~コロナ禍を乗り越え、4年ぶりに「本庄祇園まつり」が開催されることを記念して、特別展示会を開催。“疫病・災害退散祈念”としての祇園祭りの起源にかかわる歴史的で貴重な史料の展示が行われました。~
塩原 浩行氏が会長の「本庄古美術愛好会」様は、毎年、秋に古美術展覧会を開催されています。
(会の発足は、昭和49年(1974年)であり、素晴らしいことに、来年で50周年という節目を迎えられるとのことです。)
今年は、4年ぶりに「本庄祇園まつり」が開催される運びとなったことを祈念して、本庄祇園まつり直前である7月8日~9日に、夏の特別展示会『本庄祇園まつり再開記念展示会』が開催されました。
「今回の特別展示では、当会員や旧家が秘蔵する品から、祭礼にふさわしく華やかで見応えのある書画作品を厳選し展示しました。
現在において、祇園祭りをはじめとする「祭り」と称する祭礼は、災い退散を祈念した信仰心ある祭礼が隠れて、ややともすると娯楽や観光に位置づけられた祭礼に変貌している感があります。
そこで当会では、祭り本来の意義を再認識してみようと、災害に関する史料も集めてみました。
祇園祭の起源が疫病や災害の退散、そして商売繁盛を祈念した祭礼であることを感じ取って頂けるように企画してみました。
今回の展示会初日は夜遅くまで開催します。是非とも、時間を変えてゆっくりと鑑賞していただき、展示品から何かしらの思いを感じとって頂ければ幸いと思います。
令和五年七月八日 本庄古美術愛好会 会長 塩原 浩行」(※「本庄祇園まつり再開記念展示会」パンフレットより)
◆「本庄の祇園祭りについて」
~“疫病や災害の退散への祈念”としての祭礼が祇園祭の起源~
◆明治43年埼玉県洪水氾濫記念図
明治43年8月の大洪水は、明治最大の洪水で、埼玉県内では特に北部から東部、南部にわたる低地が浸水し、死者、行方不明者あわせて347人にのぼったとのことです。
本庄市街でも「久城堀(ぐじょうぼり)」の水が溢れ出し、大洪水に見舞われたとのことです。
◆天明3年(1783年)の浅間山噴火に関する史料
~今年、令和5年(2023年)は、浅間山が大噴火してから240年の節目にあたる年です。~
◆浅間山噴火図・後榛沢村役人(江戸)
◆浅間山噴火の記録(江戸天明期)宮戸村・金井 総兵衛氏による手記
「浅間山噴火の記録」(江戸天明期)宮戸村・金井 総兵衛氏による手記
◆円山応挙『七難七福図』から、「天災の巻」と「人災の巻」が展示
※『七難七福図』は、3巻(「天災の巻」「人災の巻」「幸福の巻」)からなる巻物です。
この絵巻物は、滋賀県大津市にある円満院の門主・祐常(ゆうじょう)が構想し、円山応挙に描かせたものとのことです。
「天災の巻」には、地震におののく人々や、洪水や落雷、大蛇に襲われる人々が描かれます。
「人災の巻」には、盗賊、水責め、火責め、磔(はりつけ)、鋸挽きの刑、牛裂きの刑などが描かれています。
思わず目を背けたくなるような場面がリアルに描かれていました。
円山応挙は、経典に説かれる七難と七福をリアルに描くことで、仏神への信仰心と善行を促す目的で描いたとのことです。
◆緑綬褒章者・木村九蔵氏(明治27年1月26日 )
木村九蔵は、弘化2年(1845年)、群馬県藤岡市に生まれました。
養蚕業の改良に努め、明治5年(1872年)に、当時の画期的な飼育法である「一派温暖育」を発表。九蔵の自宅には九蔵の飼育法を学ぼうとする者が増加し、明治10年(1877年)には新宿村(現神川町)に「養蚕改良競進組」を結成し、新飼育法の普及を図りました。
良い繭を得るには蚕種の改良が必要との信念のもとに、明治13年(1880年)には新品種「白玉新撰」を発表しました。
明治17年(1884年)に、組織を拡大して、「競進組」を「競進社」に改め、児玉町(現本庄市)に事務所と「競進社児玉養蚕伝習所」を開設。
明治27年(1894年)、「競進社児玉養蚕伝習所」内に、「競進社模範蚕室」(本庄市)を新築。
明治22年(1889年)、政府よりヨーロッパの蚕業視察を委嘱されて帰国後、九蔵は蚕種の重要性についての認識をより強め、明治24年(1891年)、本庄町(現本庄市)に日本初の「蚕種貯蔵庫」を設立しました。
