~元JR東海専務で街道文化研究家の志田 威先生~
東海道57次講演会 第2部 基調講演
「教科書も伝え始めた『大坂への東海道57次』と『57次の魅力』」
■日時:令和4年(2022 年)5月29日(日)
■講師:東海道町民生活歴史館・館長 志田 威先生
(※2023年4月5日追記)
志田 威先生より、令和5年(2023年)の『東海道57次講演会』のお知らせをいただきました。
今年は、1624年に3代将軍家光が「庄野宿」(三重県鈴鹿市)を設けることによって「東海道53次(江戸-京都間)・東海道57次(江戸-大坂間)」が完成されてから400年目、来年は400周年の記念すべき大切な時期を迎えているとのことです。400年という大きな節目にあたり、家康公が創設した「街道文化・歴史」の原点に立ち戻ってもう一度学びなおすことの重要性を改めて実感いたしました。
◆「街道の本来の役割や姿」の正確な伝承を
江戸時代、徳川家康・秀忠・家光によってつくられた宿場町は、「人馬継立(じんばつぎたて)・継飛脚(つぎびきゃく)」という重要使命を遂行し、社会に大きく貢献しました。
近年、この宿場・街道文化が忘れられ始め、また歪んで伝えられてしまっているとのことです。
たとえば、歌川広重は『東海道五十三次』と題して浮世絵シリーズを出版していますが、「東海道は京都(三条大橋)までの53次」と発信したことから、その認識が広まり、「東海道は大坂まで延伸された57次」という事実が忘れられ、今日に至っています。
志田 威先生は、このうように歴史が誤って伝え続けられていることに危機感を抱かれ、幕府の街道施策を”正確に”発信するためにご尽力されています。
毎年行われている「街道交流会(東海道57次交流会)」での講演活動や、中山道「大井宿」(岐阜県恵那市)との連携、「東信州中山道サミット【沓掛宿(軽井沢町)~和田宿(長和町)の11宿との連携】」など、宿場間で情報交換しながら、「宿場・街道文化を正確に伝承」し、地域活性化につなげるための様々な取り組みをなさっています。
※志田 威先生は、2013年7月に、吉田 信解本庄市長とともに中山道「本庄宿」の調査の一環として、戸谷八商店、開善寺、安養院、金鑽神社、二の蔵、旧本庄商業銀行レンガ倉庫をご訪問くださりとてもありがたかったです。(詳細はこちらへ)
◆志田 威(しだ たけし)先生
~元JR東海専務・街道文化研究家・「東海道町民生活歴史館」館長~
「東海道町民生活歴史館」、「東海道57次・中山道67次交流館」館主、恵那市観光協会「恵那観光大使」。
昭和18年、旧蒲原宿内で江戸時代から醸造業などを営んでいた旧家に生まれる。
東京大学経済学部卒、日本国有鉄道を経て、昭和62年東海旅客鉄道に入社し、経営管理室長、取締役総務部長、常務取締役、専務取締役、ジェイアール東海不動産社長を歴任した。現在は、国登録有形文化財の指定を受けた実家の志田邸を公開し、併せて前記3館の館主を務めながら、東海道の歴史・文化を普及する講演・執筆活動を続けている。
【ご著書】
◆志田 威先生がご尽力されている「街道交流会」
~街道文化の正確な伝承、街道・宿場間での情報交換、観光振興~
●「第4回 街道交流会」(東海道57次講演会)第2部(2021/3/6)
【WEBサイト】:https://www.seiundo.co/kaido
「江戸~京・大坂の旅と通信を支えた【東海道57次・中山道67次と美濃路・佐屋路】
~郵便は東海道57次中心に創業し、街道に沿って全国へ展開~」(志田 威先生)
●「東海道57次講演会」(清水ふれあいホール)第2部(2022/05/29)
【WEBサイト】:https://www.seiundo.co/post/57_kouen
「教科書も伝え始めた『大坂への東海道57次』と『57次の魅力』」(志田 威先生)
●「第5回街道交流会」(志田邸・東海道町民生活歴史館と恵那市の中山道ひし屋資料館提携15周年記念)記念講演(2022/2/5)
【WEBサイト】:https://enatabi.jp/kaidou
「宿場街道が生み出す【交流と地方活性化】
~宿場は郵便を生んで150年、工夫次第で観光振興の拠点に~」(志田 威先生)
●「信州 中山道サミット~『歴史の道』東信州中山道を考える~」(2022/11/10)
