2024年3月15日、本庄市の本町自治会館で開催された「サルーンもとまち」の出前講座にて、『老舗15代目が語る!~本庄宿と埼玉の偉人 渋沢栄一翁~』というテーマでお話させていただきました。

~渋沢栄一翁、諸井家、そして戦国から続く本庄の「慰霊の精神」~

 

(左)本町自治会長 小高隆雄氏・(右)本町自治会顧問 清水正一氏
(左)本町自治会長 小高隆雄氏・(右)本町自治会顧問 清水正一氏
「本町自治会館」(埼玉県本庄市本庄3丁目2−1)
「本町自治会館」(埼玉県本庄市本庄3丁目2−1)
「本町自治会顧問 清水 正一氏」
「本町自治会顧問 清水 正一氏」

2024年3月15日、本庄市の本町自治会館で開催された「サルーンもとまち」の出前講座にて、『老舗15代目が語る!~本庄宿と埼玉の偉人 渋沢栄一翁~』というテーマでお話させていただきました。

 

「サルーンもとまち」は、本町自治会、これから会、民生児童委員、本町福祉活動委員会、そしてボランティアの皆さんによって運営されており、毎月第三金曜日に出前講座や健康体操、茶話会、会話、お口の体操などが行われています。

 

(右)司会・進行 山田 徹会長
(右)司会・進行 山田 徹会長
(前列向かって左側の席):本町自治会長 小高隆雄氏(左)・本町自治会顧問 清水正一氏(右)
(前列向かって左側の席):本町自治会長 小高隆雄氏(左)・本町自治会顧問 清水正一氏(右)

◆サルーンもとまちでの講座「老舗15代目が語る!~本庄宿と埼玉の偉人 渋沢栄一翁~」

「サルーンもとまち」での出前講座の様子 ※2024年3月15日 本庄ケーブルTV様「市民ニュース」より
「サルーンもとまち」での出前講座の様子 ※2024年3月15日 本庄ケーブルTV様「市民ニュース」より

 

講座では、江戸期に中山道本庄宿を開拓した際の花の木18軒の仲間たちの話をはじめ、郷土の偉人渋沢栄一翁に影響を受けて10社以上の会社設立に携わった11代目戸谷八郎左衛門・12代目戸谷間四郎の話や、本庄商業銀行と幻の上毛電鉄線についてお話させていただきました。

 

「サルーンもとまち」での出前講座の様子 ※2024年3月15日 本庄ケーブルTV様「市民ニュース」より
「サルーンもとまち」での出前講座の様子 ※2024年3月15日 本庄ケーブルTV様「市民ニュース」より
「サルーンもとまち」での出前講座の様子 ※2024年3月15日 本庄ケーブルTV様「市民ニュース」より
「サルーンもとまち」での出前講座の様子 ※2024年3月15日 本庄ケーブルTV様「市民ニュース」より

(講座資料)

2024年3月15日「サルーンもとまち」にて配布させていただいた資料
2024年3月15日「サルーンもとまち」にて配布させていただいた資料

1. 【起】 利根川のネットワークで結ばれていた「花の木18軒」

 

約460年前、新田家家臣の末裔である「花の木18軒」は、世良田(現:太田市)から本庄へ結集し、移り住みました。戸谷・関根・田村・内田・森田・丸橋・諸井・江原・木暮・今井・真塩・織茂・五十嵐など、18軒の家が中心となり、荒れ地だった本庄を開拓しました。当時は上杉氏・北条氏・武田氏の大勢力が覇権を争う三つ巴の戦乱地域でした。

 

2. 【承】 中山道最大の宿場町。本庄宿の繁栄

 

本庄宿が中山道最大の宿場町となり得た背景には、本庄城の廃城によって、中山道において有数の規模の宿場町となる本庄宿が形成されていったことや、前田家の参勤交代、江戸から適度な距離に位置すること、豪商の存在等がありました。

特に、豪商・戸谷半兵衛(※戸谷家の分家)の話では、彼が江戸日本橋に出店を広げ、人材育成や囲碁の名人である戸谷丈和の誕生に貢献した点もお話させていただきました。また、慈善活動として神流川だけでなく紀州の紀の川でも無賃渡しを行い、大名貸し(金融)としても活動したことを紹介しました。

 

3. 【転】 渋沢栄一翁に憧れた「リトル渋沢」

 

埼玉県北地域は全国でも有数の養蚕地であり、本庄地域は富岡製糸場に繭を供給する重要拠点でした。渋沢栄一翁が日本の経済・社会に多大な貢献を果たしたことは広く知られています。全国各地には、渋沢栄一翁に憧れ影響を受けた「リトル渋沢」が誕生しました。彼らは渋沢翁の影響を受け、数々の会社を立ち上げ、地域社会や教育、福祉に積極的に貢献しました。

本庄地域では、渋沢栄一翁とは縁戚関係にあり、栄一翁とともに日本近代経済の基礎を築いた「諸井家」のことや、渋沢翁に感銘を受け、10社以上の会社を立ち上げ、地域への貢献を実践した戸谷家の例を紹介させていただきました。

 

4. 【結】 世界に誇れる「利根川文化圏」に根差した経済活動

 

2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン氏は、日本人の「職人気質」と「共生」が素晴らしいと評価し、それが日本経済成長のエンジンとなっていると考察されています。

 

