【本庄古美術展覧会①2023年11月】創設は昭和48年(1974年)。節目となる第50回展覧会はとても素晴らしかったです。
◆今年、記念すべき50回目の開催となった「本庄古美術愛好会」様
~会の発足は、昭和49年(1974年)~
「本庄古美術愛好会」様は、毎年秋に、『本庄古美術展覧会』を開催されています。
塩原 浩行氏が本庄古美術愛好会の会長を務められています。
本庄の郷土史家で、先日、シリーズ3冊目となる『本庄のむかし・お話集』を刊行された柴崎起三雄先生も、塩原さんと一緒に本庄古美術愛好会でご活動されています。
お二人のご尽力により、本庄の文化や歴史への理解が地域の多くの人たちに広がりつつあり、とてもありがたいです。
会の発足は、昭和49年(1974年)であり、大変素晴らしいことに、今回の展示会で50回という大きな節目を迎えられました。柴崎先生、塩原さん、本庄古美術愛好会の会の皆様、本当におめでとうございます!
(※2023年7月に開催された『本庄祇園まつり再開記念展示会』についてはこちらの記事もご覧ください。)
「第50回本庄古美術展覧会」パンフレット
【第50回本庄古美術展覧会】
~金井烏洲に連なる人物とその仲間たちの書画展~
■開催期間:令和5年11月23日(祝)~26日(日)
■会場:はにぽんプラザ2階 展示スペース
(埼玉県本庄市銀座1-1-1)
■展示品:金井烏洲に連なる人物と同時代の書画家、その他会員所蔵の書画、養蚕関連や地図などの史料
■主催:本庄古美術愛好会
■後援:本庄市文化団体連合会
■事務局:本庄古美術愛好会
幅が1メートル以上もあるとても大きな烏洲の作品でした。
「烏洲夫人・紀伊の実家である福島家からの求めで描いた作品であろう。婿が描いたのだからそれなりの力量が感じられる。原画が中国・明代の書画家・徐渭(じょい)が描いた作品を烏洲が写したものである。
彩色された南天は写実的であり、普段見かける烏洲の作品とは一味違った趣である。植物に南天と水仙が描かれている。このセットの絵画は『天仙図』と呼ばれ縁起物として庶民から好まれた。」(※本庄古美術展覧会パンフレットより)
パンフレットの表紙絵にも使われており、記念すべき第50回目の本庄古美術展覧会に相応しいとても縁起のいい烏洲の絵を拝見できてありがたかったです。
(※この烏洲の作品は、金井烏洲の妻・紀伊の実家である、新戒村福島家(深谷市)の蔵に保管されていたものとのことです。塩原会長が、新戒福島家についてのお墓の調査時、偶然、そのお墓は塩原さんの同級生の方のお墓だということが判明したそうです。身近でなじみの深い人の家に、ごく自然に大作品が存在していることに驚きました。)
◆塩原浩行会長が作成された【金井烏洲に連なる人たちの系図】
塩原浩行会長は、この展示会で金井烏洲に関わる人たちの詳細な家系図を作成し、展示してくださいました。時間をかけて丹精込めて作られたことが感じられる資料で、心から感銘を受けました。
この貴重な家系図は、金井烏洲の歴史と、烏洲に関わりのある人々のつながりを深く理解するために非常に重要な資料だと考えます。
(※会場に来られなかった方々にも、塩原会長の力作を知っていただきたいという思いから、その一部を基に以下にまとめさせていただきました。)
◆金井烏洲(かない うじゅう)
※「第50回本庄古美術展覧会~金井烏洲に連なる人物とその仲間たちの書画展~」(執筆:塩原浩行会長)パンフレットより
「さて、ここで金井烏洲の経歴について少し触れてみよう。
烏洲は寛政八(1796)年に生まれた。名は泰(たい)、諱を時、字を林学、通称は左忠太、当主になると彦兵衛を通称とした。書画家として朽木翁(きうぼくおう)。白莎邨翁(はくさそんおう)、獅子吼道人(ししくどうじん)等の号があった。「烏洲」の号は烏川の洲に住んでいたことが由来という。
