アジールの一事例として ~精霊、ムラピ山、南海の女王(ラトゥ・キドゥル)、ジャカルタの宇宙論的枢軸、精霊に供物を捧げる儀式「ラブハン」、バティック(Batik)、生命の樹、藍染め、灰~
◆神々や精霊の住む場所「ムラピ山」
ジャワ島では、イスラム教が多数派ですが、土着の信仰やヒンドゥー教の影響が強く残っています。
インドネシアのジャワ島にあるムラピ山は、古くから神聖な場所とされ、精霊や神々が住む場所と信じられています。特にこの山は、精霊の王が支配し、守護しているとされ、地域の文化や信仰において重要な役割を果たしています。
ジョグジャカルタ地方では、このような土着の精霊信仰が深く根付いており、自然災害への対応にもその影響が見られます。例えば、2006年に発生した南岸直下型地震やムラピ山の噴火により、1万人以上の人々が被災しました。
こうした災害の際、人々は、神の子孫であり、山や海の精霊とつながりのある国王とその王宮に除災を祈願し、「神旗(トゥングル・ウルン)」の巡回を求めました。
ジャワの王は神の子孫とされ、死後は神として祀られる存在であり、災害時には秩序と安寧をもたらす役割が期待されています。(※詳細は、深見純生「ジャワにおける天変地異と王の神格化」(PDF:544KB)へ)
さらに、コタグデ(Kotagede)やイモギリ(Imogiri)に祀られているマタラム王国の王たちの墓は、聖なる場所として崇拝され、「初期イスラム九聖人の墓所(PDF:585KB)」と同様に巡礼の対象となっています。
このように、ジャワの人々が現在でも精霊信仰を重んじ、精霊や神々とのつながりを大切にしていることを示しています。この信仰は、現代社会においても人々の人々の心の拠り所であり続けています。
◆世界遺産「ジョグジャカルタの宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群」について
~北方の「ムラピ山」から「南海」までを結ぶ哲学的な一直線~
ジャワ島には、ムラピ山、クラトン(王宮)、南海を結ぶ哲学的な一直線があります。
この直線は、2023年に、「ジョグジャカルタの宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群(The Cosmological Axis of Yogyakarta and its Historic Landmarks)」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
この直線が世界遺産に登録された理由は、北方のムラピ山から南海までを結ぶ一直線に沿った一連の歴史的建造物が、ジャワの宇宙論的な信仰や文化を象徴していることを評価されたからです。
「ジョグジャカルタの二方位観によると、世界は北と南の2つに分かれており、北はムラピ山と天上界、南はジャワ南海と根の国である。ムラピ山には山の精霊Kajiman である男神SapuJagad が棲んでおり、Sapu Jagad と南海に棲む女神 Ratu Kidul がジョグジャカルタを守護していると言われている。又、二つを結ぶ縦線を軸にして中央にジョグジャカルタの王宮がありスルタンがいる。
ジョグジャカルタの人々にとって、ムラピ山とジャワ南海は聖なる地域である。ジョグジャカルタが中心を成すこの直線が聖なるパワーを生み出すとされており、山々の噴火或いは地震、もしくは海からやってくる津波はこのパワーバランスが破壊されることを示している。」(※宮崎 裕子「インドネシア ジャワにおけるHantu(幽霊) について:Nyai Ratu Kidul の概略と変貌」PDF1.35MB より)
◆ジャワの伝統的な儀式「ラブハン(Labuhan)」
~ジョグジャカルタ王宮の人たちが、山や海の「精霊」たちに供物を捧げる儀式~
※Kraton Jogja 様 YouTube「Labuhan Ageng Dal 1951」より
0:00(ジョグジャカルタ王宮を出発)/1:28(南海・パランクスモでのラブハン)/2:54(南海・パランクスモ海岸でのラブハン)/3:36(ドレピの森 Dlephi Kahyanganでのラブハン)/6:35(ラウ山でのラブハン)/9:31(ムラピ山でのラブハン)
※通常ラブハンは、1年に1回、「南海」・「ラウ山」・「ムラピ山」の3か所で行われます。
8年に1回、「ドレピ」が加わり、4か所でラブハンが行われます。
「ラブハン」は、王が精霊世界と交信するジャワの伝統的な儀式です。特にジョグジャカルタ王国とスラカルタ王国で盛んに行われています。王が精霊たちに食べ物や供物を捧げ、精霊は王国の安寧を守り、災害から人民を守ります。
通常は、毎年、「南の海岸(パランクスモ)」、「ムラピ山」、「ラウ山」の3か所で各々の精霊の支配者に供物を捧げます。ジャワ暦のウィンドゥwindu(8年周期)にしたがって、8年に1度、「ドレピの森(Dlephi)」 も含めた4か所で「ラブハン」が行われます。
ムラピ山の民間伝承では、精霊たちはとくに「ムラピ山」、「ジョクジャカルタ」、「南海」の3つの王宮の間で頻繁に訪問しあうといいます。
◆「南海の女王(ラトゥ・キドゥル Ratu Kidul)」
~南海(インド洋)を支配する偉大な「精霊」~
南海の女王(ラトゥ・キドゥル)は、ジャワの伝統的な信仰においてとても重要な存在です。南海の女王は、ジャワ島の南海(インド洋)を支配する強力な精霊として古くから信仰されてきました。南海の女王は、緑色が好きで、この海に緑色の服を着て行くと、波にさらわれると伝えられています。またある伝承によると、ラトゥ・キドゥルが水中から上陸し姿を現す際、馬車に乗って王宮を来訪すると言われています。
ラトゥ・キドゥルは、非常に強力な精霊であり、海の嵐や災害を引き起こす一方で、王族に対しては守護者としての役割を果たすとされています。
◆交易の拠点としての「ジャワ島北岸」と、荒波のため下界から隔絶された「ジャワ島南岸」
ジャワ島北岸は浅い海と低地が続き、主要港町が栄え、海外交易の拠点となっています。
それに対して、ジャワ島の南岸のインド洋は、荒波が洗う険しい海域であり、航海が非常に危険とされてきました。そのため、南海は、交易のルートからも外れ、下界から隔絶されています。この海は自然の力や未知の力が支配する神秘的な場所として人々から恐れられてきました。南海は、ジャワ島固有の神聖な海となっています。
