※「進成館」では毎月1回・第3日曜日に企画展と櫓(やぐら)の公開が行われています
(10:00~16:00まで)
2023年3月16日(日)、伊勢崎市の境島村の「進成館(しんせいかん)」におうかがいしました。
「進成館(田島善一家住宅主屋)」は、世界遺産「田島弥平旧宅」の西側にある、国登録有形文化財の大規模な蚕種製造民家です。
毎月第3日曜日(午前10時~午後4時)に、「櫓(やぐら)」の公開や、企画展を行っておられます。
今回の企画展は、『フランスのファッション産業を救った島村蚕種紙』というテーマでした。
19世紀後半、フランスやイタリア、ヨーロッパ諸国で蔓延していたという蚕の微粒子病がいかにヨーロッパ諸国の産業に深刻なダメージを与えていたかということや、島村で生産された蚕種が、フランス、イタリア、ヨーロッパ諸国のファッション業界を救うほどの品質の良いものだったということ勉強させていただきました。
当時の島村の人たちの、よい蚕種を自分たちで工夫して作ろうという気概や、島村のまちの自由で活気にあふれた様子を感じとることができました。
度重なり起こった利根川の洪水という被害にあいながらも、その状況を逆手にとって日本をリードするような多くの指導者を輩出した島村地域。利根川とともに生きる島村の人たちの逞しさに感動しました。
丸橋 利光(まるはし としみつ)さんは、「島村蚕のふるさと会」に所属されており、毎月第3日曜日に開催される「進成館(しんせいかん)」での企画展等、島村地区の絹文化遺産を普及・継承するための活動をなさっています。
昨年、戸谷八商店で開催した「すまいる日和2022」にご参加いただいたり、歴史的史料を通して多くのことを教えてくださり、とてもお世話になっています。
※丸橋 利光さんの記事については以下の記事(2022年4月の記事/2022年12月の記事)をご覧ください。
上記資料は「フランスのファッション産業を救った『島村蚕卵紙』」(※丸橋 利光さん作成)
(上毛新聞に掲載された丸橋利光さんの記事)
◆「進成館(しんせいかん)」
「進成館(田島善一住宅主屋)」は、島村の大規模な蚕種製造民家の中でも、一番古い建物(慶応年間1865~1868年)と言われています。
主屋の屋根には櫓(やぐら)があります。櫓(やぐら)は「蚕室」内を換気するもので、この換気の仕組みを考えたのが田島弥平です。
◆進成館の「櫓(やぐら)」から見た島村の景色
「進成館(しんせいかん)」では、毎月第3日曜日に、櫓(やぐら)の公開が行われています。
やぐらからはとてもいい風が入ってきていました。
(4階屋根にあるやぐら内部)
(3階蚕室上部から見上げたやぐら)
田島弥平が考案したという、明治時代から養蚕農家のモデルとなった「清涼育」のための「櫓(やぐら)」を通した換気の仕組みを、全身で体感できてうれしかったです。
◆進成館2階「蚕室」で開催されている「企画展」
(養蚕関係の道具)
2023年6月は、『富岡製糸場と絹産業遺産群』の世界遺産登録9周年を記念して、イベントが行われるそうです。
コロナ禍で多くのイベントが中止になってきただけに、6月に開催される9周年記念イベントがとても楽しみです。
◆「猫」の絵の入った蚕織錦絵や、「蚕神」お札の展示
生糸は、開国から昭和初期にいたるまで、日本の最大の輸出商品で、養蚕は重要な産業でした。
養蚕は天候や病気の害の影響を受けやすく、まさに神頼みであり、日本では養蚕の守護神は「蚕神(かいこがみ)」と呼ばれて信仰されていました。
進成館の企画展では全国の様々な蚕室や神棚に貼られた、数多くの「蚕神」のお札が展示されていてとても興味深かったです。とりわけ、蚕を食べてしまう鼠を退治してもらうために神として崇められた「猫」の絵の入ったお札や、猫の描かれた蚕織錦絵が見応えたっぷりでした。
左は、曹洞宗の「迦葉山 龍華院 弥勒寺(かしょうざん りゅうげいん みろくじ)」(沼田市)のお札『養蚕繁昌如意吉祥』です。