さらに、これからの養蚕の普及には伝習所での実技伝習だけでなく、学科を加える必要性を痛感し、学校教育を開始するために、明治30年(1897年)、「競進社児玉伝習所」内に、「児玉白楊高等学校」の前身とも言える「競進社蚕業講究所」を開設し、生涯をかけて養蚕業や蚕業教育の発展に尽力しました。
私利を考えず農村振興に大きく貢献したとして、明治27年(1894年)に、「緑綬褒章(りょくじゅほうしょう)」を受けています。
神事「相撲」
◆武蔵野門太(むさしの もんた)1809年~1861年
~幕末に活躍した、神川町出身の郷土力士~
【武蔵野門太(むさしの もんた)】
神川町小浜出身 初土俵は天保4年(1833年)
しこ名は「神田川」、2年後に「武蔵野」に改名し、天保9年(1838年)に姫路藩酒井家のお抱え力士となる。
最高位は東方の前頭4枚目。武蔵野門太は力士としては小柄でしたが、極めて巧妙な技を使う手取り力士であったと伝えられています。
武蔵野門太は、歌川国貞らにより何枚もの浮世絵が描かれていることから、当時の人気力士であったことがうかがわれます。
◆武蔵野英之輔(武蔵野門太の長男)と小武蔵助三郎(武蔵野門太の三男)
◆秀斎「武陽 本庄 雅人之集」(大正・昭和)
本庄宿とゆかりの深い、烏洲(金井 烏洲)や、雲泉(釧 雲泉)、青於(小倉 青於)、双烏(三代目 戸谷半兵衛)、長翆(常世田長翠 ※戸谷半兵衛が、常世田長翠を自邸内に招き「小蓑庵」を開かせた)、一茶(小林一茶)など、多くの文人の方たちが描かれていて興味深かったです。
◆小林一茶「俳句」(江戸)
◆古川弘氏「好好爺(こうこうや)」(昭和)
【古川弘(ふるかわ ひろし)氏】(1907年~1977年)
教員で画家。 児玉郡大沢村(現美里町) 生まれ。埼玉師範学校卒業後、寄居尋常高等小学校を皮切りに教壇に立つ。
大久保喜一に絵の指導を受け、第二三回日本水彩画展に出品。以後同展で連続出品受賞。
昭和四六年に本庄高校を退職。
高松宮に画を献上、赤坂迎賓館から画が買上げられる。
昭和二一年に堀英治、山田鶴佐久等と麓原会を結成。 昭和五九年に六九歳で死去。
(※「本庄祇園まつり再開記念展示会」パンフレットより)
山車(だし)
◆『週刊新潮』の表紙に掲載された「本庄まつりの山車」
(田中正秋氏によるオリジナル版画原本)
◆「山車(だし)」の由来について
~神様が降りてくるときの目印、目標物、依り代(よりしろ)としての「山車」~
●「山車(だし)」は、もともと神様が降りてくるときの目印、目標物、依り代(よりしろ)。
神様が降りてくるためにすえる山型の造形物が、だんだんと「人形」に変わってきた。
●「山車(だし)」は、神様が降りてくる目標物なので屋根がない。
「屋台」は舞台であり、屋根がある。
【祇園祭】
・「鉾(ほこ)」は神様が降りてくる目印、目標物、依り代(よりしろ)。
・鉾頭(ほこがしら)に大長刀(おおなぎなた)を付けているのが、祇園祭の「長刀鉾(なぎなたほこ)」。
・「長刀鉾(なぎなたほこ)」は常に先頭を行く「くじ取らず」の先導役をつとめて、稚児さんを乗せて巡行。
(※かつては祇園祭の鉾(船鉾・大船鉾を除くすべての鉾)には、生身の稚児が乗っていたが、現在は「長刀鉾」を除いた鉾には「稚児人形」が乗せられている。)
・「長刀(なぎなた)」は、“結界を切ってこれから神様の領分に入りますよ”という意味のこと。
・「長刀鉾」での稚児の「注連縄切り」には、神域との結界を開放する役割がある。
「神の使い」としての稚児が、太刀を使って注連縄を切断して結界を開放し、神域への山鉾の進入を神に代わって許可する。
・「前祭(さきまつり)」では、7月17日に山鉾が巡行。「長刀鉾(なぎなたほこ)」を先頭に23基の山鉾が巡行。
・「後祭(あとまつり)」では、7月24日に山鉾が巡行。11基の山鉾が巡行。
・露払いとなる「前祭(さきまつり)」では山鉾の巡行が行われた後、午後6時半ごろ、八坂神社の祭神を遷(うつ)した「中御座(なかござ)・素戔鳴尊」、「東御座(ひがしござ)・櫛稲田姫命」、「西御座(にしござ)・八御子神」の3基の神輿が市中を渡御する。