ラトゥ・キドゥルが南海に住むとされるのは、南海が荒海であり、人々から神聖で恐ろしい場所とされてきたためです。
南海の女王の信仰は、ジャワの文化や伝説において深く根付いています。
◆「ラブハン」の儀式が行われるそれぞれの場所について
「ラブハン」は、毎年、「南の海岸(パランクスモ)」、「ムラピ山」、「ラウ山」の3か所で各々の精霊の支配者に供物を捧げます。
ジャワ暦のウィンドゥwindu(8年周期)にしたがって、8年に1度、「ドレピの森(Dlephi)」 も含めた4か所で「ラブハン」が行われます。
◆「ムラピ山」はジョグジャカルタの北方に、「南の海岸」はジョグジャカルタの南方に位置しています。
◆「ラウ山」と「ドレピの森」はジョグジャカルタの北東に位置しています。
◆聖山「ラウ山」に祀られている精霊の支配者は、「マジャパヒト王国」の最後の王とその王子の霊です。彼らは「スナン・ラウ1世、2世」と呼ばれています。「ラウ山」でのラブハンの儀式は、「マタラム王国」が「マジャパヒト王国」の子孫であり、ジャワの正統な後継者であるという主張が込められています。【ラウ山でのラブハン動画(6:35)】
◆南海の女王(ラトゥ・キドゥル)と関わりがあるラブハンの場所は、「ラウ山」以外の3か所、「南海」「ムラピ山」「ドレピの森」です。
◆「ムラピ山」は、ラトゥ・キドゥルがセナパティに与えた卵の物語と関わります。
ラトゥ・キドゥルは、セナパティとの愛情の印として卵を与えました。この卵は、食べることで精霊に変身する力を持ち、実際にセナパティの家臣ジュル・タマンがその卵を食べると人知を超えた精霊の姿に変身してしまいました。セナパティは変身してしまった精霊が住む場所を探し続けた結果、ムラピ山が最もふさわしいと考えました。(卵は古代エジプト、ギリシャ、ローマなど世界各地の神話に登場し、生命や再生、宇宙の始まりなどを象徴しています。)【ムラピ山でのラブハン動画(9:31)】
◆「南海」は、セナパティがパラントゥリティス海岸(Pantai Parangkusumo)にあるパランクスモ(Cepuri Parangkusumo)にて瞑想修行中、ラトゥ・キドゥルと出会い、結婚の約束を交わした場所です。【南海でのラブハン動画(1:28)】
◆「ドレピの森」は、セナパティが瞑想修行中、ラトゥ・キドゥルが訪ねてきて蜜月を過ごしたと伝えられる場所です。8年に1度、「ドレピの森(Dlephi)」 も含めた4か所でラブハンが行われます。【ドレピでのラブハン動画(3:36)】
◆「ジャワ年代記」 ~「マタラム王国」の建国神話に深く関わる「南海の女王」~
「マタラム王国」は、16世紀から17世紀にかけてジョグジャカルタ地方に成立したイスラーム教王国です。
「南海の女王」は、特に「マタラム王国」の建国神話に深く関わっています。
「マタラム王国」の国王は、ラトゥ・キドゥルとの特別な霊的つながりを持つとされてきました。
『ジャワ年代記(Babad Tanah Jawi)』は、ジャワ島の「マタラム王国」(イスラーム教王国)の歴史を記した史伝で、「マタラム王国」の出自を「マジャパヒト王国」(ヒンドゥー教王国)に結びつけることを目的としています。
『ジャワ年代記』に登場するラトゥ・キドゥルの物語は、「マタラム王国」を建国したセノパティを中心に描かれています。セノパティが若くして王としての権威を確立する前に、瞑想修行のため南海岸(インド洋)へ向かい、そこで南海の女王(ラトゥ・キドゥル)に出会いました。ラトゥ・キドゥルはセノパティに惹かれ、「マタラム王国」の守護者となることを約束し、二人は結婚しました。
この結婚により、「マタラム王国」の国王たちはその後、ラトゥ・キドゥルから霊的な結びつきと庇護を受けることになりました(伝説によれば、ラトゥ・キドゥルはセノパティ以降の国王とも結婚するという霊的な関係が続いているとされています)。
さらに、歴代の国王たちは、ラトゥ・キドゥルへの敬意を示すために、毎年「ラブハン(Labuhan)」の儀式を行っています。
◆「マタラム王国」崩壊後も受け継がれる「ラブハン」の儀式
~18世紀中旬、マタラム王国が2つの国(スルタン国ジョグジャカルタとスラカルタ王国)に分裂した後も、両国でラブハンの儀式は続けられ、現在に至るまで受け継がれています。~
「ラブハン(Labuhan)」の儀式は、ジャワ島における古くからの土着の伝統に根ざしています。
特に「マタラム王国」時代に公式な宮廷儀式として定着しました。この儀式は、王が自然の力や精霊に感謝し、国の平穏と繁栄を祈るために行われるもので、特に南海の女王であるラトゥ・キドゥルへの捧げ物として知られています。
「マタラム王国」は、アグン王などの強力な国王によって繁栄しましたが、18世紀に入ると、内部の権力争いやオランダ東インド会社の介入により、1755年にマタラム王国は2つの王国(ジョグジャカルタ王国とスラカルタ王国)に分裂しました。
マタラム王国が2つの国(ジョグジャカルタ王国とスラカルタ王国)に分裂した後も、両国でラブハンの儀式は続けられ、現在に至るまで受け継がれています。
(※「ジョグジャカルタ王国」と「スラカルタ王国」は、インドネシア国内で特別な地位を保ちながら存続しています。「ジョグジャカルタ王国」は、特別自治州としてインドネシア国内で存続し、スルタン(国王)が州知事として政治的・文化的に重要な役割を担っています。一方、「スラカルタ王国」は文化的な象徴として存続しており、伝統を守り続けています。両王国はそれぞれの方法でインドネシアの文化的・歴史的遺産として今も存在し続けています。)
ジャワ島には、ヒンドゥー教や仏教、土着信仰が根強く存在していました。王国はイスラム教を国教としつつも、これらの伝統的な信仰を否定することなく、むしろそれらを取り込む形で独自の宗教文化を形成しました。
◆インドネシアの歴史・概略
インドネシアは多様な文化が共存する国であり、それぞれの地域に独自の土着信仰が息づいています。ジャワ島においても、ムラピ山や南海の女王といった「精霊」の存在が尊ばれ、その精神が今でも息づいています。こうした土着の信仰は、ジャワ島の伝統的な染色技法「バティック」にも深く反映されています。
◆王宮と関係の深いジャワ島のバティック(Batik)
バティック(Batik)は、インドネシアのジャワ島を中心に発達した伝統的な染色技法である「ろうけつ染め」を指します。
ろうけつ染めとは、染めたい部分を残し、それ以外の部分を蝋で覆って染色する技法です。
