~記念に開催された第1回企画展「髪と花のコレクション展」~
2022年5月23日~5月31日に、中村民夫先生の個展『髪と花のコレクション展』が開催されました。
今後、中村先生のギャラリー「ぎゃらりー和可」が美術館としてスタートするとのことで、これを記念として、このたび企画展が開かれました。
中村民夫先生は、「麓原会(ろくげんかい)」で長年ご活躍されている著名な画家です。姉の中学時代の恩師(美術の先生)でもあります。
14歳で堀英治氏に師事された後、1963年(昭和38年)の「第1回中村民夫個展」以降、熊谷・高崎・本庄・伊勢崎の各市において様々な個展を開催されてこられました。
◆中村民夫先生 画歴
1932年(昭和7年)11月18日 埼玉県本庄市七軒町2756番地(現 本庄市銀座)に生まれる。
1946年(昭和21年・14歳)堀英治氏に素描の手ほどきを受ける。以降、氏を師とする。
1947年(昭和22年・15歳)第1回麓原会公募展に出品。以降現在まで出品。日本水彩連盟に出品。(※「自画像」が初入選)
1951年(昭和26年・19歳)第1回埼玉県展に出品。(※県展で初入選)以降20回位出品。第7回日展に出品。(※全国最年少で日展に「自画像」が初入選)
1952年(昭和27年・20歳)第8回日展に出品。(※日展で「女教師」が連続入選)
1953年(昭和28年・21歳)白日会展に出品。以降15回位出品。
1955年(昭和30年・23歳)埼玉大学教育学部美術学科入学。油彩画技法を学ぶ。
1959年(昭和34年・27歳)第1回埼玉県北美術展に出品。以降つづけて出品。
1960年(昭和35年・28歳)弟10回埼玉県美術展(10回記念賞)
1961年(昭和36年・29歳)第11回埼玉県美術展(県知事賞)
1963年(昭和38年・31歳)第7回安井賞候補展に出品。第1回中村民夫個展。以降、熊谷・高崎・本庄・伊勢崎の各市において23回の個展。
1967年(昭和42年・35歳)ヨーロッパ長期美術視察旅行。
1998年(平成10年・66歳)中村素描研究所「ギャラリー和可」設立。研究会発足(第3土曜日)。
2007年(平成19年・75歳)藤岡美術会展に出品。以降、つづけて出品。
2009年(平成21年・77歳)中村民夫素描研究所所蔵展「ゴヤ作版画展」
2011年(平成23年・79歳)中村民夫個展・出版記念展(東京・京橋)
2011年(平成23年・79歳)第1回「中村民夫素描集」出版記念展。
2012年(平成24年・80歳)第2回「中村民夫素描集」出版記念展。
その他 自由出品:現代リアリズム展・彫好会展・高崎平和美術展・藤岡美術会展。
※『中村民夫油彩・水彩作品集 2013』より引用・加筆
◆中村民夫先生 画集
【ごあいさつ~恩師堀英治氏との出会い、そして素描との出会い】
”「よく見ること」 「よく描きこむこと」 そして、 対象の把握が悪いときは消し、描き直すことを徹底的に指導された。 この時先生から教えられたことが、私が素描に夢中になるきっかけとなり、 中学3年(改正された教育行政により、 高等科卒業後、新制中学校となり3年に進入する) の時から本格的に素描(デッサン)の勉強(学習)を始めた。
当時の私の絵を「大人のような絵を描くね」 と批評をしてくれたのが、 終生の画友であった故持田政郎氏である。 何となく嬉しくて自負を感じた。
堀英治先生は、 絵画制作の基本である素描をきちんとやることを教えてくれた人である。 その時以来描き続けているデッサンの訓練が現在でも続けられ、私の絵画制作の根幹となっている。”
【私の素描(デッサン) について】
”私は、初めの頃は素描を「本画に対する下絵、下図、そして基礎練習として描くもの」という考えで描いていた。 しかし、いつの間にかその素描が絵画の表現形式の一つであり、素描そのものが作品として成り立つのではないかと考えるようになり、そしてこれも本画と何ら変わらないものなのだと確信を持つようになった。
以前から絵画に、本絵と下絵との区別があるのかと疑問に思うことがしばしばであった。 が、美術の表現は自由であるべきだということに気づいた。 そうした中、素描にますます夢中になり、 深く入り込む中で、先人の優れた作品の本質に触れ、それをたよりに更に描き込んでいくと、思いがけないモノに出会うこともある。それが神髄というものなのか、そのようなものに触れた時、今までにない喜びと、新しい緊張感を感じたことを今でも覚えている。
