~いよいよ2024年7月3日(水)に、渋沢栄一翁の「新一万円札」が発行されます。~
念願の、渋沢栄一翁が肖像となる「新1万円札」の発行記念日(7月3日)が近づいてきました。
深谷市議会議員で、本庄NINOKURAやNPOくまがやなどで活動されている小林真(こばやし まこと)さんの記事「7月3日まで進行中!深谷史上最大のカウントダウン 新一万円札がやってくる」が深谷市の情報誌『Seien』に巻頭特集として掲載されました。
小林真さんは、深谷市と周辺地域で行われている渋沢栄一翁が新一万円札の肖像となる瞬間を前にしての動きを、「近づく」、「みえる」、「やってみる」、「祝う」という独自の4つの切り口から描写されています。
文章の端的でユニークな表現により、地域の高揚感がとてもよく伝わってきました。
◆やってみる(新一万円札)の項目で戸谷八商店についての記事
「やってみる(新一万円札)」の項目で、戸谷八商店についても取り上げていただきました。
小林真さん、ありがとうございます!
※遊び予約サイト「アソビュー! 渋沢栄一翁を辿るツアー」については、こちらをご覧ください。
https://www.asoview.com/item/activity/pln3000040994/
◆小林 真(こばやし まこと)さん
《小林真さん》
1963年9月26日生まれ。深谷市上増田(明戸地区)出身在住。
熊谷高校・明治大学(フランス文学専攻)卒業。深谷市市議会 議員(2022〜)。
熊谷市市民活動支援センター コーディネーター・相談員。風土飲食研究会 報道・制作。
認定NPO市民シアターエフ(深谷シネマ運営)理事長(2024年~)。NINOKURA(本庄市)・蔵主の亭主(2012〜)。
深谷市の情報誌『Seien』・熊谷市の情報誌『NAOZANE』編集/ライター。
埼玉県「共助仕掛人」。
Instagram:https://www.instagram.com/quarante_ans/
Facebook:https://www.facebook.com/makoto.kobayashi.9883
ブログ:blog.goo.ne.jp/quarante_ans
◆小林さんが立ち上げてくださった「本庄オープン古ハウス」
~「NINOKURA」蔵主の御主人でもある小林真さんは、2013年~2018年まで、8回にわたって「本庄オープン古ハウス」の企画・運営をなさってくださいました。~
小林真さんは、平成25年(2013年)に「本庄オープン古ハウス」という活動を企画してくださいました。
「中山道最大の宿場町」として栄えた本庄に残る古い建物の魅力を再発見し、「古い生活」から学び、「古い建物」を活用してまちを面白くするという小林さんのアイデアがとてもありがたかったです。
“まちを「よく」するにはどうしたらいいか。あれこれ考えるうち、まだまだまわりに残る古い建物を活かすと、おもしろくてのびのびした暮らしができるのではないか。そう思いました。
こうして考えたのが「オープン古ハウス」。(中略)
きらびやかなんかではないし、はらはらどきどきがあるわけではない。でもすこぶる居心地がいいし、ちょっとわくわくする。そんな古い建物の「いま」から、これからの暮らしを考えませんか。”
(※「第1回 本庄オープン古ハウス」チラシより)
「ずっとある・近くにある・いろいろある」というコンセプトを大切にし、本庄に残る「古い建物」を活かし、「新しい暮らし」につなげてくださった小林さんのご尽力に心より感謝しています。
「オープン古ハウス」が開催されるたびに新しい発見を感じることができて、非常に楽しかったです。
《カフェ NINOKURA様》
埼玉県本庄市千代田4丁目2−4
【営業時間】:土日祝11~17時・平日11~16時
【定休日】:木曜日
ホームページ:https://ninokura.info/wp/
◆渋沢栄一翁の説いた「道徳経済合一説」と「合本主義」
渋沢栄一翁(1840年 - 1931年)は埼玉県深谷市出身の日本の実業家であり、「日本資本主義の父」と称される人物です。約500もの企業の設立や運営に関与し、約600もの教育・社会事業にも携わり、民間外交に尽力しました。その功績は、ビジネスの枠を超え、日本の社会全体に深く根付いています。
◆【渋沢栄一翁が説いた「道徳経済合一説」とは】