迦葉山弥勒寺は、天狗の寺としても知られ、東京の高尾山薬王院、京都の鞍馬寺と共に「日本三大天狗」と称される名刹です。(※本庄市の安養院は、沼田の「迦葉山龍華院弥勒寺」の玉岑慶珠(ぎょくしん けいじゅ)を招いて開山したと伝わっています。)
群馬県の養蚕習俗と関わりが深く、養蚕、豊作、商売繁盛を願って迦葉山へお参りする講組織の参詣者が多いとのことです。
迦葉山には天狗の面を用いた「倍返し」という祈願があります。
養蚕農家の人は、豊作を祈願して、拝殿内にある「お借り面」から面を持ち帰り、「蚕室」に祀り、翌年に、新しい面を購入し、「お返し面」の方に昨年借りた面と一緒に倍にして供えるというものです。
◆新田岩松氏の歴代当主が4代にわたって描いた『猫絵』
~猫絵の殿様「温純」・「徳純」・「道純」・「俊純」 ~
新田岩松氏は、足利氏と新田氏両系統の地を引く家柄です。
江戸幕府、参勤交代を行うことができる大名に準じた格式であったものの、石高は120石と貧しく、「猫絵」を描いて家系を助けました。
温純(あつずみ)、徳純(よしずみ)、道純(みちずみ)、俊純(としずみ)の4代は「猫絵の殿様」として知られています。
当時、「猫絵」は、養蚕農家にとって大敵である鼠除けに絶大な効果があり、養蚕の神様として信仰されました。
「新田の殿様」として知られた、新田岩松氏の4代の当主が描いた「猫絵」は、県内に限らず関東一円でも残されています。
◆利根川の変遷と島村
~島村の人々は利根川の洪水という悪条件を逆手にとりながら、日本を代表する「蚕種産地」を作り上げた~
島村は、江戸時代を通して利根川の偏流蛇行が激しく、流路は何度も変わり、そのたびに島村の人々を悩ませ、人々の生活に大きな影響を与えてきました。
「島村は元中2年(1385年)に開かれたとされています。
江戸時代になると、寛文8年(1668年)の寛文郷帳に島村と前河原村の記載が見られます。
島村や前河原村は、大正3年(1914年)に行われた利根川の河川改修で川筋が整えられるまで、年に数回発生する洪水に悩まされていました。洪水により土地が削られる川欠けも発生し、農業による収入は不安定でした。そこで天保期(1830~44年)頃に舟運業に従事する人が急増しました。舟運業は江戸と上州各地を結ぶ貨物の輸送を主に行い、鉄道の高崎線が開通する明治17年(1884年)頃まで行われました。
一方、蚕種製造業は寛政12~13年(1800~1801年)に奥州の技術を導入して開始され、幕末には優良な蚕種生産地として全国に知られるようになりました。洪水は蚕の病気の原因となるキョウソバエのサナギを流すため、病気のない桑が育ち、それを食べて育った蚕も病気のない卵を産みました。また桑の栽培には風通しのよい川岸と、洪水がもたらした肥沃な砂礫土が適していました。このことに気付いたのは、嘉永6年(1853年)に田島弥平が田島太平・関口嘉兵とともに、最上川上流部の羽州長井村(現:山形県長井市付近)を訪れた際、島村と地勢が似ていたことからでした。
このように島村の人々は、利根川の洪水という悪条件を逆手にとりながら、舟運業や土地の性質を利用した蚕種製造業で地域を発展させていったのです。」(※田島弥平案内所パネルより)
【明治18年(1885年)の島村地域】
島村には、現在の利根川河川敷の中洲に、「前島(本野)」と呼ばれる古くからの集落がありました。ここは島村の中心地で、神社やお寺、小学校があり、多くの家がありました。度重なる利根川の大洪水によって前島に住む人々は移転を強いられ、寛文期(1661年~1673年)頃から、
南方(右岸)に…「新地(しんち)」・「新野」・「新田(しんでん)」・「立作(りゅうさく)」、
北方(左岸)に…「北向」・「西島(にしじま)」
などの集落が形成されていきました。これらの集落名は、以前の居住地であった「前島(本野)」に対応してつけられたものと考えられています。
「前島(本野)」は、大正4年(1915年)の河川改修工事のため、利根川の川底となりました。