本庄地域の歴史においても、戦国時代の三つ巴の戦いの苦労で培われた「自主独立の精神」や、「弱者への思いやりの心」、「地域社会の共生の心」が、渋沢栄一翁や諸井家の哲学に反映されていることを強調しました。

渋沢栄一翁や諸井家の活動は、単なる利益の追求ではなく、公的な利益を目指して協力する姿勢が、今日まで受け継がれています。

 

また、本庄には、戦国時代の困難から生まれた「慰霊の精神」があり、それは現在の祭礼や地域活動にも受け継がれていることも話させていただきました。金鑚神社では「児玉党」への慰霊、阿夫利天神社では「歴代本庄氏」への慰霊、城山稲荷神社では、戦国時代に北条・上杉・武田の三つ巴の戦い及びその後の小田原征伐で亡くなった「本庄近朝」や、命を落とした数多くの「花の木18軒の仲間たち」への慰霊の意味が含まれています。

 

『関八州田舎分限角力番付』(豪商番付)には、中山道「本庄宿」の戸谷半兵衛(とやはんべえ)が大関格に番付されています。
『関八州田舎分限角力番付』(豪商番付)には、中山道「本庄宿」の戸谷半兵衛(とやはんべえ)が大関格に番付されています。
「リトル渋沢 本庄市における一例(戸谷八の場合)」 ※渋沢栄一翁に感銘を受けて、11代目戸谷八郎左衛門と12代目戸谷間四郎は10社以上の会社を立ち上げました。
「リトル渋沢 本庄市における一例(戸谷八の場合)」 ※渋沢栄一翁に感銘を受けて、11代目戸谷八郎左衛門と12代目戸谷間四郎は10社以上の会社を立ち上げました。

◆本庄の旧家「諸井家の人たち」

諸井家と渋沢家は江戸時代より親戚関係がありました。

(泉衛の妻佐久は、渋沢栄一の従姉妹です。)

 

諸井恒平氏は、1887年(明治20年)、栄一翁の推薦で日本煉瓦製造に入社。1923年(大正12年)にはセメントの需要拡大を見込み、秩父セメント会社を設立し、「セメント王」と呼ばれる地位を築きました。恒平氏は、渋沢栄一翁・尾高惇忠翁・原富太郎(三渓)氏といった近代日本を代表する財界人達との親交がありました。

 

恒平氏の長男・諸井貫一氏は、「日経連」・「経団連」の創設に関わりました。経済活動を公益に結びつける理念を実践した渋沢栄一翁の「公益」の精神を継承し、社会全体の発展に貢献する経済リーダーとしての役割を果たしました。諸井貫一氏の「マジョリティが現在を作り、マイノリティが未来を創る。全員反対したものだけが一考に値する。」という言葉は、既存の枠組みや慣習に固執することなく、異端の意見や少数派の考えを真剣に受け入れることの重要性を表しています。一見すると挑発的に感じられますが、渋沢栄一翁の「公益」を軸とした経済活動とも共鳴しています。社会全体の利益を重視し、持続可能な経済活動を進めるためには、短期的な利益に偏りがちな従来のマジョリティの視点を超え、新しい価値観や長期的な視点が必要です。諸井貫一氏の言葉が示す通り、少数派の意見や反対意見を積極的に評価することが、既存のシステムの中に埋もれた可能性を掘り起こし、最終的には社会全体にとって価値のある解決策が生まれることになります。

 

さらに、諸井家の人たちは専門知識や技術を深め、多方面で活躍しました。

諸井時三郎氏は優れた書家として名を馳せ、西川春洞に師事しながら「春洞門下の七福神」と称されました。

 

また、諸井誠氏は、「彩の国さいたま芸術劇場」初代館長に就任するのと平行して、芸術総監督に就任し、現代音楽における先駆的存在として活躍しました。

 

「諸井誠の率いるこの劇場は、音楽などの面でも、長期的な展望にそった独自のプログラムを組み、高い評価を集めている。ピナ・バウシュの来日公演がそういう長期的なプログラムの中に織り込まれていくとしたら、これほど嬉しいことはない。高い見識をもった芸術監督が独自の方針を長期的に追求していくという、当たり前と言えば当たり前のことが、残念ながらきわめて稀にしか行われていない日本では、さいたま芸術劇場の存在は貴重である。」(※浅田彰氏「ピナ・バウシュの魅力より」)

 

諸井六郎氏は、外交官として条約改正に実績を残しました。六郎氏はまた歴史に深い関心を持ち、明治45年に『徳川時代之武蔵本庄』を出版しており、郷土史研究の名著として高い評価を受けています。以降、本庄の歴史書のほとんどが同書を原点としています。

 


(右)司会・進行 山田 徹会長
(右)司会・進行 山田 徹会長

 

 

講座終了後、参加された皆さんが本庄の歴史に改めて興味を持ち、本庄の文化や諸井家のこと、そして渋沢栄一翁の偉業に感心してくださったことが、私にとってとても嬉しい体験となりました。

 

さらに、戦国時代から続く本庄の「慰霊の文化」に対する理解と興味を持っていただけたことにも、大変感慨深いものがありました。

 

これからも、本庄の歴史とその根底にある精神的な価値観を地元の皆さんと共有し、地元のつながりを深める講座を提供し、多くの方々に喜んでもらえたらと思いました。

 

このたびは、ご清聴くださいました皆様、本当にありがとうございました。