「道徳経済合一説」とは、経済活動において、公益を追求する「道徳」と、利益を追求する「経済」は本質的に一致しどちらも重視すべきものであり、「経済(利益)」、「道徳(公益)」どちらか一方に偏ってはだめだという考え方です。
時として合理性の判断の根底にある「経済(利益)」のみになってしまっている場合もあり、また、公益を追求する「道徳(公益)」のみになっている場合もあります。
大切なのは、「道徳(公益)」が表にあるときは、「経済(利益)」が裏に無くてはならないということ、
「経済(利益)」が表にあるときは、「道徳(公益)」が裏に無くてはならない、ということです。
さらに大切なことは、道徳と経済の一致(相対立しているように思えるものの概念の一致)は「自然に」成り立つものではなく、常に意識して「問い続けなければならない」とのことです。(※企業家研究フォーラムHP・田中一弘氏「渋沢栄一の道徳経済合一説(pdf:1.1MB)」より)
渋沢栄一翁は、「道徳経済合一説」を思想的な基盤として、「合本主義(がっぽんしゅぎ)」を実践しました。
◆【合本主義(がっぽんしゅぎ)とは?】
“「合本主義」とは、「公益追求という使命・目的を達成するために最適な人材と資本を集め,事業を推進する」、そういう渋沢栄一翁の考え方です。”
「合本主義」とは、「公益(使命)」を実現するために、「資本(お金)」と「人材(公益を追求する人)」という2つの根源的な資源を集めて事業を推進するという経済発展のモデルです。
(※「株式会社」という制度は、使命と資本という2つの要素から成り立っていますが、「合本主義」では、使命・人材・資本の3つの要素が重要視されています。つまり、「合本主義」では特に「人材」の重要性が強調されています。)
そこで渋沢栄一翁は、「公益」を追求する視野の広さと高い倫理観のある人材を育て、人的ネットワークを形成するために「商法講習所(のちの一橋大学)」等の教育機関の設立に尽力しました。
渋沢栄一翁の書
(一橋大学附属図書館所蔵)
「水能性淡為吾友。竹解心虚即我師。」
(水は性格が淡白なのでよい友である。竹は心にわだかまりがないので我が師である。)
※白居易の七言律詩「池上竹下作」の一部分(頸聯:第五句、第六句)
◆【銀行とは?】
渋沢栄一翁は、日本で最初の銀行「第一国立銀行」の株主募集布告のパンフレットの中で銀行の社会的意味について以下のように語っています。
「銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝に溜まっている水やポタポタ垂れている滴と変わりない。(中略)
銀行を立てて上手にその流れ道を開くと蔵やふところにあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁昌するし、産物も増えるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての状態が生れ変わったようになる」(第一国立銀行株主募集布告)
「一滴一滴の滴が集まれば、大河になる」という表現は、日本一の流域面積を持つ暴れ川「利根川」の近くで生まれ育った渋沢栄一翁ならではのものだと感じました。
◆渋沢栄一翁と「利根川文化圏」
渋沢栄一翁の雅号「青淵」は、従兄で学問の師でもある尾高惇忠(雅号は「藍香(らんこう)」)によってつけられました。その由来は、栄一翁の生家の裏手にある「水が湧き出る青々とした深い淵」にちなんでいますが、「青淵」にはそれだけでは捉えられない深さや豊かさがあります。
栄一翁の人間的な深さや豊かさ(淵)の一端を捉えるには、栄一翁が生まれ育った「利根川文化圏」について考えてみる必要があるように思います。
◆利根川周辺の地域 ~水との関わりが深い地名~
旧榛沢郡の鎮守「島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)」
「島護産泰神社」は、江戸期までは旧榛沢郡の惣鎮守として崇敬され、社家は「森田家」が勤めました。
渋沢栄一翁の生まれた「血洗島」をはじめとして、この地域には、南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、伊勢島、瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬など、「島」や「瀬」のつく地名が多くがあり、『四瀬八島(よせはっとう)』と呼ばれました。