【WEBサイト】:http://www.higashi-shinshu-nakasendo.com/index.html
(第1部講演)
基調講演(志田 威先生)「街道観光による地域振興~街道散策者の学ぶ意欲に答える準備を」
(第2部講演)
パネルディスカッション「中山道を生かした観光振興」
◆「五街道」
「五街道」とは、江戸時代「江戸日本橋」を起点とした「東海道」、「中山道」、「日光道中」、「奥州道中」、「甲州道中」の5つの街道です。
慶長5年(1600年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで覇権を握るとただちに全国を統一して支配する必要から、街道の整備を始めました。慶長6年(1601年)の正月に、「東海道」の各宿に対して、徳川家康の「伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)」と、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の連署による「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」を交付しました。
「伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)」は、”此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる者也” という文言に、徳川家康の朱印が押されているものです。朱印状を携帯していない者に対しては、各宿駅が公用の伝馬を出すことを禁じたものです。
「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」は、各宿場が常備しなければならない馬数(36疋)や、荷物などを継ぎ送る隣宿の指定などの5カ条からなる定書です。
(伝馬朱印状)
◆徳川家三代(家康公・秀忠・家光)による東海道の整備
~「江戸から京都まで」の53宿と、「江戸から大坂まで」の57宿~
▼常備人馬数:100人 100疋
▼宿:「江戸(日本橋)-京都(三条大橋)間」に53宿/「江戸(日本橋)ー大坂(高麗橋)間」に57宿。
▼総延長:江戸・京都間 126里6町余(約495.5km)/江戸・大坂間 137里4町余(約538.5km)
▼参勤通交大名数(文政期):146家
1《家康による東海道の整備》
●慶長5年(1600年)、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利すると、街道の整備に取り掛かります。
慶長6年(1601年)1月には、約40程の「宿駅(宿場)」を決めて、指定された「宿駅」には、公用で旅する役人や荷物を宿駅から宿駅へと送る「伝馬制度」を敷き、これに必要な人手や馬を常備することを各宿駅に義務付けました。
各宿駅には、徳川家康の『伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)』と、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の連署による『御伝馬之定(ごてんまのさだめ)』が渡され、人足36人と伝馬36疋※を常備することが義務付けられました。
→これが東海道の「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」の始まりです。
※旅人が増えるにしたがって人馬も増加。天保14年(1843年)には、原則として各宿駅に100人100疋が義務付けられました。中山道の人馬数は50人50疋。(※旅人の少ない木曾路11宿は25人25疋。)
※各宿駅では、人馬提供の代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典がありました。
2《秀忠による大坂延伸》
●慶長10年(1605年)、2代将軍徳川秀忠は、家康の意向を受けて「宿駅伝馬制」の拡充に努めました。
●慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させると、東海道の「大坂延伸」に着手。「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」「守口宿」の4宿を設置しました。