・・神輿が境内から御旅所へ向かうのが「神幸祭(しんこうさい)」。御旅所から境内へ戻るのが「還幸祭(かんこうさい)」。
・「四条御旅所(しじょうおたびしょ)」は、祇園祭の期間中、八坂神社の祭神の神霊を乗せた3基の神輿が安置される場所。(※住所:京都市下京区四条通寺町東入ル貞安前之町)
・2つの「旧御旅所」。
平安時代から安土桃山時代までは、「大政所御旅所(おおまんどころ おたびしょ)」と、「少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)」の2か所に旧御旅所があった。
※「大政所御旅所」…牛頭天王(ごずてんのう)の神霊を乗せた「中の座」と、子の八王子(はちおうじ)の神霊を乗せた「東の座」が安置。
※「少将井御旅所」…牛頭天王の妻である頗梨采女(はりさいじょ)の神霊を乗せた「西の座」が安置。
・天正19年(1591年)、豊臣秀吉の都市改造により、八坂神社の御旅所は「四条御旅所」に統合。
「大政所御旅所」跡には八坂神社の神霊が分霊されて小祠が建てられた。
・慶応4年(1868年)、神仏分離令により、八坂神社の祭神は素戔鳴尊が「中御座」、櫛稲田姫命が「東御座」、八御子神が「西御座」と改められた。
・「神泉苑(しんせんえん)」…祇園祭発祥の地。(御池通り沿い。当時は天皇の禁苑(庭)だった。)
貞観11年(869年)、全国的に疫病が流行した時、「神泉苑」にて、その退散を祈願して長さ2丈程の矛を、日本66カ国の数にちなみ66本を立て、牛頭天王を祀り、疫病退散の儀式を行ったことが “祇園祭の始まり”と伝わる。
※「還幸祭」では、「中御座」の神輿が神泉苑に立ち寄る。
・「又旅社(またたびしゃ)」(御供社)…八坂神社の御旅所。祇園御霊会が行われた神泉苑の南端に位置する。
3基の神輿を迎えて神饌を御供えすることから「御供社(ごくうしゃ)」とも呼ばれる。
・祇園祭の「還幸祭」では、3基の神輿が「又旅社」と、「大政所御旅所」に立ち寄る。
●「山車」はどんどん大規模化してきた。
(かつては、ねぶた祭りのように大きくて、一回のお祭りで壊していた。)
・神田祭(かんだまつり)は、「神田明神祭」とも呼ばれ、山王祭、(江東区)深川八幡祭と並んで「江戸三大祭」の一つとされている。京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に「日本の三大祭り」の一つにも数えられる。
◆渋沢栄一翁の書
今回の「本庄古美術愛好会様」 の企画も、とても興味深かったです。
実際の古文書をつかって、地元本庄地域の地名なども確認しながら、遠い昔の災害について学ぶことができ、とても充実した時間を過ごせました。
「明治43年埼玉県洪水氾濫記念図」 をみると、 埼玉県地域が、大きな川の氾濫に見舞われると、いかに多くの場所が、 水の被害にあうかが、視覚的にはっきりわかり、 とてもためになりました。
また、西暦1600年前後に開通した中山道が、水害が及びづらいルートを入念に計算して作られたことも、この図からよくわかりました。(中山道のルートは、下記の地図上の高崎線のルート(赤線)と、 だいたい同じような場所にあり、この場所は、比較的水害にあわないことがわかります。)
天明3年(1783年) の浅間噴火に関する史料である「宮戸村 金井総兵衛」 さんの記録も、 非常に興味深かったです。
浅間山がまさに噴火しづけている当時の、 宮戸村付近の状況がわかる貴重な史料で、 噴火によって、多くの場所が耕作不能になってしまったなかで、噴石によって川が床高になり、今まで、水を供給できなかった場所に2,3年だけだが、 水を供給できることで、稲作が可能になった場所もあった、という記録などもあり、 興味深かったです。
※第50回の「本庄古美術展示会」(本庄古美術愛好会様主催)は、令和5年11月23日~26日とのことです。
柴崎先生、塩原さん、今回も非常に勉強になりました。
ありがとうございました。