これは太古から利根川の氾濫で堆積物が積もってできた小高い土地「自然堤防」に人々が住み着いたためです。
『島護(しまもり)』という名称の由来は、利根川の氾濫でたびたび大きな被害を受けたこの地域で、この神社が地域の守護神として信仰されていたことにあります。
天明3年(1783年)の浅間山の噴火による利根川の氾濫の際、この地域が災難を免れたのは「島護産泰神社」の霊験によるものとされました。
◆「四瀬八島(よせはっとう)」
『四瀬八島(よせはっとう)』とは、四つの瀬と、八つの島に由来します。
◆「四瀬(よせ)」
横瀬(よこぜ)、中瀬(なかぜ)、滝瀬(たきせ)、小和瀬(こわぜ)
◆「八島(はっとう)」
南西島(みなみにしじま)、北西島(きたにしじま)、大塚島(おおつかじま)、内ケ島(うちがしま)、高島(たかしま)、矢島(やじま)、血洗島(ちあらいじま)、伊勢島(いせじま)
「利根川文化圏」が渋沢栄一翁に与えた影響について
【利根川の水運は物流の大動脈だったため物資・情報・文化がいち早く伝わった】
~交易の要衝・「自由で開放的な」アジールの場~
利根川の水運は、物流の大動脈でした。
渋沢栄一翁の生まれた血洗島のそばには、江戸時代に「中瀬河岸」という利根川流域最大の船着場があり、利根川を通じて江戸から物資や文化、情報がいち早く伝わりました。
「中瀬河岸」では、江戸からは食塩・醤油・昆布・荒物・干物・酒・味噌・鮭・肥料(〆粕、干鰯)等、日常生活品を入荷し、中瀬河岸からは米、麦、藍玉、蚕種等特産品を出荷していました。また、秩父の材木のうち、大物は「中瀬河岸」に取り寄せ、角材として江戸に出荷しました。
利根川の水運(舟運)に加えて、利根川の南方には「中山道」(現在のJR高崎線沿い)が通っています。
利根川の水運と中山道が並行して存在するこの場所は、交通・交易の要衝であり、開放的で風通しの良いアジール*1の空間でした。
【幼い頃からの経済活動】~既存の枠組みにとらわれない「流動的知性」~
栄一翁は、幼少期から商売や経済活動に触れる機会が多く、商才や経済思想を磨いていく機会となりました。栄一翁は、幼い頃から藍玉の製造や販売を手伝い、父親の代理で藍の葉の買付を成功させました。その経験から、渋沢栄一翁はビジネスの魅力を見出しました。22歳の時に、栄一翁は、地域全体の藍の品質を向上させるために番付表 『武州自慢鑑 藍玉力競』という新しいアイデアを考案しました。この番付表は、 「大関」「関脇」「前頭」のように、藍玉製造農家を大相撲の番付に見立てて格付けし、農家同士が競い合うことで品質と収穫量の向上を図るものでした。渋沢栄一翁は、現場での実践と新しいアイデアを結びつけ、既存の枠組みにとらわれずに、柔軟で創造的な思考を実践する「流動的知性」を持っていました。
※『渋沢栄一の深谷 写真で訪ねるふるさとの原風景』(さきたま出版会)をもとに加筆
【信頼できる仲間たちとの人的ネットワークの構築】
渋沢栄一翁が生まれた「中の家」では「藍」を栽培し、染料となる「藍玉」を製造していました。さらに、藍を栽培している農家から「藍」を買い付け、作った「藍玉」を紺屋に販売していました。
栄一翁は幼い頃から「藍玉」の製造や販売を手伝う中で、「藍」を作る人々や「藍玉」を売る人々とのネットワークを広げていきました。彼は仲間と共に工夫し合い、切磋琢磨しながら、優れた藍の製造を追求しました。
栄一翁にとって経済活動の醍醐味は、信頼できる仲間たちと共に成長していくことでした。それが幼少期から築いてきた横の連携(人的ネットワーク)への深い信頼から生まれたものであり、栄一翁が「財閥」のような階層的な組織を築くことを選ばなかった理由でもあります。
栄一翁は、財閥のような縦のつながりよりも、横の連携を重視し、中央・地方の双方で人的ネットワークを広げていきました。栄一翁は、「忠恕(ちゅうじょ)の心」*2を精神の根本に置いて「人と会って話すこと」を非常に重視しました。わずかな時間でも人と会うことを厭いませんでした。地方の経済人に対しても鉄道を利用して度々会いに行きました。直接会って話す中で相手の心を掴み、相手からの信用を得ることで、紡績、瓦斯、海運、電力、製紙、鉄道、製糖、ビールから社会事業に至るまで、様々な分野で人的ネットワークを構築しました。栄一翁は、信頼できる仲間たちと共に、様々な企業を立ち上げていきました。