日本では「ジャワ更紗(さらさ)」として知られています。
ジャワ島のバティックは、「中部」と「北岸部」で模様や色調に異なる特徴があります。
「中部」では、王宮文化の影響を受けた特別なデザインや、藍(青)、茜(赤)、そして「ソガ」と呼ばれる茶色系統の落ち着いた色合いが特徴です。王宮に由来するバティックには、「パラン(Parang)」「カウン(Kawung)」「セメン(Semen)」といった、かつて王族や貴族のみに許された禁制模様も含まれています。
一方、「北岸部」では、貿易の中継地点であった特性から、さまざまな国々の影響を受けた多彩な模様と、自由で明るい色調が特徴です。
バティックは、2009年にユネスコの世界文化遺産に登録され、インドネシアの伝統文化を象徴するテキスタイルとして広く認知されています。
◆バティックの製作技術
バティックには、「チャンチン」という絵筆がわりの器具を用いる手描きと、「チャップ」という銅製のスタンプを用いた型押しの二つがあります。
(手描きによるバティック)
ロウで柄を描き、色を染めた後にロウを洗い流すと、ロウをつけた部分だけが色が染まりません。これを繰り返すことによって、緻密な柄を染め上げることができます。
(型押しによるバティック)
◆バティックの主産地「中部」と「北岸部」
~ジャワ島「中部」は王宮由来のバティック・「北岸部」は港町のバティック~
①ジャワ島「中部」 ~王宮由来のバティックの文様~
18世紀中頃、ジャワ島「中部」の「ジョグジャカルタ王宮」と、「スラカルタ(別名ソロ)王宮」は、王族や貴族が使用するための高品質なバティックが制作されました。王宮由来の伝統的なモチーフが残っています。
インドネシア最古の バティックモチーフの一つです。海の「波」のような形をしています。海の「波」は、自然エネルギーの中心、王を象徴しています。(王族と貴族のみに許された文様。)
インド神話に登場する霊鳥ガルーダや、山岳・建築物などのモチーフを、動物や植物のモチーフと組み合わせた模様は「スメン」と呼ばれ、ジャワ文化の世界観を表現しているともいわれます。 このバティックは腰にまく衣ですが、通常の腰衣(こしごろも)の2倍の大きさがある「ドドット」は、王侯や貴族にのみ着用が許された晴着でした。中央に六角形の無地の部分がある所がドドットの特徴で、その周辺に霊鳥ガルーダや、霊山、寺院などのスメン模様が手描きで染めあらわされています。
輪を縦横に重ねながら繋げた文様は、日本では「七宝(しっぽう)文様」あるいは「輪繋(わつな)ぎ文様」と呼ばれますが、ジャワでは「カウン」といいます。「カウン」は、一説には砂糖椰子(さとうやし)の実を輪切りにした文様と言われています。円形のパターンが繰り返されるデザインは、完全性や、宇宙や自然の調和を表現しています。 (王族と貴族のみに許された文様。)
日本で「椰子の実」と言えば、柳田國男と島崎藤村のエピソードが有名です。1898年、愛知県渥美町の伊良湖岬(いらごみさき)に旅した柳田國男は、黒潮に乗って海岸に漂着した「椰子の実」を見つけ、その感動を島崎藤村に伝えました。このことがきっかけになって、島崎藤村の「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実ひとつ」の詩が生まれました。
柳田國男は、漂着した椰子の実のように、稲が南から島伝いに伝わってきたとして1961年に『海上の道』を著しました。
②ジャワ島「北岸部」 ~港町(貿易の中継地点)のバティック~
ジャワ「中部」と「北岸部」では、バティックの模様や色柄が大きく変わっています。
ジャワ島の北岸部の「チルボン(Cirebon)」や「プカロンガン(Pekalongan)」等の都市は、貿易業者の中継地点でした。そのために、バティックのモチーフには、他国の文化交流の影響を受け、西洋・中国の華やかな模様や色柄のバティックが、作られるようになりました。
白地に茜の赤や藍の青を用いて、さまざまな動植物を散らした文様は、ジャワ島北岸の町、プカロガンのバティックの特徴です。筒状のスカートに仕立てられており、「鋸歯状(きょしじょう)」のトゥンパルと称される文様を前にして腰に巻くように着用します。「鋸歯状」の柄は、魔よけとしてよく使われていたものです。
メガムンドゥン(雨雲)柄は、チルボン地方で有名な柄です。その起源は、16世紀~17世紀頃のチルボン王国にまでさかのぼります。この時期、チルボンは交易の重要な拠点であり、中国をはじめとする多くの国との文化交流が盛んに行われていました。メガムンドゥン柄は中国の雲の文様の影響を受けたと言われており、雨雲は、「天からの恵みの雨を降らせてくれる縁起の良いもの」として、古くから大切にされてきたモチーフです。
◆北岸の港町「チルボン(Cirebon)」とバティックについて
「チルボン」は、ジャワ島西部の 北岸に面する港町です。16世紀に建国されたイスラーム教国「チルボン王国」の都です。現在もチルボンには4つの王宮(クラトン)が歴史的遺産として残されています。
(※チルボン王国はその後、マタラム王国などの強力な王国の影響下に置かれ、完全に独立した国家としての地位を保つのは難しかったとされています。)
それでも、チルボン王国は16世紀から17世紀にかけて繁栄し、貿易とイスラム学問の中心地となりました。この時期、王宮で使われるバティックも発展しました。
しかし、1677年には3つの王家に分裂し、1807年にさらに1つの王家が分かれました。
現在もチルボンには16世紀に建てられた4つのクラトン(王宮)が残っています。
◆1677年…3つの王家に分裂
・カセプハン王宮(Keraton Kasepuhan)[Map]
・カノマン王宮(Keraton Kanoman)[Map]
・カプラボナン王宮(Keraton Kaprabonan)[Map]
◆1807年…さらに1つの王家が分かれる
・カチレボナン王宮(Keraton Kacirebonan)[Map]
チルボンのバティックは、16世紀から17世紀にかけてのチルボン王国の繁栄と貿易の発展とともに、独特なデザインと色使いで広まりました。特に中国の影響を受けた「メガメンドゥン(Mega Mendung)」と呼ばれる雲模様が代表的です。これらのバティックはかつて王宮で使用され、現在も手作業で丁寧に作られ、国内外で高く評価されています。
◆「色」の発見・「染織」・「織物」の歴史
~「根源」をなすものへの恭敬(きょうけい)~