一六歳で上州緑埜郡浄法寺村(現藤岡市) の浄土院僧・出三(緑埜道人)から画を学んだ。そののちに保泉村(現伊勢崎市)の鈴木広川と親交し学問を学んだ。この頃、父・万戸の交友から春木南湖が島村に遊歴し絵画の手ほどきを受けた。
二一歳で江戸に遊学する。昌平黌教授で儒学者の古賀侗庵に文を、朝川善庵に経史、菊池五山に詩を師事した。
また、 谷文晁や渡辺崋山など名立たる書画家や学者との交流から画や書などを吸収し研鑽を重ねた。因みに侗庵は古賀精里の子息で、妻は多賀谷氏で烏洲の母親と血縁関係がある。
三一歳で世を去った実兄・莎邨が長崎へ遊学したこともあり、烏洲も三七歳で異国の文化が漂う長崎へ足を運ぶため長旅に出た。この長旅に島村の田島梅陵(田島弥平の実父)を伴っている。途中に京都、大坂、広島等に立ち寄り、頼山陽、篠崎小竹などの学者や書画家と交流を深めている。しかし、長崎途上中で父・万戸の危篤の報を知り、長崎行きを断念し急ぎ上州島村へ引き返した。しかし、自宅に到着した時には、万戸はすでに死去していた。
その後は、万戸の跡を受けて酒井家知行所の名主となり金井家当主の通称である「彦兵衛」を襲名し村政にいそしんだ。そのかたわら、自宅のアトリエ「呑山楼(どんさんろう)」で筆を執り、本庄宿をはじめ上武地域での書画会等に精力的に参加した。 本庄宿では渡辺紅於・青於親子が経営する小倉山房という旅籠へ頻繁に訪れていた蘆雪・菅井梅関・宮沢雲山・依田竹谷・椿椿山などの名だたる書画家と親交を深めていった。また、俳諧にも興味を示し「金彦」の俳号で川村碩布等と親交があった。さらに、田崎草雲や鳥羽琴陵などの弟子をとり後進の指導も行った。
晩年になると、江戸ではアメリカのペリー来航等で日本の鎖国方針が揺らぎ、徳川幕府の政に不満を持つ学者や志士が尊王攘夷を唱え、幕府転覆を画策するものが増加してきた。当時、幕府からあらぬ嫌疑をかけられた藤森弘庵、寺門静軒など烏洲と親交のあった学者が島村へ隠匿することもしばしばあった。当時の島村は現在と違い、利根川や烏川が入り組んだ中洲に存在したので隠匿に格好の場所であったからであろう。
烏洲が尊王攘夷学者を擁護したのは何故か? これは、上州新田郡細谷村出身で三大奇人と言われた高山彦九郎の尊王思想に感化されていたのかもしれない。彦九郎と烏洲は先祖が同じ南朝に従った勤皇の忠臣・新田義貞の旧臣末裔ということを自負していたことによるだろう。また、この頃の烏洲家は貧困の危機に遭遇していた。烏洲とは縁のない伊勢崎藩の借財返済を肩代わりするハメとなり伊勢崎藩へ多額の融資をしたが、借金を踏み倒されてしまったのだ!
武家主体の封建制の矛盾に憤慨を感じていたであろう...
しかし、烏洲はあくまでも島村の村役人であったので表立った過激な尊王行為は慎み、あくまでも書画の趣味人として貫いていたのかもしれない。過激な尊王思想は烏洲の四男之恭が受継ぎ倒幕運動に加担していく。大老井伊直弼による尊王攘夷派の大粛清(後に安政の大獄)が行われる前年の安政四(1857)年一月四日に、烏洲は自宅に六二歳の生涯を終えた。大正七年、特旨で勤皇に尽くした功績で従五位を追贈されている。」
◆春木南湖(はるき なんこ)
~金井烏洲の画の師~
春木南湖(はるき なんこ)は、伊勢長島藩主増山雪斎に仕え、画業は大坂の木村蒹葭堂(きむら けんかどう)に師事。
壮年期になって4歳年下の谷文晁(たに ぶんちょう)の門下となり、山水画や花鳥画を得意としました。
◆椿 椿山(つばき ちんざん)
~“渡辺崋山”に師事。烏洲と交友。本庄宿の「小倉山房」にもよく訪れていた~
椿椿山(つばき ちんざん)は、渡辺崋山に師事し、金井烏洲とも親交があり、本庄宿の旅籠「小倉山房」にもよく訪れていたとのことです。
◆田崎草雲(たざき そううん)
~足利藩士。烏洲や、谷文晁の弟子~
渡辺崋山(わたなべ かざん)や田能村竹田(たのむら ちくでん)に私淑。