※「前島(本野)」にあった諏訪神社は「北向」へ、小学校は「新地」へ移転されています。
■嘉永5年(1852年)2月『島村絵図』
(領地の洪水被害範囲を領主の酒井氏に報告するために描かれた絵図)
『島村絵図』には「田島弥平旧宅」の敷地も描かれています。
◆田島氏
『田島氏移居之碑』は、明治4年(1871年)に、田島家大本家13代信秀によって田島氏の歴史を子孫に伝えるために建てられたとのことです。今は元田島医院の邸内に建っています。
(碑面の題額は、田島氏に縁をもつ「男爵新田俊純」、文は幕末の福井藩主「松平慶永」、書は島村出身で明治三筆の一人といわれた「金井之恭」によるものです。)
この石碑によれば、田島氏一族は、 新田氏の後裔を称し、 元中年間(14世紀後半)に島村に帰農したといいます。
田島氏は、文政5年(1822年)に、利根川の中州に位置していた「前島」から現在の「新地」に移動し、 利根川の舟運や養蚕に従事し、 江戸時代末期になると田島氏一族は養蚕農家となっていったとのことです。
◆田島弥平
~明治前半の養蚕業の発展に大きな功績を残し、日本に近代化をもたらした人物の一人~
【略年表】
・文政5年(1822年)田島弥平(2代目)、上州島村(現在の伊勢崎市境島村)に生まれる。
・文久3年(1863年)田島弥平が『清涼育(せいりょういく)』を確立し、蚕室を建築、近代養蚕農家の原型となる。
・明治4年(1871年)渋沢栄一翁は、「宮中御養蚕(きゅうちゅうごようさん)」の世話役に田島武平を推薦。(第二回~第四回の世話役は田島弥平が務めた。)
・明治5年(1872年)「富岡製糸場」が開業。渋沢栄一翁が設立に大きく関わる。初代場長は尾高惇忠。
・明治5年(1872年)栄一翁の勧めで、田島武平・田島弥平らが蚕種販売を目的とする会社として「島村勧業会社」を設立。(田島武平が社長、弥平が副社長の一人に就任。)
・明治5年(1872年)『養蚕新論』を刊行。
・明治12年(1879年)『続養蚕新論』を刊行。
・明治12年(1879年)田島弥平は島村勧業会社社員2名とともに「イタリアへ蚕種の直輸出」を行なう。※明治15年まで4回行う。
・明治31年(1898年)田島弥平亡くなる。76歳。
・昭和23年(1948年)貞明皇后(大正天皇妃)が蚕糸・絹業関係の視察で田島弥平宅を行啓。
◆田島弥平家・系図
◆世界遺産「田島弥平旧宅」
田島弥平旧宅は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の一つとして、平成26年(2014年)に世界文化遺産に登録された国指定史跡です。
田島弥平(2代目)は、安政3年(1856年)から自宅の養蚕建物を改良して養蚕の実験を行い、文政3年(1863年)に住宅兼蚕室の主屋を建築しました。櫓(やぐら)付き、総二階建ての「近代養蚕農家建築の原点」となった建物です。
弥平は、最適な養蚕法を求めて自宅を改良し、様々な養蚕法を試行錯誤しながら実験を重ね、蚕の飼育には「換気」が重要であることを発見し、屋根の上に換気設備「櫓(やぐら)」をつくる独特の育成法「清涼育」を確立しました。
主屋のほか、桑場(くわば)、別荘、井戸、種蔵(たねぐら)、文庫蔵などが残っています。
田島弥平が考案した、空気の循環を重視する「2階建て、瓦葺き、櫓(やぐら)付き」建物は、その後の養蚕建物の規範となりました。
『養蚕新論』(1872年)・『続養蚕新論』(1879年)
田島弥平は、『養蚕新論』(1872年)と『続養蚕新論』(1879年)を著して、養蚕建物では空気の循環が重要であることを理論的に体系づけ、「清涼育」の普及に努めました。
『養蚕新論』は、父初代弥兵衛の教えによるところが大きく、父との共著ともいえる蚕書とのことです。
数十年にわたる弥平自らの養蚕の経験(最初は東北地方の蚕の飼育法「温暖育」が失敗して、独自の飼育法を考え出した経験)や、上垣守国(うえがきもりくに)の『養蚕秘録』や、奥州伊達地方の佐藤友信の『養蚕茶話』等、先学の蚕書の学習を通して著述したものです。