「土器に朱彩するということは、それ以前から身体そのものを装飾するために肌に直接塗ることも行われていた証でもある。やがて衣服を着るようになると、それに朱を塗る、あるいは朱で染めるということになった。さらに死者を葬るときに遺骨にも塗る。いわゆる施朱がなされた発掘品がある。これは古墳時代へ受け継がれていった。そして、その延長線上に古墳の内部への赤色を中心とした装飾があるのである。畏怖と畏敬の念が、赤という色にこめられていたからにほかならない。自然界で生活する人間にとって大切な、根源をなすものへの恭敬(きょうけい)でもあったといえる。(P6)」
※吉岡幸雄『日本の色を染める』岩波新書、2002年 より
◆「縄文時代の色と衣服」
縄文時代の衣服には、動物の毛皮や、麻(アサ)・芋(カラムシ)・葛(クズ)・楮(コウゾ)などからとった植物繊維を糸をゴザや簾(すだれ)を編む方法で編んだ物で、「編布(アンギン)」と呼ばれる布が使われていました。縄文時代前期中頃から中期末葉(約5,900-4,200年前)の日本最大の縄文遺跡「三内丸山遺跡(青森県)」からは「網カゴ(縄文ポシェット)」が出土されています。
日本人がはじめてつくった色は、土から採取した顔料の色は赤色といわれています。縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の「鳥浜貝塚(福井県)」からは、赤漆塗りの「赤彩土器」が出土されています。
また、縄文時代早期前半(約9,000年前)の「垣の島B遺跡(北海道函館市)」からは赤漆塗りの「肩あて」が出土しています。漆は「布」に塗布すると硬化するため、あらかじめ一本一本の糸に漆を塗布し「漆の糸」を作った上で柔軟性を持たせて編み込んだ「肩あて」です。縄文時代の人たちが高度な漆工芸技術を確立していたことが明らかにされています。
◆「養蚕」・「織物」の伝来
日本に「養蚕」や「織物」の技術が伝わったのは、弥生時代の中頃だと言われています。
弥生時代の「吉野ヶ里遺跡」には、染めた絹の遺品「日本茜(にほんあかね)」や「貝紫(かいむらさき)」が確認されています。
◆飛鳥・奈良時代
●飛鳥・奈良時代には、日本は百済や高句麗、隋や唐からの影響を受け、シルクロードを通じて中国や中央アジア、さらにはペルシャ(現代のイラン)やインドから輸入された織物が輸入されたり、日本の風土や美意識に適応した日本独自のデザインの織物が製作されました。これらの織物は、奈良の「法隆寺裂(ほうりゅうじぎれ)」や、東大寺伝来の「正倉院裂(しょうそういんぎれ)」として今に伝えられています。
◆平安時代
平安時代初期に遣唐使が廃止されてからも、遼から染織品が日本にもたらされていたことが明らかになっています。
◆鎌倉時代~室町時代
鎌倉時代から室町時代にかけては、中国(日宋貿易や日明貿易)や朝鮮半島との貿易が盛んになり、「錦織」や「綾織」、「刺繍」など新たな技術が取り入れられました。
◆南蛮貿易(16世紀後半)
特に16世紀後半にポルトガル・スペインとの「南蛮貿易」が始まると、ヨーロッパからも新しい染色技術や織物が伝わりました。長崎を通じて伝わった「更紗(さらさ)・バティック」や、ヨーロッパの「毛織物(ラシャ)」などが、日本の織物文化に大きな影響を与えました。
◆江戸時代(染色文化の担い手が町人・農民へ)
江戸時代の中頃になると、染織文化の担い手が公家、武家から町人、農民へと広がり、日本国内の染織技術が発展しました。特に京都や加賀の「友禅染」や、舞台衣装である「能装束」、各地で生産された絹織物や木綿の染物など、多彩な染織品が生産されました。特に身分の上下に関係なく着用された「小袖」は、近代の「着物」の原型となっています。
《バティック・更紗の歴史について》
●バティックの起源は、古代ジャワ時代(7世紀〜13世紀)にさかのぼります。この時期、インドネシアには仏教とヒンドゥー教の影響が強く、これらの宗教とともにインドからの技術や文化がもたらされました。
●シャイレーンドラ朝(750年〜850年頃)の時代は、「ボロブドゥール寺院」や「プランバナン寺院」などの彫刻やレリーフに、バティックのような模様が見られることから、この時期には既にバティックの技術が存在していた可能性が高いと考えられています。
●ヒンドゥー王国のマジャパヒト王国(1293年〜1527年)の時代には、バティックはジャワ島全域に広まり、宮廷文化の中で重要な位置を占めるようになりました。バティックの文様を創作し、描き、染色するという数ヶ月もの製作過程が、「ヒンドゥー・ジャワ的」価値のある精神訓練と考えられ、さまざまなデザインや色彩が開発されました。
●イスラーム王国(15世紀〜19世紀)の時代、バティックのデザインや用途にも変化が生じました。イスラームの教義に従い、偶像崇拝は禁止され、動物や人間の姿を描かず、「幾何学模様」や「植物模様」がバティックの主流となりました。
●イスラーム王国の新マタラム王国(1587年〜1755年)の時代には、バティックは王室文化の一部としてさらに発展しました。この時期のバティックは、王族の衣装として使用され、バティックのデザインは社会的地位や宗教的信念を反映するものとして重要視されました。
●19世紀にオランダがインドネシアを植民地化すると、バティック文化にも新たな影響が加わりました。
オランダ統治下でバティックは商業的にも発展し、ヨーロッパ市場に向けた輸出も行われました。オランダ人の影響で、ヨーロッパの花柄や色彩が取り入れられた新しいバティックデザインが登場しました。
●インドネシアの独立後には、バティックは国民的な象徴として再評価され、今日でも広く愛用されています。
2009年には、バティックは「ユネスコの世界無形文化遺産」に認定されました。バティックはインドネシアの文化とアイデンティティの象徴として、国内外で高く評価されています。
●日本にバティック(更紗)がもたらされたのは
日本にバティック(更紗)が伝わったのは16世紀末から17世紀初頭にかけての「南蛮貿易」がきっかけです。ポルトガル人やスペイン人の商人たちが、日本に東南アジアのバティック(更紗)をもたらしました。
室町時代から江戸時代初期にかけて日本に渡来したバティックは、「古渡り更紗」と称され、特に珍重されました。彦根藩主井伊家には、この「古渡り更紗」の見本裂が多数伝来し、「彦根更紗」として知られています。