→東海道の「大坂延伸」は、「西国大名を朝廷に近づかせない」という幕府の強い意思表示でもありました。
3《家光によって東海道57次が成立》
●寛永元年(1624年)、3代将軍徳川家光は伊勢に「庄野宿」を設置する。
→この結果、東海道は、「江戸から京都まで」の53宿(53継立)、「江戸から大坂まで」の57宿(57継立)となりました。
●寛永12年(1635年)、「参勤交代」が制度化された結果、街道往来は急増。
→宿駅は多忙になるとともに、経済的には潤い、活気づきました。
【中山道】
~「板橋宿」より「守山宿」まで67宿~
▼常備人馬数:50人 50疋(木曾路11宿は 25人 25疋)
▼宿 :「板橋宿」より「守山宿」までの67宿。(草津宿で東海道に合流。)
▼総延長:江戸~草津間 129里10町余(約507.7km)
京都までは135里34町余(526.3km)
▼参勤通交大名数(文政期):30家
中山道は、江戸日本橋から板橋、本庄、追分、塩尻、福島、関ヶ原、守山など67宿を経て、草津宿で東海道に合流しました。
碓氷峠のような難所はあったものの、東海道と比べて、陸路が多いため渡場で止められることが少なく、安定して通ることができたので、中山道も多く利用されていました。江戸幕府14代将軍の徳川家茂に嫁いだ皇女和宮も、京都から江戸への嫁入りの際には中山道を経由しています。
●慶長7年(1602年)、東海道に次ぐ幹線道路として中山道の整備に着手。「宿駅伝馬制」を実施。
●元和9年(1623年)、「碓井関所」が置かれる。
●寛永12年(1635年)、参勤交代が制度化される。
●元禄7年(1694年)、木曽川の流れの変化等により、土田宿が廃宿され、上流に位置する「伏見宿」が正式な宿場となる。
●享保9年(1724年)、「新町宿」が正式な宿場となる。
【甲州街道】
▼常備人馬数:25人 25疋
▼宿 :「内藤新宿」~「八王子宿」~「上諏訪宿」までの45宿。 (下諏訪宿で中山道に合流。)
▼総延長 :江戸-下諏訪間55里(約220km)
▼参勤通交大名数(文政期):3家(信濃高遠藩、高島藩、飯田藩。それ以外の藩は中山道を利用した。)
●当初は万一に備える重要な軍用路として整備される。
●元和4年(1618年)に官道となる。
●初めは第1の宿は「高井戸宿」であったが,元禄10年(1697年)、「内藤新宿」が設けられ第1の宿駅となる。
●江戸中期以降、商品流通路としてにぎわった。
【日光道中】
▼常備人馬数:25人 25疋
▼宿:「江戸(日本橋)ー日光東照宮間」に21宿
▼総延長:40里18町(約130km)
▼参勤通交大名数(文政期):41家
●慶長7年(1602年)、宇都宮町に伝馬の負担が命じられる。
●元和3年(1617年)の東照宮造営以後、参詣路として重要視。
●寛永13年(1636年)、江戸日本橋~下野国日光の日光山にある徳川家康を祀る日光東照宮間が開通。
【奥州道中】
▼常備人馬数:25人 25疋
▼宿:「宇都宮宿ー白河宿間」に9宿。「宇都宮宿」までの17宿は日光道中と奥州道中を兼ねる。
▼総延長:48里(約190km)
▼参勤通交代名数(文政期):37家
●寛永年間(1624-44年)頃に整備・改修される。
●江戸後期、ロシアの南下などにより緊張感の高まる北方への備えの重要性が増すこととなり、公用通行も増加。
◆「志田邸(東海道町民生活歴史館)」
志田先生のご実家でもある「志田家」は、江戸時代から東海道「蒲原宿」で、米・塩・油等を扱ってきた商家でした。
江戸後期の天保13年(1842年)には、醤油の醸造も手がけるようになりました。代々、六左衛門を名乗ったことから、屋号は「やま六」、「山六醤油(やまろくしょうゆ)」の銘柄で昭和初期まで製造・販売を行っていました。現在でも当時の道具が残っています。
主屋は、安政元年(1854年)の大地震で被災し、翌安政2年(1855年)に建て直しされた蒲原地区でも最古に属する町屋です。主屋内は、「(街道に面した)店の間」・「中の間(客間)」・「居間」と続き、「通り土間1列型」の典型的な町屋形式でした。
「蔀戸(しとみど)」、「箱階段」、「囲炉裏」など建てられた当時のまま残り、平成13年(2001年)に「志田家住宅主屋」として国登録有形文化財に登録されています。