【尾高惇忠が学問の師】~教育や学問の面でも先進地~
利根川文化圏であるこの地域は、早くから寺子屋や塾が開設され、教育や学問の面でも非常に進んだ地域でした。
栄一翁の従兄で学問の師である尾高惇忠も、この地域で教育活動を行っていた人物です。
惇忠は、自宅で塾を開き近郷の人々に学問を教えました。惇忠の思想の中心には、陽明学の「知行合一」という教えがありました。塾を「知行合一塾」と名付け、尾高塾の基本方針としました。
栄一翁は、惇忠から学び、大きな影響を受け、豊かな精神性を養うことができました。
栄一翁は惇忠のことを「藍香(惇忠)ありて青淵(栄一)あり」と称え、心から尊敬していました。
※『河岸に生きる人びと 利根川の水運の社会史』(川名登著)より
【利根川の水源地】
【日本一広い利根川の流域面積】
【利根川の氾濫との闘い】
石川三四郎が「利根川は偉大な活物である」*3と述べるように、利根川は、地域社会に大きな影響を与えました。
かつての利根川は、氾濫のたびに流路を変える「暴れ川」*4でした。人々は、利根川の氾濫のたびに甚大な被害を被り苦しむこととなりました。利根川については、小さな洪水を含めると、江戸時代の265年間に173回もの洪水が発生しているとのことです。(『利根川だより9』国土交通省 利根川上流河川事務所より PDF:927KB)
【利根川からの恩恵】
甚大な被害の一方で、利根川は多くの恩恵ももたらしました。
利根川の水は農業用水として使われ、洪水がもたらした水はけが良く、肥沃で豊富な養分を含んだ砂礫土は、藍や桑の栽培にとって最適な土壌となりました。また、洪水によって、蚕の病気の原因となるキョウソバエのサナギが流されたことで、健康な蚕を育てて、高品質な生糸を生産することが可能となりました。さらに、利根川流域は風通しが良く、養蚕に非常に適している環境となりました。
※徳島県も藍(阿波藍)の産地として知られています。特に吉野川流域は日本一の藍の産地とされています。
これは、徳島県にも、利根川(坂東太郎)と同じように、吉野川という「暴れ川」(四国三郎)があったためです。吉野川も度重なる洪水を引き起こしましたが、これが土壌に豊富な養分を供給しました。
利根川流域に住む人々は、度重なる洪水による命の危険にさらされつつも、利根川から多くの恩恵を受けました。
【三つ巴の戦いで経験した苦労と、弱者への思いやり・公益の精神】
また、北関東のこの地域は、約450年前、上杉氏・北条氏・武田氏という三つの大勢力が争う関東最大級の紛争地帯でもありました。この地域に住む人たちは三つ巴の戦いによって、多くの困難や苦労を経験しました。後ろ盾のない彼らには、絶え間ない戦乱の中で、自らの知恵と工夫で生き延びねばなりませんでした。その結果、この地域に住む人たちには、「自主独立の精神」と、「弱者への思いやり」、そして「亡くなった仲間たちへの慰霊の心」が育まれていきました。
このように、渋沢栄一翁が生まれ育った「利根川文化圏」の多様性と豊かさが、先進的な思想を体得した渋沢栄一翁という、傑出した人物を生み出す土壌となったともいえるのではないかと考えます。
(脚注)
*1
◆【アジールとは】
●アジールの由来
「アジール」の由来は、ギリシア語ἄσυλον(アシュロン)から来ており、「不可侵」の意味を持ちます。アジールは「聖域」「避難所」「中間領域」を意味し、いかなる権力も侵入できない特殊なエリアを指します。そのため、困難な状況にある人々にとってアジールは、世俗の権力やしがらみから解放され、生命や身体を守るための「避難所」として機能します。(例:満徳寺の縁切寺など)
●アジールの不可侵性
アジールが「不可侵」である理由は、アジールの背後に「死・再生・変容」という根源的自由の力がはたらいているためです。この力は、人間社会が成立する以前から自然や宇宙のはたらきとして存在していたもので、あらゆる権力や法律よりも古く、すべての権力の元になっているものです。
この原初的な力を象徴しているのが「アジール」です。アジールを侵すことは自分たちの土台を壊すことと同じことであるため、いかなる権力や法もアジールには侵入できず、アジールは神聖で不可侵な場所として機能します。
●アジールの場所
アジールが設けられる場所は、宗教的な聖地(神社や寺院)、自然の境界的な場所(山や川、坂、橋、崖、岬、中洲、村境)、市場や宿など、「境界(中間領域)」に位置することが多いです。「境界」的な場所は古来から「死」や「再生」、「変容」の象徴として捉えられてきました。