日本に伝わったバティックの多くは、インドやインドネシアのジャワ島で生産されたものでした。これらの地域で作られたバティックは、独特の植物モチーフや幾何学模様が特徴であり、日本文化にも強い影響を与えました。
江戸時代には、更紗が大流行し、「長崎更紗」、「京更紗」、「江戸更紗」、「鍋島更紗」など、日本独自の更紗文化が形成されました。
◆布の力とアジール ~聖性を帯びる身体・自然・布~
《宇宙を表す「生命の樹」・樹木信仰》
グヌンガン(Gunungan)や、カヨナン(Kayonan)は、インドネシアの伝統的な影絵芝居であるワヤン・クリ(Wayang Kulit)で使用される象徴的な道具です。最初は中央に置かれており、脇に寄せられると物語が始まり、再び中央に置かれると物語は終わります。
(※ジャワ島では、ワヤン・クリの世界において「グヌンガン」と呼ばれ、バリ島では同じものが「カヨナン」と呼ばれることが一般的です。)
グヌンガンもカヨナンも、「山」としての機能をもち、「生命の樹(世界樹)」や森の動物などが描かれ、宇宙の秩序や生命、自然界の力を象徴しています。
「ワヤン・クリ」は、バリ島で800年の歴史を超えます。ワヤンとは「影」、クリッは「皮革(ひかく)」を意味し、ヒンドゥー教の影響のもとで発展しました。登場人物たちは土地の人びとの祖先の霊であるといわれています。
田中優子氏は『布のちから ~江戸から現在へ~』(朝日新聞出版)の中で、宇宙そのものの象徴としての「生命の樹」について述べています。
「生命の樹とは、この世の生命を司る木である。あるいは、この世界を成り立たせている宇宙そのものの象徴のことである。宇宙は山の形で表現されることもあるが、木の形になっていることもある。樹木を生命の原初的な形と考える考え方は、かつて世界中に拡がっていた。(p130)」
「生命の樹を何とするかは、その風土と関係する。ペルシャではナツメヤシやザクロ、エジプトではイチジク、北欧ではトネリコ、日本では松竹梅桜。民族の「生命力」「宇宙観」「世界観」の表現として、布ばかりでなく、絵画や彫刻にもなっている。(中略)
エジプトの生命の樹はイチジクだった。乳に似た白い汁を出すイチジクは大地母神の象徴で、女神イシスが木の姿で現れたものと考えられた。この乳は人間に永遠の生命を与えると言われ、人間に授乳をするイチジクが絵に描かれている。(中略)
ナヴァホ・インディアンにとっての生命の樹は巨大なとうもろこしだった。木の上には幸福の鳥がいて、さらにその上には天の父が住む太陽の家がある。ナヴァホ族はその樹を砂絵に描き、その砂絵は病気の治療にも使われた。またシベリア・シャーマンはその衣装に鱗のついた木と、その上の他界を描く。そしてその他界と交信する。(P130-132)」
さらに、田中優子氏は、季刊「生命誌」25号の中で、布作りは、単なる「表現」ではなく、繊維の生成から布の完成まで、すべてが生命に関わり、一つの生命を生み出す行為そのものであることを述べています。
「絹の場合は桑を育て蚕に食ませる。あるいは繭を探し出して集める。綿や麻の場合は、その植物を育てる。それらから糸を引き出し、糸を縒(よ)る。染料をつくる行程はさらに、植物や昆虫の生命の細部にまでつきあう。紅花を煮るとあざやかな紅に染まるが、竹を煮て染めてもただ白いだけだ。が、あるとき太陽の光が当たってふと気がつく。ただ白いだけだと思っていた布がかすかな竹色を帯び、虹のような光沢を放っていることに。」
「どんな植物を、いつ、どれだけ煮て、何回染めればどのような色になるか。種類、季節、成長の度合い、育った環境、糸の種類と状態──膨大な要素がからみあって、初めて「色」になる。生命の営みそのものだ。文様とは、そのような生命の営みを見つめるところから出現したのかもしれない、と私は思っている。パルメットにアカンサス、菊に梅に桜、鹿、鶴、孔雀、獅子や麒麟に様々な貝、そして、生命の根元を思わせる勾玉形の連続文様や、あらゆる生物を集めた集合文様まで、布はありとあらゆる生命のかたちを集め、織り出し、染め出す。」
◆「立木文様(たちきもんよう)」 ~生命樹を表現する日本独自の技法~
「生命の樹」を布に表現する際、通常は布の中央に一本の樹を配置し、大地から天上へとまっすぐ伸びるようにデザインされます。このデザインは巻きスカートやサリーなどの衣類には適さず、インドやインドネシアでは儀式用の掛け物、ペルシャでは絨毯に使われます。
しかし、日本では、一枚の布に一本の樹を配置するのではなく、仮仕立てをした着物に一本の樹を配置し、文様が仕上がったらまたほどいて本仕立てをする「絵羽(えば)」という技法で、着物に樹木を配置し、着用時にまるで身体そのものが樹木であるかのように仕立てます。
山中の夕暮れ、盛り上がる山に梅の樹が立ち上がって、紺青(こんじょう)に化した空に白梅が浮き上がり、その裾に春の七草が生えているという、春の生命力の出現をテーマとした着物。山から立ち上がる生命樹は、インドと同じ考え方となっている。(※『布のちから』より)
◆「藍染め」の歴史
藍染めの布は、世界の歴史の中でエジプト、インド、中南米、アフリカなどあらゆる民族の暮らしを彩ってきました。
●藍の歴史は古く、紀元前3,000年頃のインダス文明の「モヘンジョダロ遺跡」から、藍染め染織槽跡と思われる遺跡が発見されています。
●紀元前2,500年~1,200年頃に、エジプトの「テーベ古墳」からミイラを包む包帯「マムミー布」を発見。世界最古の藍染めの布です。
●紀元前1,336年~1,327年、「ツタンカーメンのミイラ」にも藍染めの布を使用。
●紀元前300年頃になるとシルクロードを通じて文明の交流が始まり、藍染の布製品が盛んに行き来していたこととされ、インドやエジプトを中心に世界各地に藍が流通していきました。
《日本における「藍」》
日本では、藍の歴史は奈良時代にたどると言われています。唐との交流が深まり、唐の文化や技術が日本に伝わり、藍染めの技術もその一環として取り入れられました。「タデ藍」は、出雲族が最初に栽培した藍と言われています。
「欧州で古く発見された藍は細葉大青(ほそばたいせい)であり、インドその他南方諸国は木藍(もくらん)、中国は蓼藍(たであい)、シベリヤやアイヌはえぞ大青、そして大和民族は山藍(やまあい)である。もっともこの大和民族の発見した山藍(やまあい)は、藍の含有量が少く、従って大陸から蓼藍(たであい)が伝えられると、まず出雲族あたりからこれが 用いられはじめ、やがて全く山藍(やまあい)が実用されなくなったものと考えられる。御即位式の際の小忌衣(おみのころも)のように、特別の儀式の際にのみ、古来から今日に到るまで、この山藍摺の衣服を用いるのは、恐らくはこうした事情のためであろう。(P12)」(※上村六郎著『生活と染色』1970年より)