奥に進むと、天保13年(1842年)竣工の醤油醸造工場が「東海道町民生活歴史館」(館長:志田 威先生)として公開されています。この醤油工場は、東海道の宿場内で当時のまま現存している唯一の工場と言われています。
「東海道町民生活歴史館」では、江戸期~昭和初期までの生活関連品が展示されており、昔の暮らしぶりを垣間見ることができます。
令和2年(2020年)6月、「日本遺産」に認定されたストーリー『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』の構成文化財となっています。
2014年4月に「志田邸」を訪問させていただきました。上記はその時の写真です。
ちょうどこの時期は、志田邸にて「中山道の日」(毎月第4土曜日・日曜日)が制定。最初に「大井宿の日」が設けられ、志田邸の中で、中山道「大井宿」が紹介されていました。
「歌川広重の代表的な風景版画のシリーズの中で、「木曽海道六拾九次之内 大井」と「東海道五拾三次之内 蒲原」がともによく似た雪景色であることを縁として、 中山道「大井宿」の【中山道ひし屋資料館】と東海道「蒲原宿」の【東海道町民生活館・志田邸】は、 姉妹館として提携し、相互のポスター、パンフレットなどの資料や情報を交換し、協力し合って、中山道大井宿と東海道蒲原宿の歴史・文化・観光・人的な交流を促進しています。」(案内文より)
※2006年10月から結ばれた蒲原宿の「東海道町民生活歴史館・志田邸」と大井宿の「中山道ひし屋資料館」の”姉妹館提携”についてはこちらをご覧ください。
(広重の浮世絵 雪景色)
◆東海道・「蒲原宿(かんばらじゅく)」
東海道「蒲原宿(かんばらじゅく)」は、日本橋から15番目の宿場町です。富士川の西に位置し、川の渡船で間の宿「岩淵宿」とともに繁栄しました。
徳川家康が1601年に東海道を開き、「宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)」が始まると、「蒲原宿」は当初から宿駅に指定され、「人馬継立(じんばつぎたて)」業務を開始しています。
天保14年(1843年)には、宿内家数509軒、人口2480人、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒、問屋場1軒で栄えた宿場でした。
元禄12年(1699年) 8月15日の津波により宿駅の大半が流失し、翌年の元禄13年(1700年)に、東海道を山寄りに移動させ宿駅を新設しました。その結果、「慶長時代の狭い東海道」と「元緑移転後の幅広く枡形を入れた新東海道」を比較できる興味深い宿場町となっています。
国道が旧東海道を迂回したため、現在でも江戸期の建造物が残り、往時の面影が見られます。
江戸時代の「蒲原宿」は、富士川を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わったといいます。
また、富士川舟運を利用した甲州年貢米輸送の中継基地として海上輸送業務も加わり、江戸時代を通して幅広い経済活動で活況を呈しました。
「蒲原宿」には、国登録有形文化財の「志田邸」、「旧五十嵐歯科医院」をはじめ、旅籠、商家、名主の住宅などが残っています。
◆山部赤人が詠んだ ”田子の浦” の場所は「蒲原宿」
”田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける”
(田子の浦を通って眺めの良い場所に出てみれば、頂きにまっ白に雪が降り積もった富士山が見えることだ。)
奈良時代を代表する歌人山部赤人(やまべ の あかひと)が富士山を見事に詠ったこの歌は、「蒲原宿」の吹上の浜で詠ったといわれています。
古代より、富士川より”西”、興津あたりまでの海岸を「田子の浦」と呼んでいました。
富士川より東を「田子の浦」と呼ぶようになったのは、近代になってからです。
約1300年前に創建された「蒲原宿」にある「和歌宮神社(わかみやじんじゃ)」。
祭神は山部赤人(やまべ の あかひと)。さらに富士山の御祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめ)を祀っています。
奈良時代を代表する歌人山部赤人(やまべ の あかひと)が富士山を見事に詠ったからこそ、この神社が創建されたといわれています。