●アジールの両義性と機能
アジールが中間的な領域(境界)に位置することで、アジールは「神々の世界」「死(他界、冥界)」や「異界(鬼、妖怪)」への回路として機能し、異なる世界間を橋渡し(仲介)する「両義的」な空間としてはたらきます。それによって、アジールは、単に物理的な保護だけではなく、精神的・霊的な意味での「再生」や「変容」の場としての意味も持ちます。
●時間を超えて存在し続けるアジール
たとえアジールそのものが物理的に消滅したとしても、アジールの根底ではたらく原理や力は消え去らず、時間を超えて永遠に強く存在し続けます。
・・・・・・・・・・・・
◆【対称的な関係性とアジールについて】
●対称的な関係性について
技術の発展と経済重視が進む現代社会では、「生と死」や「人間と自然(動物)」の関係がますます非対称になっています。生命における重要性が「生」や「人間」に偏りすぎており、生命の維持や延命が優先される一方で、「死」は避けられるべきものとみなされています。また、動物は「家畜化」され、自然(動物)は、経済的な「資源」として消費される傾向があります。
●一方、「対称的」な社会では、異なる世界が共存し、「生と死」、「人間と自然(動物)」の間には深い結びつきがあります。
《生と死の「対称性」》
「対称的」な社会では、「生と死」の連続性が強調されます。
「生」は新しい形(例えばスンバ島の場合、祖先・祖霊)へと至る「過程」として、「死」はいのちの終わりではなく、新しい形(祖先・祖霊)への「変容(移行)」として受け止められます。人は「死」を通して、次なる存在へと変容し、死後も神聖な存在として家族や社会に影響を与え続けると信じられています。いのちの本質は、「死者を含む全体的なもの」としてより豊かに理解されています。
《人間と自然・動物の「対称性」》
自然や動物は、単なる物質的な存在ではなく、「野生」の領域で生きる「魂」を持った神聖な存在として扱われています。人間とは「対等」の関係で共存し、狩猟や採取の際には、儀式を通じて自然や動物からの恵みに感謝し、深い「敬意」をもって接されています。
●アジールは、異界や霊的な領域とつながる「境界」に位置し、「生と死」や「人間と自然(動物)」とのバランスを回復する可能性を秘めた空間です。
アジールは、現代社会が失いつつある「対称性」を再考するための重要なヒントを提供しています。
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※中世の頃には、境界には「異界(神々の世界)」からの特別な形での霊的な力が働き、不思議なことが起こりやすい場所だと考えられていました。村境に「お地蔵さん」や「道祖神」を多く祀ったのはそのためです。
※アジールの場である「市」には、各地を遍歴する芸能の民や山人、職人、商人などが村の外部から訪れ、「自由で平等・平和な」芸能や、交易活動を行いました。
※勝俣鎮夫氏は、「市」の本来的な原理について述べられています。
「市場では、売手も買手も同じくその売買物を神に供物として捧げ、神からその交換物をそれぞれ与えられるというかたちで売買がなされたのであり、その本質は、神との交換・売買であった。」
「所有者とその魂を含む所有物との呪術的関係を断ち切ってしまう『浄め』の場として、市は存在した。」
※折口信夫氏は、『山のことふれ』の中で、「市」の起源について述べています。
「(明日より春になるという日、鎮魂の冬祭りに市はたつ。)さうした祭り日に、神を待ち迎へる、村の娘の寄り合うて、神を接待く(イツク)場(ニハ)が用意せられた。神の接待場(イチニハ)だから、イチと言はれて、こゝに日本の市の起原は開かれた。」
「祭り日の市場(イチ)には、村人たちは沢山の供へ物を用意して、山の神の群行或は山姥の里降りを待ち構へた。山の神・山姥の舞踊アソビの採トり物(モノ)や、身につけたかづら・かざしが、神上げの際には分けられた。此を乞ひ取る人が争うて交換を願ふ為に、供へ物に善美を尽す様になつた。此山の土産は祝福せられた物の標(シルシ)であつて、山人の山づとは此である。此が、歌垣が市場で行はれ、市が物を交易する場所となつて行く由来である。さうして、山人・山姥が里の市日に来て、無言で物を求めて去つた、と言ふ伝説の源でもある。其時の山づとを我勝ちに奪ひ合ふ風が、後のうそかへ神事などの根柢をなしてゐ、又、祭りの舞人の花笠などを剥ぎ取る風をも生み出したのである。」
