~葛飾北斎のように、90歳になられても毎日筆をとられ絵の道を探求なさっている中村民夫先生~
ドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーの『野兎』の原作を中村先生が模写されたものとのことです。
先生は若い頃から絵の勉強のために、様々な世界の名画の模写を行っています。その様々な模写の中で、この『野兎』のことが一番気に入っておられるとのことです。
実際、この模写を見せてもらい、兔の毛並みの質感や空気感の素晴らしさに感動しました。
中村先生は、模写の勉強なども含め、現在も自らの理想とする形を追求して毎日のように描き続けられておられるとのことです。※中村民夫先生については、こちらの記事もご覧ください。
◆中村民夫先生による「西崎キクさんのブロンズ彫刻(レリーフ)」
【女性水上飛行士第1号 西崎 キク(旧姓松本)】
寄贈:ぎゃらりー和可・製作:中村 民夫先生
西崎キク(旧姓:松本キクさん)さんは、上里町が誇る世界の偉人です。
「日本人女性初の水上飛行士」として、また、「日本人女性最初の海外飛行士」として、さらに、「ハーモン・トロフィー賞を受賞した唯一の日本人女性」としてその名が歴史に刻まれています。
中村先生は、キクさんのご自宅が、中村先生の奥様のご実家の隣だったというご縁があったこともあり、西崎キクさんの偉業を称え、継承していくために、ブロンズの記念彫刻(レリーフ)を製作しようと思い立たれたとのことです。
(作品は、現在、上里町役場の受付に設置されています。)
キクさんが大切にされていたという言葉「ただ一度の人生だから、自分の可能性に挑戦しよう」や、西崎キクさんが成し遂げた世界的な大偉業が、中村先生の作品を通して多くの人たちに継承され続けてほしいと心から思いました。
◆空の幕開け~飛行機のはじまり~
・明治36年(1903年)12月17日、米国のライト兄弟が「ライトフライヤー号」によって、飛行機の有人動力飛行に世界で初めて成功。20世紀の航空機時代の幕開けとなる。
・明治43年(1910年)12月19日、東京・代々木練兵場において、徳川好敏大尉によって操縦された「アンリ・ファルマン機(フランス製)と、日野熊蔵大尉が操縦する「グラーデ単葉機(ドイツ製)」が飛行。日本で初めての公式動力飛行に成功。
・明治44年(1911年)4月5日、日本初の飛行場からの飛行。日本初の飛行場「所沢飛行場」で徳川好敏大尉の操縦する「アンリ・ファルマン機」が、飛行距離約800m、高度10m、飛行時間1分20秒の飛行を記録した。
・大正11年(1922年)3月21日、愛媛県出身の兵頭 精(ひょうどう ただし)さんが、三等飛行機操縦試験に合格し、日本で初めての女性飛行家となる。
・昭和2年(1926年)、冒険家チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークとパリ間の大西洋横断無着陸飛行を33時間29分かかって成功。(1931年には北太平洋横断飛行にも成功。)
【参考文献】
◆上里町の偉人・西崎キク(旧姓 松本キク)さん
~「日本女性水上飛行士第1号」・翌年「日本で初めて海外へ飛んだ女性飛行士」・その功績が認められ国際航空連盟より「ハーモン・トロフィー賞を受賞した唯一の日本女性」。航空功労者として燦然と輝いている西崎キクさんの業績~
・大正元年(1912年)、上里町七本木村に生まれる。
・大正13年(1924年)、「七本木小学校」尋常科卒業。
・昭和 2 年(1927年)、「七本木小学校」高等科卒業。
《教壇から大空へ~日本女性初の水上飛行士・女性初の海外飛行~》
・昭和 4 年(1929年)、埼玉県女子師範学校(旧浦和市)卒業。「神保原小学」校尋常科の教員となる。
→生徒を引率して訪れた「尾島飛行場」(群馬県太田市)で飛行機に魅せられ、航空を志す。
・昭和 6 年(1931年)、東京・江東区州崎の「第一飛行学校」に入学(第一期生)。
・昭和 8 年(1933年)、愛知県新舞子の「安藤飛行機研究所」に入学。