●戦国時代には、藍の色の一つである「勝色(かちいろ)」が、縁起の良さから、武士のよろいの下を藍で染める需要が高まったと言われています。
時期を同じくして、現在でも使用されているタデ藍を使用した天然の藍染料である「すくも(藍玉)」を活用した染めの技術と製法が伝わり、藍の染料(藍玉)の生産が本格的に始まりました。
●江戸時代に入ると、徳島藩は藍の栽培を奨励し、藍の生産を増やすための政策を取っていました。藍の生産と取引は徳島藩にとって重要な収入源となり、その結果、日本全国に「阿波藍(徳島藩)」が広がりました。このように、藩による藍栽培の奨励も藍染めの普及を後押ししました。
また、木綿の普及に伴い、「武州藍(埼玉県)」・「久留米藍(福岡県)」・「三河藍(愛知県)」など幅広く藍染めが使用されるようになりました。
●現在でも、藍の葉は解熱、殺菌の漢方薬として使われています。
《日本の木綿の歴史》~江戸時代に全国に木綿が流通~
●江戸時代の「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」(1628年)
江戸時代、幕府は社会の秩序を保つために、特に庶民に対して華美な衣服や生活を禁止する「奢侈禁止令」を度々発令しました。この政策により、農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻に対しては紬の使用を許された)され、下級武士に対しても紬・絹までとされ贅沢な装飾は禁じられました。
奢侈禁止令により、庶民は絹よりも安価で手に入りやすい「木綿」や「麻」の衣服を着用するようになりました。この木綿や麻を染める際に、「藍染」が広く用いられるようになりました。藍染めは、色が濃く耐久性があり、何度も洗っても色落ちしにくいという実用的な特徴があったため、特に庶民の間で好まれました。
「紺屋(こうや、こんや)」は、江戸時代に染め物屋をさした言葉です。
紺屋は、古くから日本の各地に存在し、特に江戸時代には庶民の衣料を染める重要な役割を果たしていました。
《藍染の原理》
藍染は、藍の葉から得られる「インディゴ」を利用して行われる染色技法です。
藍染に使用されるインディゴは、タデアイ(蓼藍)やインドアイなどの藍植物の葉から得られます。これらの葉を乾燥させ、適度な水分を加えて発酵させることで「すくも(藍玉)」と呼ばれる染料の原料が作られます。
◆インディゴの性質
インディゴ自体は水に溶けにくい「不溶性」(Oが二重結合のため堅牢度が高い)の色素であり、そのままでは織物に染め付けることができません。そのため、藍染では、「すくも(藍玉)」を藍甕に入れて、発酵を促しながらインディゴを「還元」(Oが単結合に変化)し、「水溶性」の状態に変える必要があります。
◆藍染めの流れ
①「灰汁(あく)」を使ってインディゴを「還元」する
江戸時代、インディゴを「還元」するために、「灰汁(あく)」やふすまなどが用いられました。
(※「灰汁」は、木灰などを水に浸して得られるアルカリ性の液体です。)
「すくも(藍玉)」を入れた藍甕(あいがめ)において、「灰汁」やふすまなどを入れて、発酵を促しながらインディゴを「還元」します。「還元」されたインディゴは、水溶性の「ロイコインディゴ」に変化します。「ロイコインディゴ」は、黄色や緑色をしています。この状態で織物を染色液に浸けると、「インディゴホワイト」が繊維に吸着します。
②染織後「酸化」させることによって青色が現れる
染色された織物は、染色液から取り出すと、空気中の酸素と反応して「酸化」が起こります。この「酸化」によって、「インディゴホワイト」は再び不溶性の「インディゴ」に変化します。
この「酸化反応」が、布の表面に青色が現れる理由です。
③「酸化・還元のプロセス」を繰り返す
この「還元→染色→酸化」のプロセスを繰り返します。繰り返すことで、色がより深く、鮮やかに定着します。
この「酸化・還元プロセス」が、藍染の独特の「青色」とその「堅牢度・耐久性」を生み出しています。
※藍染についてはこちらも参照ください。
江戸時代、「紺屋」からは、長谷川等伯(はせがわ とうはく)、曾我蕭白(そが しょうはく)、亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)、鈴木其一(すずき きいつ)、歌川国芳(うたがわ くによし)など著名な絵師が輩出されました。
◆アジールとしての「灰」
藍染では、インディゴを還元させるために「灰」を用います。
使用される「灰」の種類や量は、藍染の質や発色に影響を与えました。たとえば、異なる木材の灰は、それぞれ異なるアルカリ性を持つため、藍の発酵や染色の結果に微妙な違いをもたらすことがありました。江戸時代の職人たちは、これらの「灰」の特性を熟知しており、最適な「灰」を選んで藍建てを行っていました。
柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために「人骨灰」が使われていたことが記されています。
「シンデレラ」は、フランスのシャルル・ペローやドイツのグリム兄弟によって書かれた童話です。
日本では「灰かぶり姫」として知られています。
「シンデレラ」の物語は世界中にさまざまなバリエーションが存在しており、現在再録されているものだけで450を超えているとのことです。
『カイエ・ソバージュ1 人類最古の哲学』の中で、中沢新一氏は、世界各地で存在する「シンデレラ」(灰かぶり姫)の物語について、ペレ―版、グリム版、水界の王子が登場するポルトガルの「灰かぶり猫」版、「骨信仰」によって仲介能力を獲得した中国の「葉限(しょうげん)」版、ミクマク・インディアン版をたどりながら、神話のもつ、人類最古の層にある豊かな哲学的思考を紹介しています。
「こうした神話によって、私たちは人間と動物がもともと深い共生関係にあったことを知ります。(P25)」
「あらゆる神話には、ひとつのめざしていることがあります。それは空間や時間の中に拡がって(散逸して、とでも言いましょうか)、おおもとのつながりを失ってしまっているように見えるものに、失われたつながりを回復することであり、互いの関係があまりにバランスを欠いてしまっているものに、対称性を取り戻そうとつとめることであり、現実の世界では両立することが不可能になっているものに、共生の可能性を論理的に探り出そうとすることです。(P25)」