幕末期には勤王の士として活動し、維新後は再び画業に専念、明治11年(1878年)足利に「白石山房(はくせきさんぼう)」を構える。明治23年(1890年)皇居の杉戸絵を任され、同年、「帝室技芸員」に任命された。弟子に、弟子に小室翠雲(こむろ すいうん)がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデルです。
※「杉戸図」についてはこちらもご覧ください。
◆藤森弘庵(ふじもり こうあん)
~幕末の儒学者。安政の大獄で追放の処分を受け、烏洲を頼り島村(伊勢崎市境島村)に隠匿。渋沢栄一翁や尾形惇忠も弘庵から影響を受けた~
幕末の儒学者で、ペリー来航後『海防備論』を著し、安政の大獄で江戸追放となるが、のち許される。烏洲を頼り、島村や、しばらくして渋沢栄一翁や尾高惇忠のところに隠匿していたこともあったそうです。
※藤森弘庵が天保5年(1834年)に江戸で私塾を開いたとき、竹井澹如(たけい たんじょ)が弘庵のもとで学問を修めています。
◆金井研香(かない けんこう)
~金井烏洲の弟。妻は新戒福島家「福島熈周」の二女・不天子。慶応2年(1866年)に描いた「境街糸一繁昌之図」は伊勢崎市指定重要文化財。~
赤色は疱瘡除けの色であり、源為朝には、疱瘡や天然痘などの伝染病が広まれば為朝が鎮めてくれるという伝説があったということです。
金井研香の妻は、新戒村の福島熈周の二女・不天子です。
(※烏洲の妻は、熈周の長女・紀伊です。)
画を烏洲、春木南湖に、詩文は古賀侗庵に師事。
◆金井之恭(かない しきょう)
~烏洲の四男。高山彦九郎に感化されて倒幕に目覚め、岩松満次郎を擁立して挙兵を試みる。幕末期の志士。明治維新後は内閣書記官として政務をつかさどる。明治三書家の一人。明治9年4月に明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)とともに席書を行った~
◆大窪詩仏(おおくぼ しぶつ)
~常陸国(茨城県)出身の漢詩人。頼山陽や市河寛斎、「本庄宿」の小倉紅於と親交があった~
大窪詩仏(おおくぼ しぶつ)は、墨竹を得意としていたとのことです。
◆荒木天外(あらき てんがい)
~深谷市新戒の豪農・酒造家。明治2年の「備前堀用水取水口復活」の際には、尾高惇忠や渋沢元治等と岩鼻県を相手に奔走した~
※明治2年(1869年)の備前堀事件についてはこちらもご覧ください。
◆福島熈周(ふくしま ひろのり)肖像画
~新戒村福島家。新戒村名主。幕府からは「野廻役」に任ぜられた。金井烏洲と研香の義父~
「島村の金井家」と「新戒村の福島家」は、親戚関係にありました。
「島村金井家」の金井烏洲と、金井研香は、「新戒福島家」】福島熈周(ひろのり)の娘たちを妻としました。
(金井烏洲の妻は、福島熈周の長女「紀伊」で、金井研香の妻は、福島熈周の次女「不天子」です。)
◆常世田長翆(とこよだ ちょうすい)
常世田長翆(とこよだ ちょうすい)は、「本庄宿」ととてもゆかりの深い俳人です。
長翆は、「春秋庵1世」の加舎白雄(かや しらお)に師事。江戸で「春秋庵2世」として活躍していた長翠は、「春秋庵3世」を倉田葛山(くらた かっさん)に譲り、1794年、戸谷半兵衛(双烏)家に移住。「小蓑庵(こみのあん)」を開き、8年間本庄に滞在しました。本庄を中心に北関東、信州一帯に「春秋庵系」の俳諧を浸透させました。
「蘭亭曲水図」は、曲水に臨んで詩を詠んだ宴の様子を描いた作品です。文人画の画題として好まれ、江戸時代を通じて多くの画家が描きました。(曲折した流水に杯を流し、自らの前を過ぎるうちに作詩をし、詩ができなければ罰として杯を空けるという風流な様子を描いています。)
◆諸井春畦(もろい しゅんけい)
~本庄の旧家「諸井家(東諸井家)」の人。書の大家である西川春洞に学び、2,000人を越す門弟の中で、夫婦ともに「春洞門下の七福神」と称せられた。~
諸井春畦(もろい しゅんけい・時三郎)の兄は、秩父セメント創設者の諸井恒平(もろい つねへい)です。