【参考】
・『増補 無縁・公界・楽』網野善彦、平凡社、1987年
・『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一、集英社新書、2004年
・『対称性人類学 カイエ・ソバージュⅤ』中沢新一、講談社、2004年
・「アジールとモビリティ 網野善彦『無縁』論の可能性」舟木徹男、2020年
・「売買・質入れと所有観念」『日本の社会史第4巻 負担と贈与』勝俣鎮夫、岩波書店、1986年
・「山のことぶれ」折口信夫、青空文庫 ※初出は『改造 第九巻第一号』1927年
◆【江戸幕府公認のアジール ~2つの駆込寺「満徳寺」と「東慶寺」~】
江戸時代、日本には幕府が認めた二つの公認の「駆込寺」(縁切寺)が存在しました。それが、群馬県太田市の「満徳寺」と、神奈川県鎌倉市の「東慶寺」です。これら駆込寺は、女性が逃げ込むことで夫との縁を切り、新たな人生を始めるための法的な救済手段として機能していました。当時の女性にとっての「アジール」であり、幕府が認めた法的な保護の場でもあったのです。
日本歴史学者の高木侃(たかぎ ただし)氏によると、「縁切寺(えんぎりでら)」は、近代以前に各地にあったアジールの名残りであり、男女差別が激しかった当時において、「縁切」の特権が認められたアジールは、世界に2つしか存在しなかったとのことです。
(※高木侃氏は、埼玉県本庄市出身です。当初は宮本町の金鑚神社前にご在住でした。)
※高木侃氏「特集・江戸開府から400年 三くだり半の世界 “縁切り”一筋に36年」(専修大学HPより)
◆【網野善彦氏によるアジール論 ~駆込寺の源流~】
◆日本の中世歴史学者の網野善彦氏は、『無縁・公界・楽』の中で、「駆込寺」の源流について述べています。
「寺院が『駆込寺』としての機能をもっているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる」(P101)
「寺院 は、多少ともアジールとしての性格をもっていたと思われるが、なかでも有名なのは高野山である。戦国、ここには『遁科屋』(たんくわ屋)が存在した。それはいかなる罪科人も、この門の中に足をふみ入れれば、その科を遁れうるという建物といわれ、高野山のアジール的性格を物語る最もよい証拠とされているが、こうした特質の源流は、やはり山林そのものの聖地性に求められるのではなかろうか。」(P103)
◆また網野氏は、中世日本における公権力の及ばない「無主・無縁」の空間に注目し、アジールの原理は近世以降も「きわめて多様な形態をとりつつ、人民生活のあらゆる分野に細かく浸透している」と論じています。(P198)
※網野善彦 1996 『(増補)縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』平凡社より
◆日本におけるアジール研究の先駆者 ~渋沢栄一翁の家族:穂積陳重(ほづみ のぶしげ)氏と穂積重遠(ほづみ しげとお)氏~
江戸時代、日本には幕府が認めた二つの公認の「駆込寺」(縁切寺)が存在しました。それが、群馬県太田市の「満徳寺」と、神奈川県鎌倉市の「東慶寺」です。これら駆込寺は、当時の女性にとっての「アジール」であり、幕府が認めた法的な保護の場でもありました。
「駆込寺」(縁切寺)に関して、最初に本格的な研究を行ったのが、渋沢栄一翁の初孫である法学者の穂積重遠(ほづみ しげとお)氏です。彼は、これらの寺がいかにして江戸時代の女性にとっての避難所であり、社会の秩序を保つための重要な役割を果たしていたかを明らかにしました。
また、穂積重遠(ほづみ しげとお)氏の父であり、渋沢栄一翁の長女・歌子の夫でもある穂積陳重(ほづみ のぶしげ)氏は、日本で初めてアジールについて研究した法学者です。穂積陳重氏は、東京帝国大学法学部の創設者の一人として知られています。1916年の講演で日本で初めてアジールに言及しました。
「本邦及支那においてこれに類似したものを強いて求めるならば、虚無僧寺の習俗及び移郷の制がこれに類似しているということが出来ようか」※「江湖・無縁・アゴラ ~もういちど「自由」の在処を探す~(P12)」より