「カマドは、人間の住む家の中で、異界または他界との転換点になっています。地球上の多くの地域で、カマドの火の中から妖精や悪魔や悪霊の姿をした異界の存在が飛び 出してくる神話や伝説がたくさん残されています。カマドは家の中で、生者の世界と死者の世界を仲介する場所と考えられていたらしいのです。(P197)」
「いつもカマドのそばにいる者は、体中に灰をかぶります。だからけっして見栄えはよくない。見かけはけっして美しくありません。しかしその心の中には、神話の時代の純粋さが保存されています。
仲介者の多くはこうして、内心は美しいのに、外見は灰だらけ、煤(すす)だらけで、身なりの汚い女の子として描かれることになります。(P108)」
神話は論理的な思考を用いるものの、その論理にひねりや歪みを加えることで、生と死を連続させたり、対立するものを結びつけたりするなど、あえて矛盾した状態を作り出す独特の構造を持っています。
そのため、神話においては、二つの矛盾する性質を一身に担う「仲介者」の存在が重要になります。これらの仲介者は、ひねりを加えた論理の中で登場し、物語の展開を支える役割を果たします。
「灰かぶり姫」は、生と死の両方の性質を持つ「両義的な」存在の典型です。彼女は「灰かぶり」という名の通り、灰にまみれている存在であり、灰や竃の世界の向こうには、古代の人々が「死者の領域」や「異界」が広がっていると考えていた世界があります。
「灰かぶり姫」は、この「境界」に立ち、「死者」や「異界」の存在とコミュニケーションを取る回路を開くことで、世界の構造を変えることができました。彼女のような生と死の両方の性質を持つ仲介者の存在によって、非対称になってしまった動物と人間、生者と死者の世界を連続的なものにすることが可能となりました。
藍染に使われる「灰汁(あく)」や、「灰かぶり姫」の物語で重要な役割を果たす「灰」と「カマド」について考えると、「灰」の持つ「アジール性」が見えてくるように感じます。
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【アジールとは】
●「アジール」の由来は、ギリシア語ἄσυλον(アシュロン)から来ており、「不可侵」の意味を持ちます。アジールは「聖域」「避難所」「中間領域」を意味し、いかなる権力も侵入できない特殊なエリアを指します。そのため、困難な状況にある人々にとってアジールは、世俗の権力やしがらみから解放され、生命や身体を守るための「避難所」として機能します。(例:満徳寺の縁切寺など)
●アジールが「不可侵」である理由は、アジールの背後に「死・再生・変容」という根源的自由の力がはたらいているためです。この力は、人間社会が成立する以前から、生命や存在の根本的なサイクル(循環)として存在していたもので、あらゆる権力や法律よりも古く、すべての権力の元になっているものです。
この原初的な力を象徴しているのが「アジール」です。アジールを侵すことは自分たちの土台を壊すことと同じことであるため、いかなる権力や法もアジールには侵入できず、アジールは神聖で不可侵な場所として機能します。
●アジールが設けられる場所は、宗教的な聖地(神社や寺院)、自然の境界的な場所(山や川、坂、橋、崖、岬、中洲、村境)、市場や宿など、「境界(中間領域)」に位置することが多いです。「境界」的な場所は古来から「死」や「再生」、「変容」の象徴として捉えられてきました。
●アジールが中間的な領域(境界)に位置することで、アジールは「神々の国」「死(他界、冥界)」や「異界(鬼、妖怪)」への回路として機能し、異なる世界間を橋渡し(仲介)する「両義的」な空間としてはたらきます。それによって、アジールは、単に物理的な保護だけではなく、精神的・霊的な意味での「再生」・「変容」の場としての意味を持ちます。
●たとえアジールそのものが物理的に消滅したとしても、アジールの源泉としてはたらく根源的自由の力は消え去らず、時間を超えて永遠に強く存在し続けます。
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【対称的な関係性とアジールについて】
●対称的な関係性について
技術の発展と経済重視が進む現代社会では、「生と死」や「人間と自然(動物)」の関係がますます非対称になっています。生命における重要性が「生」や「人間」に偏りすぎており、生命の維持や延命が優先される一方で、「死」は避けられるべきものとみなされています。また、動物は「家畜化」され、自然(動物)は、経済的な「資源」として消費される傾向があります。
●一方、「対称的」な社会では、異なる世界が共存し、「生と死」、「人間と自然(動物)」の間には深い結びつきがあります。
《生と死の「対称性」》
「対称的」な社会では、「生と死」の連続性が強調されます。
「生」は新しい形(例えばスンバ島の場合、祖先・祖霊)へと至る「過程」として、「死」はいのちの終わりではなく、新しい形(祖先・祖霊)への「変容(移行)」として受け止められます。人は「死」を通して、次なる存在へと変容し、死後も神聖な存在として家族や社会に影響を与え続けると信じられています。いのちの本質は、「死者を含む全体的なもの」としてより豊かに理解されています。
《人間と自然・動物の「対称性」》
自然や動物は、単なる物質的な存在ではなく、「野生」の領域で生きる「魂」を持った神聖な存在として扱われています。人間とは「対等」の関係で共存し、狩猟や採取の際には、儀式を通じて自然や動物からの恵みに感謝し、深い「敬意」をもって接されています。
●アジールは、異界や霊的な領域とつながる「境界」に位置し、「生と死」や「人間と自然(動物)」とのバランスを回復する可能性を秘めた空間です。
アジールは、現代社会が失いつつある「対称性」を再考するための重要なヒントを提供しています。
※(参考)
・『増補 無縁・公界・楽』網野善彦、平凡社、1987年
・『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一、集英社新書、2004年
・『対称性人類学 カイエ・ソバージュⅤ』中沢新一、講談社、2004年
・「アジールとモビリティ 網野善彦『無縁』論の可能性」舟木徹男、2020年