「蒲原宿」にある『和歌宮神社』
◆東海道は「57次」
~京都までの53次と、大坂までの57次~
東海道と言えば、浮世絵師・歌川広重による『東海道五十三次』が有名でこちらが広がっていますが、本来は「57次」であったことが判明しています。
東海道は、京都までの53宿(53継立)と大坂までの57宿(57継立)があります。
◆幕府作成の2つの史料にも記載されている「東海道57次」
天保14年(1843年)に、江戸幕府が東海道の各宿場と街道沿いの様子の調査を行った①『東海道宿村大概帳(とうかいどう しゅくそんだいがいちょう)』には、品川宿(1番)~守口宿(57番)までの「57次」の宿場の具体的内容が詳細に記録されています。
また、幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した絵地図②『東海道分間延絵図(とうかいどう ぶんけんのべえず)』についても、京都までの53宿と大坂までの57宿が描かれています。
①『東海道宿村大概帳』に記載された「57番の守口宿」
②『東海道分間延絵図』に描かれた「大津追分」から大坂までの4宿
(大坂・高麗橋)
(大坂の三井呉服店)
「高麗橋通り」には三井呉服店、岩城呉服店などの大店が軒を連ねていました。
「三井呉服店」は、東海道五十七次の”両端”である「江戸の日本橋」と「大坂の高麗橋」に店を構えたといわれています。
(江戸日本橋の三井呉服店)
※江戸日本橋の三井越後屋の付近に店を構えた「本庄宿・戸谷半兵衛の嶋屋」
「戸谷半兵衛」は、中山道「本庄宿」の豪商でかつ慈善家です。『関八州田舎分限角力番付』(関八州の豪商番付)には、西方筆頭の大関として位置付けられており、関東一の豪商ともされた人物でした。
「戸谷半兵衛」家は、「戸谷八郎左衛門」家の分家にあたる家で、本庄宿の「中屋」ほかに、江戸や京都にもお店を出していました。上記は、江戸後期の、日本橋からの中山道沿いのお店を正確に描いた『熙代照覧(きだいしょうらん)』という絵巻です。そこには、戸谷半兵衛が江戸日本橋と「三井越後屋」の間に持っていた「嶋屋」も描かれています。
※『熈代勝覧(きだいしょうらん)』についてはこちら(三井広報委員会ウェブサイト)をご覧ください。
◆高校の歴史資料集も「東海道57宿」に修正された
◆「宿場」の3大使命とは
~「人馬の継立」・「継飛脚」・「宿泊の提供」~
①「人馬継立(じんばつぎたて)」
朱印状・御証文を持参する公用の旅人と荷物を無償で次の宿駅まで送り届け次に引き継ぐ一方、 その他の旅客からは有償で継立を行う。
基本人馬数…東海道(100人・100疋)/中山道・美濃路(50人・50疋)/その他の街道(25人・25疋)
②「継飛脚(つぎびきゃく)」
幕府公文書類を次の宿駅まで短時間で運ぶ。
③「宿泊の提供」
本陣、旅籠等。
※公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交替してリレー方式で運ぶ制度を「宿駅伝馬制度(しゅくえきてんませいど)」といいます。(人馬が輸送するのは隣の宿場までで、隣の宿場に着くと人足と馬は交代する仕組み。)
※伝馬(てんま)とは輸送用の馬のことです。
◆宿場の中心・最も重要な施設「問屋場(といやば)」
宿場には、旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割がありましたが、最も重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や書状等を、次の宿場まで運ぶという「問屋場」の業務でした。
「問屋場」には大きく分けて2つの重要な仕事がありました。
①「人馬の継立」と呼ばれる仕事です。
幕府の公用の旅行者が宿場を利用する際に必要な人馬を用意しておいて、彼らの荷物を次の宿駅まで運ぶのが継立業務です。
②「継飛脚(つぎびきゃく)」と呼ばれる、幕府公用の書状などを前の宿場から受け取って、次の宿場まで届ける仕事です。
江戸時代、「問屋場(といやば)」は、宿場の中心となる最も重要な施設でした。
歌川広重の浮世絵には、「藤枝宿」で行われている「人馬継立」の様子が描かれています。