(※江戸時代、虚無僧の寺に入ることで幕府からの追及を逃れることができた習俗がありました。)
穂積陳重氏は、「法律進化論」の立場から、「個人の復讐や報復」が法や国家の力で解決されるようになる過程で、「アジール」が重要な役割を果たしていたことを研究しました。
陳重氏によると、アジールという聖域の源は、社会や宗教的なタブー(古代の神殿、祭場、霊場、霊廟、墓などの神聖な場所)にあるとのことです。これらの聖域は、人々が触れてはならないものとされ、「復讐」の連鎖を終息させる場所として機能していました。
また、穂積陳重氏は、アジールが社会の平穏を保つ手段であり、「法的制度」としても治安維持に活用されていたことを主張しています。宗教的タブーを利用したアジールは、社会の安定に寄与し、「個人の復讐や報復」が「法」に委ねられる過程において重要な役割を果たしてきたことを述べています。
このように、渋沢栄一翁には、日本におけるアジール研究の先駆者である穂積陳重氏と、駆込寺という日本のアジールを研究した穂積重遠氏という、二人の法学者の家族(栄一翁にとって陳重氏は婿、重遠氏は孫)がいました。
(参考)
・穂積陳重氏『復讐と法律』(科学図書館ブックレット)PDF:1,1MB
・中島隆博、松方冬子、内田力、大木康、石井 剛「江湖・無縁・アゴラ ~もういちど「自由」の在処を探す~」(ブックレット東京学派 Vol. 1、東京大学東洋文化研究所、2020年)PDF:3.9MB
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NHKの朝ドラ『虎に翼』で、主人公・寅子(伊藤沙莉さん)を法律の世界に導いた恩師「穂高重親」(小林薫さん)のモデルは、渋沢栄一の孫である穂積重遠(ほづみ しげとお)さんです。穂積重遠さんは、戦後に東宮侍従長や最高裁判事などを務め、家族法の専門家として『離縁状と縁切寺』の研究も行っていました。数年前に亡くなった本庄市出身の高木侃さん(国際日本文化研究センター客員教授)は、戸谷八商店にも度々訪れ、渋沢家のことや太田市にある縁切り寺について多くのことを教えてくれました。その影響もあり、私は渋沢栄一翁が中世からの利根川文化圏(「赤城おろし文化圏」を含む)の影響を強く受けているのではないかと考えるようになりました。
*2
※「忠恕(ちゅうじょ)」は、『論語と算盤』の中で多数出てくる渋沢栄一翁が精神の根幹として最も大切にした言葉です。
論語の一節に『夫子(ふうし)の道は忠恕のみ』とあります。
「先生(=孔子)の説かれる道は、忠恕、即ち誠実と思いやりだけで貫かれているんですよ」という意味です。
「忠」は中心(真ん中にあって偏らない心、至誠、主体の根幹)、「恕」は如心(相手と一如、博愛、関係性の基底)。
渋沢栄一翁は、「忠恕」について以下のように述べています。
「忠恕は大変に必要なものであるから、もつと丁寧に説明する必要がある。忠恕は至誠と博愛が程能く働くことによつてその効果がある。至誠がなければ忠も恕も出来ない。即ち至誠のみで博愛がないと軟みが出来ない。又、博愛のみで至誠がないと一方に偏する。人には学問も知識も必要だが忠恕がその根本にならないと之を正しく活用することが出来ない。故に人は学んだからそれでよいものでなく、之に至誠と博愛とが必要である。人は至誠と博愛とさへ有つて程よく働けば学ばんでもよいやうなものであるが、学問知識がないと事物の正邪を鑑別するに偏狭になつて、正しき判断にならぬ。学問、知識にも、至誠と博愛が必要ではないか。そしてこの至誠と博愛とが練れて行つて程よく行はれることを忠恕と云ふのである。至誠あり之に博愛があつて人に情愛を作るから、人には至誠と博愛とが必要である。之は私の考へであるが、世に処するにはこの至誠、博愛―忠恕を拡張する必要があると思ふ。この至誠と博愛とが練れて行つて程よく行はれることを忠恕と云ふのである。」(※渋沢栄一記念財団HPデジタル版「実験論語処世談」より)
*3
本庄市山王堂出身の思想家・石川三四郎は、『石川三四郎著作集 第八巻(青土社)』の中で、故郷と利根川について以下のように述べています。