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「灰」もまた、生と死、動物と人間、この世とあの世(異界)など、相反するものを結びつける両義的な存在であり、神聖な働きを持っています。
都市化が進む現代において、「死」は遠ざけられがちです。しかし、「死者」や「異界」とのコミュニケーションを取るための回路を開き、生者と死者の世界を連続的なものとして捉えることは、現代においても重要だと考えます。
「灰」は燃え尽きた生命の残りであり、一見すると終焉を象徴するものです。しかし、同時に「死者」とのつながりを通じて新たな生命や始まりを生み出します。この「灰」が持つ「生」と「死」の両義性を通じて、「死」を単なる終わりとしてではなく、継続する生命の一部、あるいは新たな循環の始まりと捉えることができます。
「アジール」もまた、似たような二重性を持つ概念です。アジールは現世と異界をつなぐ中間的な場所で、通常の時間や空間のルールが通用しない特別な領域です。そこに入った者は保護され、癒され、新たな力を得るとされています。
「灰」が燃え尽きたものの象徴でありながら再生の象徴でもあるように、「アジール」もまた、「死者」とのつながりによって新たな始まりをもたらす場として機能し、非対称になってしまった動物と人間、生者と死者の関係を連続的なものにする可能性を秘めていると考えます。
◆ジャワ島のバティックにみる「アジール」
ジャワの人々にとって「バティック」は単なる衣服ではありません。
それは神とのつながりを示すものでもあります。人は生まれたときからバティックの布に包まれ、死ぬときもバティックの布で遺体が覆われます。
◆誕生の儀式(Birth ceremonies)
ジャワの伝統では、妊婦が妊娠7ヶ月目を迎えると、誕生の儀式が行われます。母親は6枚のバティック布と1枚のルリック布を交互に着用する必要があります。
そこで使用されるバティックは、普通のバティックではありません。各バティックのモチーフには高い哲学的意味があり、神の希望の糸であり、それは神への願いでもあります。
《誕生の儀式のモチーフ》
「ワヒュトゥムルン(Wahyu Tumurun)」…神聖な啓示や祝福がもたらされることを象徴。
「チャカル(Cakar)」…「爪」を意味し、勇気や防御、保護を象徴。
「ウダン リリス(Udan Liris)」…「細かい雨」を意味し、粘り強さや落ち着きを象徴。
「ケサトリア(Kesatria)」…「戦士」や「騎士」を意味し、勇気、名誉、忠誠を象徴。
「シドムクティ(Sidomukti)」…「成功」と「繁栄」を意味し、幸福、豊かさ、家庭の安定を象徴。
「アングレムヒヒ(Babon Angrem)」…母鶏が卵を温め、命を育む姿を表し、母性、保護、新しい命を育む力を象徴。
◆伝統的な結婚式(upacara pernikahan)でのバティックの使用
《伝統的な結婚式のモチーフ》
「グロンポル (Grompol)」…「集まる」や「一つにまとまる」を意味し、団結と調和を象徴。
「トラントゥム(Truntum)」…「芽生える」や「再び育つ」を意味し、新たな始まりや、再生を象徴。
「シドムクティ(Sidomukti)」…「成功」と「繁栄」を意味し、幸福、豊かさ、家庭の安定を象徴。
◆葬儀(upacara kematian)でのバティックの使用
《死者儀礼のモチーフ》
「スロボッグ(Slobog)」…「緩やかな」を意味し、死者の魂が穏やかに安らかに旅立つことを象徴。
「スロボッグ(Slobog)」のモチーフには神への回帰、再生という意味があります。 スロボッグは、地球上の次の生命を表しています。したがって、家族が魂をこの世に送り出すため、このバティックは遺体を埋葬に送るために使用されます。
スロボッグ バティックの役割は、死者を追悼するために使用されます。
このモチーフのバティックは、会葬者が着用する以外に、遺体を覆ったり、棺の裏地にも使用されます。これは、スロボッグのモチーフが亡くなった人に向けられた特別な意味を持っているためです。
「スロボック」という言葉は、「緩やかな」を意味するジャワ語に由来しています。ここでの「緩む」という言葉には、神と対峙したときに遺体が安らぎや平穏を感じ、困難に直面しないようにとの願いが込められています。したがって、葬儀でこの種類のバティックを着用することは、故人と遺された家族に不屈の精神と忍耐を与えてくれるよう祈る一種の儀式でもあります。
【参考】
・https://prabusenobatik.com/batik-slobog/
・https://en.wikipedia.org/wiki/Batik
・https://prabusenobatik.com/batik-slobog/
田中 優子氏(法政大学名誉教授)は、『布のちから』の中で、布は「人と神々あるいは人と自然界とをつなげる媒体(メディア)」であったと述べています。
「メディアつまり単数形のメディウムは、本来神と人、天と地をつなぐ役割の名称でもあり、いわば自然と人間の橋渡しをするものであった。そう考えると、布はメディアであり、ある時代までは建築物もメディアであった。彫刻も絵画もメディアとして取り扱われていた。」
※『布のちから』田中優子、朝日新聞出版、2010年(P22)より
田中氏が指摘しているように、ジャワ島の「バティック」は単なる染物ではなく、自然と人間をつなぐ「メディア」としての力を持っていると考えられます。
バティックの製作過程には、自然への深い敬意が表れています。染色技法では、布に蝋を塗り、その上から染料を重ねて模様を作ります。この技法は、美しい模様を生み出すだけでなく、その制作過程自体が神や精霊への祈りや感謝を込めた儀式的な行為となっています。
さらに、布に描かれる文様(モチーフ)は、神や自然の力を象徴しており、バティックそのものが精神的な意味を持つ「聖域」としての特徴を帯びています。
特に、特別な儀式で使用されるバティックのいくつかの文様は、その儀式のために特別に作られたものであり、儀式自体が神聖なものとして人々に受け継がれています。
このように、バティックは人生のさまざまな側面で、アジールとしての役割を果たし、「神聖な空間」と「現世」を橋渡ししていると考えられます。
バティックは、ジャワ島の精霊信仰や神話、伝統的な儀式と深く結びついており、その色や文様を通じて、人々は安心感を得るとともに、心の奥底にある古層の記憶に触れているのだと思います。