右上の問屋場(といやば)の役人が見守るなか、荷物の引き継ぎ作業が行われ、汗をふき休みをとる者や、荷物を積み直す者など、早朝のあわただしい宿駅の様子が描かれています。
◆「継飛脚」とは
宿場には、「人馬の継立」、「継飛脚」、「旅人の宿泊」という3大任務がありましたが、「継飛脚(つぎびきゃく)」とは、幕府の公用の文書を入れた御用箱を輸送することです。
幕府は、各宿場に「継飛脚」を置いて、公用の手紙や荷物を各宿場ごとにリレーしながら目的地まで届けました。
江戸から京都までは約492km。通常歩くと2週間ほどかかりますが、「継飛脚」はわずか3~4日で走ったのです。江戸時代、今の郵便や電話の役目をしていたのが「継飛脚」です。
明治維新後、「宿駅」や「宿駅伝馬制」、宿駅の重要使命の一つである「継飛脚」を基盤として、「郵便制度」が開始されました。
~絵図で見る「宿場の賑わい」~
中国の商人が8代将軍徳川吉宗に象(ベトナム象)を献上。
享保13年(1728年)6月13日にオス・メス2頭の象が長崎に上陸。
メスはその後3ヵ月ほどで死んでしまったが、残ったオスの象は長崎で冬を越す。
翌年の享保14年(1729年)3月13日に長崎を出発。大坂、京、名古屋を経由して東海道を江戸へ向かった。
4月20日に大坂に入って3日間逗留し、枚方と伏見にそれぞれ1泊して、4月26日には伏見から京都に入った。
京では、宮中参内に当たり、従四位の官位が象に授けられ、4月28日に中御門天皇に謁見。
名古屋からは吉田藩領を経て三河国岡崎からは再び東海道を東に進み、駿河国では大井川を徒歩で渡った。(大井川では川の激しい流れを弱めるため、人足たちが肩を組み、象の渡る上流に幾重にも並んだ。)
富士川の渡河には、川に船を横一列に並べて繋ぎ、「舟橋」の設営が採用された。
5月17日、箱根の峠。(象は5月20日まで計4泊を病気療養のため箱根で過ごした。)
5月25日の六郷川(現多摩川)は、舟橋での渡河。(7日間かかる。)
5月25日、象は江戸へ到着。
5月27日、将軍吉宗と象の対面が実現した。
【一里塚と松並木】
慶長9年(1604年)、徳川家康に命じられて秀忠は、諸国の街道の大改修を行った際に、36町を1里(約3.9キロメートル)として一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどが植えられました。
【幕末における東海道の松並木】
松並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守ります。 また風雨や日差しから道そのものを守る役割もありました。
~ロマンあふれる街道文化~
日本には、徳川家康公によって整備が始められた「五街道」という立派な街道があります。
街道には人々が行き交い、その中には遠い場所から訪れる方々もいて、ロマンあふれる場所として宿場町は機能していました。
宿場町に顔を出すと、遠くの場所につながれることもあり、多くの方にとって宿場町はあこがれの場所でした。
志田先生は、そういった”あこがれの場所としての宿場町の魅力”を伝えるために街道文化の復権を図ろうとご尽力されています。
中山道一の宿場町であった「本庄宿」についても志田先生は興味を持っていただき、時々、志田先生が関わられている企画のご案内を送ってくださいます。
2013年7月に戸谷八商店にご訪問いただきました。
「東海道は57次である」、「宿場の中心は本陣ではなく、問屋場(といやば)である」という話をお聞きし、街道や宿場町について本格的に勉強しなくてはならないと思いました。
今年も年賀状をいただき、その年賀状に書いてあったYouTubeで公開されているシンポジウムの動画を見させていただきました。驚いたことに、志田先生の学問的裏打ちのある主張が学会や教科書でも認められてきており、実際に高校の資料集の中には「東海道は57次である」という表現が載せられるまでになっていました。
志田先生の、事実に基づいた歴史を伝えようという意欲が徐々に周りに伝わり、教科書や資料集にまで影響を与えたこと、本当に素晴らしいと思いました。志田先生の信念、実行力、卓越した交渉力に感服いたしました。
東海道や中山道という街道文化の伝承のため、志田先生のような素晴らしい方がいらっしゃることが本当に心強く思います。街道文化の伝承をともに盛り上げていきたいと心より思っております。