「清涼育」は全国に普及し大きな影響を与えました。田島弥平旧宅には全国から多くの養蚕伝習生が訪れ研修を受けました。
『養蚕新論』の挿絵(画:金井研香)
左は、利根川で島々の人たちが作業している絵です。赤城山が背景に見えます。
養蚕を始める前には養蚕で使う籠を洗ったり、筵(むしろ)を洗ったりして養蚕の道具をきれいにしています。
右は、繭から出てくる蚕の蛾の絵です。
◆田島武平(本家)と渋沢栄一翁との縁戚関係
島村は、渋沢栄一翁の生家がある血洗島(深谷市)とは直線2キロの距離に位置しています。
田島弥平旧宅の本家・「田島武平(六代)」の妻しげは、栄一の従妹にあたります。
また、しげの妹よしは、栄一翁の従弟の渋沢喜作の妻です。(田島武平と喜作は義兄弟。)
《栄一翁と田島武平との親交》
●安政~慶応年間(1854~1867年)、田島武平宅の私塾「有為塾」に、渋沢栄一翁と父親が一緒に学びに来たと伝えられています。
●初めて明治4年(1871年)に、約1500年ぶりに「宮中御養蚕」が行われることとなった際に、栄一翁の推薦で、田島武平が世話役を務めました。
●明治4年(1871年)、蚕種の横浜での販売価格が大暴落すると、明治5年(1872年)、田島武平は渋沢栄一翁の指導を受けて、「島村勧業会社」を設立し、その社長となりました。島村勧業会社は日本の農業関連の初めての会社でした。
●島村勧業会社の「蚕種イタリア直輸出」は、渋沢栄一翁の指導と支援のもとで、三井物産の協力を得て実現しました。
●田島武平(1833~1910年)の業績を記した渋沢栄一翁の撰文・揮毫による『田島武平君墓表』(大正元年11月建立)が田島信孝家墓地内にあります。(大正元年11月・田島家墓地内)
◆「宮中御養蚕」
~明治4年(1871年)から昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が1500年ぶりに宮中御養蚕をはじめる。世話人に渋沢栄一翁が田島武平を推薦~
明治4年(1871年)、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が1500年ぶりに宮中御養蚕を始めるにあたり、当時、明治政府の担当責任者であった栄一翁は、養蚕に精通していて親戚でもある島村の田島武平(六代)を世話役に指名しました。
【宮中御養蚕の世話役】
第1回(明治4年):田島武平
第2回(明治5年):田島弥平
第3回(明治6年):田島弥平
第4回(明治12年):田島弥平
◆横浜での蚕種販売価格の変遷
(明治元年~3年→蚕種輸入価格の高騰/明治4年・明治7~8年・明治10~12年→大暴落)
《蚕種輸出価格・高騰期》
●1840年頃からフランスで蚕の「微粒子病」が発生。1850年代~1860年代にかけてヨーロッパ諸国において大流行する。1860年代のフランスの蚕糸業・絹織物業の窮地。
→日本の蚕種の需要が欧州で急激に高まり、大量にヨーロッパに向けて輸出されるようになる。
→日本の蚕種が飛ぶように売れ、輸出価格が高騰。
《蚕種輸出価格・暴落期》
●明治3年(1870年)、「パスツール」が微粒子病の病原体を発見。顕微鏡による検査法を確立し、微粒子病を克服。
→ヨーロッパの蚕種業が復活。日本からヨーロッパへの蚕種輸出は不況期に入る。
→日本の輸出は蚕種からアメリカ向けの生糸にシフトすることになった。
●明治4年(1871年)、蚕種輸出価格の大暴落(生産過剰と粗悪品の横行のため)
→田島武平、渋沢栄一翁の指導を受けて「島村勧業会社」設立。
●明治7年(1874年)、蚕種輸出価格の大暴落(政府による「蚕卵紙輸出規制の解禁」がきっかけとなり、全国から150万枚の蚕卵紙が横浜に集まり、蚕卵紙が生産過剰。横浜の外国商館は値崩れさせようと、蚕卵紙の買い控えを行い、上等品の蚕卵紙まで1枚5銭で買い叩かれるようになった。)