・昭和 8 年(1933年)、二等飛行操縦士の免許を得て、「日本女性最初の水上飛行士」となる。
・昭和 8 年(1933年)10月、「郷土訪問飛行」。
・昭和 9 年(1934年)、東京・杉並区の「亜細亜航空学校」に入学(陸上機の免許も取得)。「日本女性最初の海外飛行」に成功。(日本海横断・満州訪問飛行・「白菊号」)
・昭和10年(1935年)、日本女性初の海外飛行が評価され、国際航空連盟より「ハーモン・トロフィー賞(年度の世界最優秀パイロットに贈られる賞)」を受賞。
・昭和12年(1937年)、樺太祝賀記念飛行。津軽海峡で不時着、失敗に終わる。貨物船に救助され九死に一生を得る。この時の経験がその後の人生の支えとなる。
・昭和12年(1937年)、陸軍省に従軍志願書を提出するも却下される。
→キクの飛行士としての人生は終わりを迎える。
《大空から新たな夢「大地へ」~満州にて教師として、開拓者として》
・昭和13年(1938年)、猪岡武雄氏と結婚。満州開拓団として渡満。「在満国民学校」の小学校教師となる。教師として、開拓者として充実した日々を送る。
・昭和16年(1941年)、夫が死別。
・昭和18年(1943年)、西崎了(にしざき さとる)氏と再婚。長男誕生。
・昭和20年(1945年)、終戦を満州で迎える。夫西崎了氏は満州で招集され、シベリア抑留。(昭和24年9月復員)
・昭和21年(1946年)、シベリア抑留中の夫を残し、命からがら現地を脱出。一行は途中、飢えや疫病で次々に亡くなる。引き揚げの途中で長男・峻(たかし)を亡くす。出発時の492人中わずか133人となって埼玉県庁に到着。
《帰国後、教師として生徒を教えながら、故郷・七本木の開拓にも邁進》
・昭和22年(1947年)、夫がシベリア収容所で健在であることがキクに伝えられる。
・昭和23年(1948年)、夫が復員するまでに少しでも開拓を進めるために「七本木開拓地」に入植。
「七本木中学校」で教員、「七本木小学校」で教頭も務める。生徒を教えながら農業開拓指導にも力を注いだ。
・昭和29年(1954年)、夫の帰国を機に教員を退職。再び夫と二人で土を耕す日々が戻る。
《執筆活動と女性の生活・文化向上への尽力》
・昭和33年(1958年)、『航空婦人』に、自らの体験をつづった「爆煙は紫にながれて」、「曠野の落日」を執筆。(36年まで)
・昭和36年(1961年)、開拓15周年記念体験記『酸性土壌に生きる』農林大臣賞受賞。
・昭和48年(1973年)、上里町の社会教育指導員として婦人教育を担当。『婦人だより』の刊行、婦人学校の開催など地域の女性の生活・文化向上に尽力する。
・昭和50年(1975年)、『紅翼と拓魂の記(こうよく と たくこん のき)』出版。
・昭和51年(1976年)、西崎キクさんがモデルの一人とされたNHKの朝の連続ドラマ『雲のじゅうたん』放送。(最高視聴率48.7%)
・昭和54年(1979年)、脳溢血のため逝去(66歳)。
【参考文献】
(西崎キクさんのご著書)
◆西崎キクさんがモデルの一人とされたNHKの朝の連続ドラマ『雲のじゅうたん』
◆水上機を操縦して「郷土訪問飛行」(昭和8年・1933年)
~愛知県を出発して、坂東大橋の架かる利根川、上里町の小学校などの上空を飛行し、故郷を訪問飛行~
●昭和8年(1933年)10月15日午前6時10分、「一三式水上機」を操縦して、愛知県知多市新舞子にある研究所を出発し、途中、羽田など二ヵ所で給油、午後1時、「坂東大橋」に雄姿を見せ、数万の群集が見守る中、三度旋回した後、見事に着水。
408kmを7時間で飛行しました。児玉郡内や本庄町(現本庄市)、群馬県玉村・伊勢崎から数万の人たちの歓迎を受ける。歓迎式では、教師時代の教え子から祝辞や飛行機の絵が贈られた。
●10月18日には、上里町のある児玉郡の各小学校の上空を飛行。
その後、母校・埼玉県女子師範学校のある浦和、川口、所沢などの埼玉県の各都市の訪問飛行では
「ふるさとの川は野は麗しく
ふるさとの山はこよなく美しい
只感激!只感謝! 二等飛行士 松本きく子」
という感謝のビラ3万枚を散布。