「私の生地は日本最大の関東平野の一角で、武蔵国(埼玉県)と上野国(群馬県)との境を流れている利根川べりの一船着場でありました。徳川幕府の江戸城下から西北方に百キロメートルを隔てた土地でこの地方と江戸とを結ぶ交通の要衝でした。今は本庄町から伊勢崎に通ずる県道が走り、阪東橋という大きな鉄橋が架っていますが、私が子供の頃は利根川を通る帆船が主要な運輸交通機関であり、私の故郷には何時も大小二十隻以上の帆船が行き来していたものです。御年貢米を始め主要な産物は、みなこの船によって江戸まで運ばれていったのです。いま私の故郷の歴史を顧みますと、この地方の住民がどれほど深く利根川の感化を受け、いかに密に利根川と運命を共にしたかが、しみじみと感じられます。いや、私の故郷だけではありません。関東の大部分がこの利根川の子であると言っても言い過ぎではないでしょう。
(中略)
利根川は偉大な活物である、とさえ私は常々考えています。前に話した寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)でも、田中正造翁でも、内村鑑三でも、新島襄でも、みなこの利根川の烈しい流れを連想して始めて諒解が出来ると思います。(P26-35)」
*4
昔から洪水や水害をもたらす河川を「暴れ川」と呼び、関東の利根川(坂東太郎)、九州の築後川(筑紫治郎)、四国の吉野川(四国三郎)を「日本三大暴れ川」と呼ばれました。
【利根川河岸絵図】
◆「新一万円札 くす玉開き大作戦」
https://www.youtube.com/playlist?list=PL9FmniE3vECawj7FB3xGBAn_oxavOUgeY
現在、深谷市内外から「くす玉開き大作戦」の動画が次々と投稿されているとのことです。
皆さんと一緒に渋沢栄一翁への祝福の気持ちを共有することのできる企画はとても素晴らしいと思いました。
(本庄市・新紙幣7月3日発行!くす玉開きお祝い動画)
◆渋沢栄一翁関連のさまざまな企画
渋沢栄一翁が肖像となる「新1万円札」が令和6年7月3日(水) に発行されることを祝して、深谷市ではさまざまなイベントが開催されています。
※深谷市HP「渋沢栄一関連イベント」についてはこちらをご覧ください。
https://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/shibusawa/seisaku/tanto/event/index.html
「カウントダウン関連企画」では、7月3日の午後5時30分から午後9時まで、深谷市役所駐車場で行われる、栄一翁が創設に関わった大手ビール会社が集まり、一夜限りの夢の共演を実現 「新一万円札発行記念ビアフェス」も開かれます。
とても面白そうです!
※「新一万円札発行記念ビアフェス ~万歳とSAKE Beer Tonight(サケ ビ タイ)~」についてはこちらをご覧ください。https://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/shibusawa/seisaku/tanto/event/16586.html
渋沢栄一翁は、500以上の企業の設立や運営に関わり、「近代日本経済の父」やと称される偉大な方です。さらに、600を超える社会・教育事業にも尽力され、まさに近代日本の礎を築かれた存在です。
戸谷八商店にも渋沢栄一翁の書があり、渋沢栄一翁の成し遂げた歴史的偉業とその意義を考えさせていただいております。
新一万円札が発行される7月3日を前に、深谷市全体が一丸となって盛り上がっている様子が小林真さんの記事を通じて感じ取れました。戸谷八商店も、渋沢栄一翁が新一万円札の肖像となるその瞬間を皆様と一緒にお祝いしたいと思っております。 小林さん、このたびはありがとうございました!
(※2024年7月3日追記)
7月3日を祝して、戸谷八も「渋沢栄一翁新一万円札発行 くす玉開き大作戦(個人向け)」に参加させていただきました。
「渋沢栄一翁・新一万円札発行」おめでとうございます!
※くす玉開き大作戦(戸谷八商店)の動画はこちらをご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=ttlxDchP20Q
◆くす玉開き大作戦(個人向け)につきましては、深谷市HPのこちらをご覧ください。
https://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/shibusawa/seisaku/tanto/event/16411.html