→「島村勧業会社」、明治12年からイタリアへの蚕種の直輸出を開始。(渋沢栄一翁の指導と支援のもとで、三井物産の協力を得てイタリアでの直輸出)
→政府の依頼で、渋沢栄一翁が解決にあたる。
蚕卵紙を1枚17銭~21銭で買い上げ、買い上げられた蚕卵紙は、横浜上等品を除いて約45万枚が焼却。(蚕卵紙の買い上げと焼却結果、5銭まで買い叩かれていた上等品の値が60銭まで値上がりし、下等品でも30銭まで戻った。その年の蚕卵紙の輸出も131万枚と増加した。)
◆「島村勧業会社」設立
安政6年(1859年)に横浜が開港。元治元年(1864年)に「蚕種禁止令」が解禁されると、横浜での蚕種の輸出価格が高騰し、島村全村ほとんどが蚕種業に従事し、島村蚕種業の黄金時代を迎えました。
しかし、明治2年(1869年)に1枚5円を超えていた蚕種の横浜での販売価格が、明治4年(1871年)には2円台にまで暴落。この暴落の原因は、生産過剰と粗悪品やまがいものの製造販売でした。
島村の人たちは、近代的な会社組織が必要と考えて、この時に大蔵省の高官であった渋沢栄一翁の指導を受けて、明治5年(1872年)、蚕種輸出に特化した「島村勧業会社」を設立しました。(社長は田島武平・副社長は田島弥平)
この会社は日本における農業関連の初めての会社でした。
◆明治12年~15年まで4回にわたる「蚕種のイタリアへの直輸出」
「島村勧業会社」の蚕種イタリア直輸出は、渋沢栄一翁の指導と支援のもとで、三井物産の協力を得て実現しました。
明治12年から明治15年までの4年間、4回にわたり、田島一族の人たちがミラノに滞在して直接イタリア人に蚕種を販売しました。
【イタリア直輸出メンバー】
▼第1回(明治12年・1879年):田島善平・田島弥三郎・田島弥平
▼第2回(明治13年・1880年):田島弥三郎・田島武平
▼第3回(明治14年・1881年):田島啓太郎(弥三郎の長男)
→啓太郎は3年間滞在し、市場を開拓する契約で渡欧。
▼第4回(明治15年・1882年):イタリアに滞在していた田島啓太郎。
→第4回の直輸出において損失を出してしまい、3年滞在という契約を1年早く切り上げ撤退。
(ヨーロッパでは顕微鏡を使って微粒子病のない蚕種が買われていることや、島村の蚕種に微粒子病が見つかったこと等から)
※ミラノから帰国する際、田島啓太郎は微粒子病の検査のために「顕微鏡7台」を購入し、海外の技術を島村に持ち帰る。
→田島弥平は顕微鏡を活用しての蚕病予防・研究を行うようになりました。
【※1回目蚕種イタリア直輸出においての、渋沢栄一翁を通じた島村周辺の地域的人脈の関わり】
(1回目の経路)
横浜を出港して20日間かけて太平洋を横断。→サンフランシスコから大陸横断鉄道でニューヨークへ。→途中ナイアガラの滝を観光。→ロンドン、パリを経由。→2ヶ月かけてミラノへ到着。
ニューヨークでは、弥平らは、同郷の上州出身の星野長太郎の弟である新井領一郎と面会しました。
(※深町浩祥氏著「明治初期における蚕種輸出記録(2)」PDF:867KBより)
星野長太郎は、明治7年(1874年)、群馬県最初の民間洋式器械製糸場である「水沼製糸所」を設立。
弟の新井領一郎をアメリカ・ニューヨークに送り、明治9年(1876年)、「日本初の生糸直輸出」を実現しました。
※ロンドンでは、三井物産会社手代一等ロンドン支店の預り支配人であり、渋沢栄一翁の甥である笹瀬元明(ささせ もとあき)に迎えられています。
※帰りは、スエズ運河、インド洋を通り明治13年(1880年)7月半ば、7か月ぶりに横浜に到着。
田島弥平たち一行は、群馬県人で世界一周をした最初の人たちとなりました。
◆金井家
(金井家は、新田家一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男・金井長義を祖とします。)
