~全国に広がった養蚕農家建築の原型・「清涼育」・日本初の農業関連の会社(島村勧業会社)・イタリアへの商品の直輸出・キリスト教の群馬的受容など、この地から様々な潮流が生まれた~
※上毛新聞の上記記事について、島村蚕のふるさと会 丸橋 利光さんから教えていただきました。ありがとうございます。
◆世界遺産登録9周年記念フェスタ写真展【目で見る島村の歩み】
島村に残されている貴重なお写真について、ぐんま島村蚕種の会 栗原 知彦会長が、とても丁寧にご説明くださいました。ありがとうございます。
※『目で見る島村の歩み』より
(左から)明治時代の前島の風景、帆かけ舟、渡し船(夕暮れの乗船風景)、利根川の乳牛と子供(昭和34年)
(旧境島小学校体育館にて芸能発表)
(キッチンカーや物販、ハンドメイドワークショップなど)
◆『田島弥平顕彰碑』明治27年(1894年)建立
建立:田島たみ(田島弥平の娘)
題額:小松宮彰仁親王
撰文:川田 剛
書:金井 之恭
田島弥平の蚕種製造票に関する業績を後世に残したいという、弥平の娘「田島たみ」の熱意によって建立されました。
◆田辺弥平旧宅「上段の間」特別公開
「上段の間」は、高貴な人を迎えるための座敷です。
田島弥平旧宅の「上段の間」は、毎月第3日曜日に特別公開(午前9時~午後4時まで)されています。
今回、9周年フェスタを記念して、特別公開されました。
田島弥平旧宅の主屋は文久3年(1863年)に建てられました。「上段の間」の間取りは10畳で、主屋1階の西側に位置しています。2014年の建物調査の時に、畳をあげて床板にしたところ、部屋の中央部分に爐蓋(ろぶた)が見つかったとのことです。
蓋板には墨書で、年号、大工名、補助員名、蓋の位置が書かれていました。
西壁面は、襖仕立てになっており、洪水対策として着脱可能とのことです。
金井烏洲(1796年~1857年)は、江戸後期の南画家で、書や詩文にも長じました。谷文晁に師事。
金井之恭(かない しきょう)の父です。(※金井之恭の曾孫は第78代内閣総理大臣 宮澤喜一氏です。宮澤エマさんは、之恭の来孫にあたるそうです。)
「烏洲(うじゅう)」の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川(からすがわ)の中洲にあったことにちなむとのことです。
◆「對青蘆(たいせいろ)」(田島達行家住宅主屋)
~【蚕種製造民家】国登録有形文化財(令和3年2月26日)~
◆『進成館(しんせいかん)』(田島善一家住宅主屋)
~【蚕種製造民家】国登録有形文化財(令和3年2月26日)~
島村蚕のふるさと会の会長である田島 一栄さんは、毎月(第3日曜日)の「進成館」の公開にご尽力されています。
丸橋 利光さんには、いつも中瀬の大斉藤家や、大阪の炭屋、本庄宿の戸谷半兵衛についての資料を送っていただいていて大変勉強させていただいております。
丸橋さんは、度々、上毛新聞にて島村の活性化についてご提言されています。
進藤進さんのコレクションのお話を聞かせていただきました。
進藤さんは新田猫絵のほか、大量の時代物の刀や、明治時代のあらゆる階級に及ぶ官吏の制服、日本列島全体に及ぶ大量の銀行の通帳、蚕糸の商標(レッテル)、メンコ、ベーコマなど、ご自身が所蔵されているコレクションについてお話を聞かせていただきました。
進藤さんのお知り合いの方によると、「農業関係のコレクションは博物館以上で、農器具等大型のものから、明治時代からの種苗会社が配布したカタログまで、同社倉庫に詰まっている」そうです。
渋沢栄一翁のお孫さんにあたる渋沢敬三さんは、大蔵大臣や日銀総裁など要職を務めるかたわら、中世から伝わる日本中の漁業の道具を大量に蒐集しておられました。
進藤進さんのお話を聞くと、渋沢敬三さんと同じように、中世から続く日本の様々な庶民の生活に対する深い愛情を感じ、とても感動しました。