弟は東亜製粉会社創設者の諸井四郎、陸奥条約改正に尽力た諸井六郎がいます。(諸井六郎は、歴史に深い関心を持ち、明治45年に『徳川時代之武蔵本庄』を出版しており、郷土史研究の名著として高い評価を受けています。以降、本庄の歴史書のほとんどが同書を原点としています。)
春畦は、日本の近代化に貢献した「東諸井家」の人で、渋沢栄一とは親類関係にあたります。
上京して経済学を修め、日本で初のビルブローカー業を始めた実業家として知られています。
書の大家である西川春洞(にしかわ しゅんどう)に師事し、妻のくら「華畦(かけい)」とともに、「春洞門七福神」と称され、「明治書道会」の会長をつとめ後進の育成に尽力されました。
著書に「書法三角論」、「書家宝典」などがあります。
墓所は安養院にあり、安養院境内には春畦の功績を記念して『春畦諸井先生碑』が建立されました。
「愛宕神社」には、諸井時三郎(春畦)氏によって揮毫された『敬神』碑があります。
※諸井春畦(時三郎)は、妻のくらの甥「柳田誠二郎」(後に日本航空社長)を一時的に養子にしています。
◆高木古泉(たかぎ こせん)
高木古泉(たかぎ こせん)は、熊本県出身の日本画家です。
古泉は「鯉の古泉」と呼ばれ、鯉の絵を描いたら日本一と言われるほど鯉や鮎の絵を得意としました。
昭和18年に疎開で、本庄町本町の柴崎先生の家に寄宿、終戦後もしばらく本庄に居住したため、本庄には古泉の作品が多く残っているとのことです。
◆三井親和(みつい しんわ)
安永・天明期には、三井親和の篆書・草書を反物に染出した「親和染」が好事家の間に流行。
三井親和は、高橋藩主・松平輝高に気に入られ、深川に屋敷が与えられました。
門下に林述斎(はやし じゅっさい)や、亀田鵬斎(かめだ ぼうさい)がいます。
とても味わいのある書です。
◆「南朝遺民の木印」(宮戸村・金井稠真)
直径約20センチもある大きな木印で、感動しました。
金井烏洲の長兄・金井 莎邨(かない しゃそん)の墓碑銘拓本です。
江戸で古賀侗庵(こが とうあん)に学び、漢詩に秀でていましたが、31歳の時、江戸の母の実家「多賀谷家」で落馬し急逝されました。
墓は江戸の「鳳林寺(ほうりんじ)」(東京都杉並区高円寺)に葬られ、「遺髪塚」が「金井烏洲と一族の墓」(群馬県伊勢崎市境島村)地内に建てられました。
拓本の書は、母の大叔父の子・多賀谷向陵(たがや こうりょう)によるものとのことです。
◆金井烏洲一族の墓(群馬県伊勢崎市境島村)
墓地には烏洲をはじめ、父の万古(ばんこ)、兄の莎邨(しゃそん)※遺髪塚、弟の研香(けんこう)ら一族の墓があります。
墓域には昭和4年(1929年)に造立した『金井烏洲副碑』もあります。
(※題額:東久邇宮妃殿下、撰文・書:渋沢栄一翁)
【金井烏洲に連なる人びとの系図】
上記は、塩原浩行会長が作成してくださった金井烏洲に関わる人たちの詳細な家系図です。この貴重な家系図は、金井烏洲の歴史と、烏洲に関わりのある人々のつながりを深く理解するために非常に重要な資料だと考えます。
(※会場に来られなかった方々にも、塩原会長の力作を知っていただきたいという思いから、その一部を基に以下のようにまとめさせていただきました。)
◆「金井家・系図」全図は下記をご覧ください。
※第50回本庄古美術展覧会(2023年11月23日~26日開催)『金井烏洲に連なる人物とその仲間たちの書画展』にて展示された系図(塩原浩行会長作成)より作成。
◆「金井烏洲先生碑」(昭和4年11月・伊勢崎市華蔵寺公園内)
パンフレット【参考文献・制作】
塩原浩行会長をはじめ、柴崎起三雄先生、「本庄古美術愛好会」の皆様方のご尽力のおかげで、地域の人たちに、本庄の文化や歴史に対する理解を広げ、地域への誇りを醸成してくださっています。その長年にわたるご活動に心から感謝申し上げます。
本庄宿の歴史の重みと文化の厚みを感じられるこの古美術展覧会は、地域の皆様にとって非常に貴重な機会です。このたびは、記念すべき第50回目の開催、本当におめでとうございました!