●10月20日、羽田の東京水上飛行場に着水、郷土訪問を終える。
◆「満州訪問飛行」(昭和9年・1934年)
~『日本人女性初の海外飛行』という快挙を達成~
(昭和9年の「日満親善訪問飛行」の航路)
※より
◆「ハーモン・トロフィー受賞」(昭和10年・1935年)
~国際航空連盟より「ハーモン・トロフィーを受賞した唯一の日本人女性」~
(※西崎キクさんパンフレット「教壇から大空へ、そして大地へ」より)
昭和10年(1935年)3月、キクの「日本女性飛行士の海外飛行第1号」が評価され、パリにある国際航空連盟より、ハーモン・トロフィー賞が贈られました。トロフィーとともに贈られた修身会員証No.は”31番”でした。、”№30番”は、昭和2年(1927年)に世界で初めて「大西洋単独無着陸横断飛行」に成功したリンドバーグでした。
西崎キクさんは、大西洋単独無着陸横断飛行に成功したリンドバーグや、初の月面着陸を果たしたアポロ宇宙飛行士たちと並んで、航空史上に燦然と輝いています。
◆”あおぞらパーク”に設置されている「西崎キクさんの記念モニュメント」
(埼玉県児玉郡上里町七本木5328)
「大正元年、上里町に生まれたキクは、日本女性水上飛行士第1号の操縦士免許を取得、翌年日本で初めて海外へ飛んだ女性飛行士。
その功績を認められ、 国際航空連盟よりハーモン・トロフィーと終身会員証 (No.31) を授与された、日本人で唯一の女性飛行士として、その業績は航空史にも燦然と輝いている。
また、飛行士としてだけではなく、そのたぐいまれなる冒険心で、満州の開拓者として大陸へ渡り、新たな夢に向かって挑戦し続けた。
その後、時代に翻弄されながらも、キクは再び教師として、開拓者として上里の地を育み、地域の女性の生活・文化の向上にも尽力を注いだ。 その生き方は、 没後四半世紀をへてもなお、人々の心の中に生き続けている。」(案内板より)
本庄宿や上里町を含めたこの地方からは、多彩な才能を持った方が生まれ育っています。
今回、画家の中村民夫先生から郷土の偉人である西崎キクさんのことを紹介していただき、勉強させていただいたら、キクさんの実績や志のスケールの大きさに驚かされました。
キクさんが大切にされていたという座右の銘に「ただ一度の人生だから、自分の可能性に挑戦しよう」という言葉があります。
中村先生も、御年90歳になられましたが「自分の可能性に挑戦する」心意気で今でも毎日筆をとりデッサンや水彩画に取り組まれているとのことです。
本庄宿からは、西崎キクさんや中村先生のように、自分の可能性に挑戦する方々が多数生まれています。
たとえば、江戸時代の有名な絵師である葛飾北斎は、90に至るまで毎日のように筆をとったと伝えられています。(※下記参照)
同じように、90歳になられた中村先生も本当にお元気で、更なる画境を探求され続けておられます。
【天保5年(1834年)、北斎が75歳の時の『富嶽百景』初編の跋文での葛飾北斎の言葉】
「己六才より物の形状を写の癖ありて、半百の比より数々画図を顕すといへども、七十年前画く所は実に取に足ものなし。七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故に八十才にしては益々進み、九十才にして猶其奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)。百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし。 画狂老人卍筆」
(私は六歳の頃から物の形を写生する癖があって、50歳の頃から数々の画図を発表してきたが、70歳より前に描いたものは、取るに足らないものであった。73歳になって、鳥獣虫魚の骨格や草木の成り立ちを理解できた。したがって、80歳でますます成長し、90歳でさらにその奥義を極め、100歳で神の域に達するのではないだろうか。100何十歳ともなれば、点や骨組みだけで、生きているような感じとなるだろう。願わくば長寿の君子よ、私の言葉が偽りでないことを見ていてください。)