◆蚕糸の商標(レッテル)の展示
このたび、進藤さんの膨大なコレクションの中から、『蚕糸票 レッテル 商標』の展示が、「田島弥平旧宅案内所(旧境島小学校)」の東にある「境島村おもてなし広場」にて行われているとのことでしたので、見させていただきました。
島村ブランドは優良蚕種として世界的に評価されました。
(境島村おもてなし広場)
~「田島弥平旧宅案内所(旧 境島小学校)」の東側~
「境島村おもてなし広場」の前には、明治32年(1899年)に建碑された『島村沿革碑』(題字:山県有朋、書:金井之恭)があります。島村の起源や、利根川とのかかわり、洪水と闘ってきた島村の人々が蚕種業を発展させた歴史等が記されています。
◆中世の『際(きわ)』の文化、利根川の文化から 「世界遺産」と 「渋沢栄一翁の新一万円札」が誕生した
「何事も際(きわ)が面白い」。 NHKの人気番組『ブラタモリ』でタモリさんがよく使う言葉です。
大まかな意味は、ある地形の中心部分は変化がなくて面白味がないが、地形の際 (端っこ)は、他の地形と入り混じるために俄然面白くなる、といった見方です。
タモリさんは主に地質学に関連したことについて、 際(きわ)が面白いとおっしゃっていると思いますが、文化に関わることについても、同様に際(きわ) が面白いことは間違いないことだと考えます。
先月の上毛新聞朝刊の第1面トップ記事で以下のタイトルを見た時、とても嬉しい気持ちになりました。
『世界遺産 × 渋沢栄一新札 伊勢崎ー本庄ー深谷 地域振興へ 3市が連携』
2019年から 「本庄まちゼミ」 という場で、 本庄宿の歴史について少人数のゼミを開催しているのですが、その本庄宿の歴史の説明の初めに必ず、 本庄地域は 『際(きわ)』 の場所であったと伝えることにしています。
具体的には 「本庄地域は、大大名である上杉氏の支配圏の端(はじ)であり際(きわ) であり、また同時に本庄地域は、大大名である北条氏の支配圏の端であり、 際であり、さらに本庄地域は、大大名である武田氏の支配圏の端であり、 際であった」と、パネルを使って伝えることにしています。
本庄地域だけではなく、 伊勢崎や深谷の一部についても、同様に、 「際(きわ)」 の地域であったといえると思います。 とりわけ、 伊勢崎市、本庄市、深谷市は共に、 当時の物流の要である利根川にそれぞれが大きな川港を持っていて、 タモリさん流に言えば、遠い地域との入り交じりの具合も増えて、波乱万丈なことが自然発生する魅力的な場所でした。
歴史学者の磯田道史氏は『NHK大河ドラマ 歴史ハンドパック 青天を衝け〈渋沢栄一〉とその時代』
の対談の中で、 渋沢栄一翁のことを 「渋沢栄一のなかには、 『資本制における近代』と『主従性における中世』 が同居していた」と、すばらしい表現で評価してくださっています。
利根川沿いのこの地方(伊勢崎市 本庄市・深谷市) に代々土着して育ってきた人々には、中世の三つ巴(上杉・北条・武田)の際(きわ) や間(はざま)で鍛えられた、独特の逞しさがあると思います。
渋沢栄一翁が生まれた場所は、中心ではなく、 際(きわ)であり、渋沢栄一翁が生まれた時代は、政治的に安定した時代ではなく、波乱万丈な幕末でした。
「大河ドラマ」に取り上げられたり新一万円札の顔になることで、 深谷市についてや渋沢栄一翁の生涯や偉業ついては多くの方が興味をもち、最近では広く知られるようになりました。
この良い流れを引き継いで、渋沢栄一翁とも縁の深い世界遺産のある島村についてや、田島弥平の生涯や業績について、 また、 同じく渋沢栄一翁とも縁の深い本庄市や、 本庄宿の旧家「諸井家」 の業績について、あるいは世界遺産の「高山社」を作った高山彦九郎の弟である木村九蔵が設立に関わった本庄市児玉にある「競進社(きょうしんしゃ)」など、 多くの方に知ってほしいと願っています。
