~「台町の獅子舞」や、創建当時の輝きを取り戻した「本町の天王神輿」の御神幸祭(ごしんこうさい)も執り行われました。~
◆本庄祇園まつり「神輿巡行」
◆本町の「大人神輿」が御仮屋へ帰着
◆【本町天王神輿(もとまち てんのうみこし)】ご神幸祭
『本町天王神輿(もとまち てんのう みこし)』は、牛頭天王を祭神とする、256年前の、明和4年(1767年)に造られた神輿です。(本庄市指定文化財)
柴崎起三雄氏は、『本庄のむかし こぼれ話』の中で、本庄祇園まつりの起源である市神様の祭礼と、本庄祇園まつりにおける神輿渡御の始まりについて、以下のように記されています。
「江戸時代、本庄宿は商業発展を目指し、月六回の定期市を開くことを定め、本町、中町、上町の三町が隣の榛沢村に交渉し、市開催の権利と市神様を譲り受けた。寛文3年(1663年)のことである。
譲り受けた市神様の石宮は中山道の田村本陣前に祀られ、本町が市神様の管理や祭などを仕切ってきた。この市神様の祭礼が本庄祇園まつりの起源である。
(中略)
当初は市神様前に宿役人や氏子が列席し、神職が祝詞をあげる程度のものであった。
その後、宝暦10年(1760年)金鑚神社が神輿を新調し、宿内渡御を開始したのにならい、市神様を管理する本町でも明和4年(1767)年に大坂の宮屋九郎兵衛より神輿を購入し、翌5年、氏子域である本町、中町、上町の三町内を神輿渡御している。これが本庄の祇園まつりにおける神輿渡御の始まりである。(p57~p58)」柴崎起三雄氏著『本庄のむかし こぼれ話』より
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『本町天王神輿』は、明治12年(1879年)に修復され、令和5年(2023年)には、文化庁の令和3年度の「地域の伝統行事等のための伝承事業」による補助金と、地元の皆様方のご寄付(1/3は地元負担)により、『本町天王神輿』の修復が完成し、本庄市役所駐車場にて、『本町天王神輿修復完成』記念式典が開催され、式典の後には「御神幸祭」が行われました。
令和5年(2023年)度の本庄祇園まつりでは、7月15日午後4時30分に、城山八坂神社にて「宮出し入魂の儀式」が執り行われた後、御神幸祭の行列が出発。
午後7時30分に、「御旅所(おたびしょ)」に到着し、「本町の宮神輿(天王神輿)」が遷座されました。
本町の神輿(みこし)は、江戸時代中期の明和4年(1767) 大坂の宮屋九郎兵衛によって製作されたものです。
(神輿には、「細工人 大坂北御堂筋宮屋九郎兵衛 明和四丁亥都市十一月」と墨書されています。)
(本庄市指定文化財)
◆令和5年度「本町の天王神輿」の御神幸祭
◆台町の獅子舞(埼玉県指定無形民俗文化財)
上記動画は、2023年7月15日に台町八坂神社(埼玉県本庄市)にて奉納された「台町の獅子舞」の様子です。
「台町の獅子舞」は、埼玉県指定無形民俗文化財になっています。
台町に残る獅子頭(龍頭)のうち、最も古いとされる中獅子の顎下には、「寛文八戌申出来仕」(寛文8年(1668年))と刻まれています。
以前は7月14日・15日と決められていましたが、現在は、7月の本庄祇園祭り(7月海の日直前の土曜・日曜)に合わせて獅子舞は八坂神社に奉納されています。
「祇園まつりでは、台町の有志による獅子舞が行われる。
起源は榛沢村より本庄宿に定期市が移された時に、台町の天王社の氏子達が本町の市神(天王社)に獅子舞を奉納したのが最初とされている。
台町天王社を津島様と呼ぶこともあったが、津島神社も同じ牛頭天王を祭神としていることに由来したもので、『新編武蔵風土記稿』には牛頭天王社の名で記載されている。(p37)」
※柴崎起三雄氏著「ふるさとの歴史・本庄」(『群馬歴史散歩~特集:本庄市(埼玉県)』第191号、2005年)より
「台町の獅子舞」保存會の皆様の伝統文化継承に対する高い意識に基づいた、厳かで、勇壮な、見事な獅子舞でした。
◆本町の大人神輿の「御仮屋(おかりや)」
◆市から始まった「本庄祇園まつり」の由来について
~本庄古美術愛好会主催の「本庄祇園まつり再開記念展示会」(2023年7月8日~9日)にて、パンフレットに掲載されていた解説文(本庄祇園まつりについて)を以下に紹介させていただきます。~
コロナ禍を乗り越え、4年ぶりに「本庄祇園まつり」が開催されたこと、本当にめでたく、ありがたいことでした。