「琴子(小川平吉の二女)は宮沢裕との間に、喜一・弘・泰をもうけた。喜一は第78代内閣総理大臣で、金井之恭の曾孫にあたる。岩見隆夫「再見戦後政治」によれば、岸信介・福田赳夫・宮沢喜一は戦後政治の三秀才で、頭脳明晰さは世界的な水準であるという。岸は福田を後継者とした。福田も宮沢が政敵の池田勇人―大平正芳系の人物であったにも関わらず、福田内閣の経済企画庁長官に抜擢し、OBサミット(インターアクション カウンシル)の後継者とした。これは戦後政治を彩る秀才の系譜であるが、福田が宮沢に目をかけたのは、上州人の血が流れていたことも、その理由であったと思われる。新聞記者などが、保守陣営のリベラリストの代表格である宮沢が熱烈な天皇主義者であることに驚きの反応を示したが、宮沢の皇室主義は、新田源氏の末裔である勤王金井家の血筋から来る筋金入りの正統なものであった。」(※手島仁著『中島知久平と国政研究会』(みやま文庫)P135より)
「呑山楼(どんざんろう)」は、文政5年(1822年)金井烏洲の父・金井萬戸(ばんこ)が長兄・莎邨(しゃそん)のために「前島」に建築した書斎です。
文政7年(1824年)、莎邨の逝去後、「呑山楼」は金井烏洲がアトリエとして使用。
明治43年(1910年)8月、利根川の氾濫で「前島」は廃村。金井家は「呑山楼」も含め南岸の現在地へ移築しました。
◆渋沢栄一翁が撰文した石碑
■『田島武平君墓表』(大正元年11月・田島家墓地内)
■『烏洲金井先生碑』(昭和4年11月・伊勢崎市華蔵寺公園内)
「金井烏洲先生の碑」の碑文は、渋沢栄一翁が90歳の時に自ら文を作り、自筆で書かれたものとのことです。
■「金井烏洲の副碑」(昭和4年11月・金井烏洲と一族の墓内)
◆島村とキリスト教
●島村にキリスト教が伝わったのは、明治10年(1877年)頃、蚕種販売のため、横浜に出張員として滞在した栗原茂平、田島儀七、金井保の3人が、横浜でアメリカ人宣教師の話に感激し、島村の人たちのためにキリスト教を伝道したのが始まり。
●明治19年(1886年)、一回目のイタリア直輸出に弥平とともに行った田島善平は、自宅に宣教師を招き、200人もの聴衆の前でキリスト教演説会を開く。
●明治20年(1887年)、田島善平の自宅(新地地区)の敷地内の小屋を改装し、プロテスタントの流れをくむ「島村教会」の前身となる講義所を建てる。
●明治30年(1897年)、信徒数の増加で手狭となり、現在の場所(新野地区)に「日本基督教団 島村教会」(国の登録有形文化財)を創設。
明治30年(1897年)創建の「日本基督教団島村教会(国の登録有形文化財)」の前身は、田島弥平とともに第1回目の蚕種イタリア直輸出に派遣された田島善平が、明治20年(1887年)に自宅のこの場所にに開いた「美以教会島村講義所」(島村教会発祥の地)とのことです。
◆養蚕関連・技術革新の歴史
(江戸期)
(明治期)
(大正・昭和期)
【参考文献】
・田島弥平旧宅案内所の年表展示パネル
※現代の蚕業革命
【参考】
・「カイコのひみつ 第2弾」(農研機構様・PDF11.3MB)
・「GM蚕からヒト型タンパク質 再生医療の研究材料に 免疫生物研究所が大量生産に成功 群馬・藤岡市(上毛新聞2023年4月12日)
(参考図書)
「島村蚕のふるさと会」の丸橋 利光さんには、度々、中瀬の大斉藤家や、大阪の炭屋、本庄宿の戸谷半兵衛についての資料を送っていただいていて本当に勉強になります。丸橋さんに教えられたのですが、大斉藤家や炭屋と半兵衛には当時から密接な交流があったことがわかりとても刺激を受けました。
また、新田の殿様が描いた「猫絵」の話についても丁寧に教えていただき、興味を持ち早速関連する本を購入してみました。
戸谷家の親戚筋の松本屋さんや、太田薬局さんのことも島村の方々はよくご存じで、うれしかったです。
6月の第3日曜日には9周年記念が開催され、特別に島村の貴重な文書を公開する予定とお聞きしたのでとても楽しみです。島村についてさらに勉強を深めたいと思いました。
丸橋さんはじめ、「島村蚕のふるさと会」のボランティアガイドの皆々様、ありがとうございました。