斎は余命が幾ばくもないにも関わらず、90歳になってもさらに画風を変えようとしていました。
中村先生もまた、90歳を迎えられてなお、新たな画境を探求し続けておられました。先生の作品には、単なる技巧を超えた「生きる力」が溢れており、「絵画の本質」を一途に問いかけるものでした。
90歳を超えてなお筆を持ち続けたお二人の共通点は、年齢に関わらず自分の可能性を追求し続ける精神なのだと思います。
◆本庄・児玉地域の文化を伝え続けてくださった画家・中村民夫先生
先生と直接お話しできる機会は、私にとっても貴重な時間でした。
先生のお話にはいつも、絵画や地域文化への深い愛情が感じられました。
また、先生を戸谷八商店まで車で送ってくださった姪っ子さんにも、心から感謝申し上げます。先生と共に過ごした貴重な時間を支えてくださったこと、感謝の気持ちでいっぱいです。
さらに、中村先生は、本庄出身の郷土の偉人である石川三四郎のレリーフや、児玉郡上里町出身で「日本女性水上飛行士第1号」として活躍し、国際航空連盟より「ハーモン・トロフィー賞」を受賞した西崎キクのレリーフも手掛けられました。それぞれの偉人の功績を後世に伝えるため、先生が込められた思いと芸術性が作品から伝わってきます。
中村民夫先生が遺してくださった作品と足跡は、私たちにとって大きな財産だと思います。
今後、中村民夫先生の作品が広く展示され、多くの人々がその純粋で真摯な精神に触れる機会が増え、先生の作品がこれからも人々の心に響き続けることを心より願っております。
中村民夫先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。