また、今回の祇園まつりでは、1500万円以上のお金をかけて本庄宿の宝である明和4年(1767年)製作の『本町天王神輿(もとまち てんのうみこし)』が修復された形で無事に初お披露目ができたこと、非常に嬉しく感じました。
256年もの歴史を持つ『天王神輿』が青空のもと、創建当時の輝きを取り戻し、お祭りの参加者たちの前に無事にお披露目できたこと、感激いたしました。
思えば、この『天王神輿』がもとになり、本庄宿は中山道最大の宿場町へと発展することができました。
当時、市を開くには、いろいろなしきたりがあり、その一つが『天王神輿』に関係しております。
市の開かれる場所は、「俗なるしがらみとは無縁の、聖なる時間と空間」が必要とされており、浄めの意味を持つ祇園まつりも、現代とは違い、江戸時代の人たちにとっては、生命の根幹にかかわる非常に重要な儀式でした。
来年以降もまた、本庄祇園まつりが無事に開催されること、心から願っております。
このたびは皆様のおかげで、中山道最大の「本庄宿」発展の礎を作った『本庄祇園まつり』が無事盛大に開催されたこと、心より感謝申し上げます。
【参考までに】共同体のはずれ(外部)に市が立てられた
『一遍上人絵伝』にみる備前国(びぜんのくに)福岡荘の定期市。【現在の岡山県瀬戸内市長船〈おさふね〉町福岡】
「吉井川」の河口付近に市が開かれた。市の仮小屋が道を挟んで建てられている。奥側左から、布座、米座、魚鳥座{ぎょちょうざ}が見られます。
上記は、中世における典型的な市の情景を絵にしたものです。
牛頭天王(ごずてんのう)は、日本における神仏習合の神です。インドで釈尊が多くの説法を行った場所と伝える「祇園精舎を守護する神様」といわれます。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、神仏習合の時代では、素戔嗚尊が仏に姿を変えた牛頭天王や、薬師如来であると考えられ、悪疫退治に力を発揮する神であるとされていました。
「京都盆地は洪水により疫病が起きやすく、疫病を鎮めるのに最も効果のあったのが、牛頭天王を祀る八坂祇園社の祭祀『祇園会』であったことから、各地で牛頭天王が祀られるようになった。また、祇園社のある八坂地区は京都の商業地区でもあることから牛頭天王は防疫神、商業神ともされた。」『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P57より
「宗教に寛容な日本人は神徳から牛頭天王(インド)と素盞嗚尊(日本)と薬師如来(中国)は同一神であると考えていた。
文化・文政期に書かれた『新編武蔵風土記稿』には、市内に市神天王社2社(上天王・下天王)、牛頭天王社(大正院持)、牛頭天王(威徳院)、天王社(慈恩寺)の六社が見られ、防疫神である牛頭天王は各町内に祀られていたことがわかる。」前掲書 P59より
「本庄祇園まつり」は、寛文3年(1663年)に榛沢村の市関係者に交渉して、「市」の開催権利と「市神様」を本庄宿が譲り受けたことを起源とされていると伝わります。
「市」と「見世物興行」とは強いつながりが昔からありました。
上記は、江戸時代初期に京の四条河原で行われた「遊女歌舞伎」の賑わいを描く屏風です。
鴨川のほとりに、竹矢来(たけやらい)に囲まれた「歌舞伎小屋」や「市」などが立ち、見物の老若男女や物売りたちがとりまいています。
「市」や「歌舞伎小屋」や「見世物」などは、「俗なるしがらみとは無縁の、聖なる時間と空間」(アジール的世界)において、開かれるものとされています。
本庄市は昔から、「市」や「見世物興行」や「芸能者」と、深いつながりをずっと保ち続けています。
上記は、早稲田大学で映画を教えていた当時、本庄にお住まいになったこともある、篠田正浩さんのご著書『河原者ノススメ』です。
「市」や「芸能者」について、篠田正浩監督は時代を追って深い考察をされています。
(※なお、その右は、篠田正浩さんが監督をされた映画『スパイゾルゲ』のDVDと台本です。台本には篠田正浩監督からサインをいただきました。また、DVDには、現在のはにぽんプラザの場所にて、大きな舞台セットを組んで映画の撮影をしている様子が初回特典映像として含まれています。
※本庄市と芝居小屋や映画については、こちらの記事もご覧ください。)