関東平野はどこまでも平地が続くから、 どこの場所も同じような土地の記憶もつ場所であり、同じ平地だから際(きわ) の場所ではなくツマラナイ。 あるいは、東京には「江戸城」、神奈川には「小田原城」が、新潟には 「上杉謙信」 が、 山梨には 「武田信玄」 が大きなシンボルとして、存在している一方で、 埼玉県・群馬県には、大きな天守閣を持つお城がないし、大大名もいなかったという見方もあるかもしれません。
しかし、 「ブラタモリ』でタモリさんが言うように、 「何事も際(きわ)が面白い」。
新一万円札の顔になる 「渋沢栄一翁」の偉業とは、 新しい金融システム、 新しい物流システム、 新しい生産システムを日本に根づかせ、日本の「民間力」を劇的に引き上げたことにあるといわれています。
渋沢栄一翁は、 渋沢財閥を作らずに、多くの人に愛されました。
それは渋沢栄一翁が、 際(きわ) の地である場所で育ったことが大きく関係していると思います。
もし、渋沢翁が際(きわ)の地である血洗島で育たず、北条氏の本拠地である小田原や、上杉氏の本拠地である越後国や、武田氏の本拠地である甲斐国で育ったならば、日本の歴史は今とは全く違うものになったのではないでしょうか。
渋沢栄一翁が「民間力」を引き上げることに生涯をかけて取り組んだのは、際(きわ)の地であるこの地方で、官や軍に苦しめられた長い歴史の経験があったからだと私は考えます。
際(きわ)の場所であることが、地形的に最もわかりやすいのは、なんといっても、 世界遺産「田島弥平旧宅」のある、 島村であります。
島村の場所は、上杉氏、北条氏、武田氏の支配領域に接するだけはなく、物流の要でもあった利根川の中洲および、周辺に位置しております。この地域は言わば、「中間領域」であり、あっちにも属するしこっちにも属するといったような「宙ぶらりん」な感じを常に抱き続ける場所であります。
そして、この際(きわ)の 地である島村(しまむら) からは、 様々な新文化が生まれています。
全国に広がった養蚕農家建築の原型や、「清涼育」、 日本における農業関連の最初の会社創立(島村勧業会社)、日本初の蚕種のイタリアへの直輸出、キリスト教の群馬的受容などなど。
このように、島村、本庄、深谷地域は『際(きわ)』とともに物理的にも、歴史的にも育ってきた『際(きわ)』の文化の先進地であります。
渋沢栄一翁も、「諸井家」の人々たちも、新しいものを次々に生み出してきた達人であります。
来年の世界遺産 10周年、新一万円札の発行を盛り上げるイベントを通して、 新聞記事の通り、 伊勢崎ー本庄ー深谷がますます連携し、この際(きわ) の地域の魅力が、より多くの人に伝わればと強く願っています。
(余談ながら)
戸谷八の『離れ』には、本庄市にかかわる書だけではなく、深谷市、島村出身の方の書があります。
戸谷八の『離れ』(本庄市)にある、書画など。
※左から、江森天壽(えもり てんじゅ【深谷市】)の日本画・渋沢栄一翁(深谷市出身)の書・金井之恭(かない しきょう【島村出身】)の書・日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)の書。
※深谷市指定文化財の鹿島神社にある『藍香尾高翁頌徳碑』は、篆額:徳川慶喜、撰文:三島中洲、書:日下部鳴鶴によるものです。
※金井之恭と日下部鳴鶴は、明治の三筆と言われました。
※また、明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、金井之恭と日下部鳴鶴がともに席書(集会などの席で、即興的に書画をかくこと)を行いました。
※ちなみに、本庄東中学校の一世代前の校名の石板プレートは、日下部鳴鶴の孫弟子によるものです。以前、鳴鶴の孫弟子にあたる方が、本庄まちゼミで戸谷八に来てくださった時にご自身が書かれたと教えてくださいました。