たった1本の鉛筆やコンテで表現された白黒の表現(世界) が絵画とは何かを私に考えさせてくれた。決して、その内容は高度なものではないが、絵画の本質を味わわせてくれたと思っている。 私は、水彩画や油彩画を中心にして制作してきたつもりでいたが、素描によって絵画の本質に触れることができたように思う。
私の今後の仕事の展開は、この素描が方向を示し、その流れの中で進められることになるだろうと考えている。そして、そのことを信じて制作を進めている。”
※『中村民夫 素描集』(中村民夫素描集刊行委員会、2010年)より
※2022年7月17日(日) に開催された『麓原会(ろくげんかい)夏季展』での中村民夫先生の作品について、こちらもご覧ください。
”絵を描くことは大人すぎてもだめだ
絵を描くことは大人にならないといけないのだ
絵は純真にならねば描けない
絵は生意気でなければ描けない
絵は絵の中に自分を引きずり込んで描かねばならない
絵を描くことを否定し、放り出し自分から隔離しなければ絵は生まれない”
※『中村民夫 油彩・水彩作品集 2013』より
◆『2019 中村民夫個展~自画像のさらなる展開』より
【中村民夫先生個展によせて】
東御市梅野記念絵画館友の会会長
秋山 功氏
この度、中村民夫先生が人物画に特化した個展を開催するとのお話を伺った。待ちに待った展覧会である。私は、この画家の特筆すべき才能、魅力は「自画像」にあると前から確信していたからである。
14歳で堀英治氏(元群馬県立富岡東高校教諭)に師事して以来、デッサンの重要性を説かれ、その教えを頑なに守りデッサンに励んだ。戦後間もない時期ゆえ、画用紙は高価なためわら半紙に描いたという。15歳から16歳までの1年あまりで凡そ2000枚のデッサンを描いたと云うから尋常では無い。結局、描く対象も自分にならざるを得ず、うち450枚が「自画像」になったという。こうした努力と才能は瞬く間に開花し、弱冠15歳で「自画像」を日本水彩連盟展に出品して初入選を果たす。3年後には県展にも「自画像」を出品してこれも初入選、さらにその翌年には、全国最年少で日展に「自画像」が初入選するなど、この作家の「自画像」は若い頃から定評があった。また翌年の日展には後に妻となる同僚の女性をモデルに、「女教師」と題して出品し、連続入選を果たしている。
その後も、こうした実績や評価に驕ることなく熱心にデッサンに励み、1961年の県展では県知事賞、さらに63年には安井賞候補となるなど、その作品はさらに深化し、凄みさえ感じさせる。特にヨーロッパを訪ねたことが契機になり、北欧ルネッサンスの影響を強く受けたことで初心に返り、もう一度写実というものを見直し、自己のものにしてきた経緯がある。このような体験と長い鍛錬を通して培われたデッサン力により、現在の「自画像」では、自己の有り様を意識することなく、変幻自在に表現できる技術が身につき線描による中村独自の作風が生まれ、それは今なお修練を継続していることで簡略化され進化し続けている。
今回の展覧会はこの作家の十代から現在に至る、これまでの70年に渡る「自画像」の透徹した描写力とその変遷を一覧できる待望の企画であり、「美とは何か」を改めて考えさせたり、「本物の美」に出会える貴重な機会となることだろう。
(※2019年中村民夫先生個展・パンフレットより引用)
◆中村民夫先生 個展DVD
~「髪と花のコレクション展」(2022年5月23日~31日開催)~
7月7日、中村先生が戸谷八商店を訪問くださいました。
菅野公夫先生がご作成してくださったという個展DVDを持ってきてくださいました。
(※DVDから掲載させていただいた個展の様子です。)
◆麓原会(ろくげんかい)
~戦後日本において ”水彩画革命” を起こした会~
「麓原会(ろくげんかい)」は、戦後まもなく、古川弘先生を中心として、中村先生の恩師である堀英治先生、山田鶴左久先生、金井邦松先生たちによって発足されました。
敗戦による社会混乱の中で意気消沈していた若者たちが、絵画を通して元気を取り戻そう、地域に文化の灯をともそうという志で始めたのがその発端とのことです。
本庄・児玉の地は、上毛三山、秩父連峰に囲まれた麓の原ということから、「麓原会(ろくげんかい)」という名前が付けられたそうです。
「麓原会(ろくげんかい)」は、当時、油絵よりも低いとされていた日本の水彩画のレベルを、油絵に全く引けを取らないレベルにまで高め、戦後日本において「水彩画革命」を起こした会です。
日展に水彩画で入選する人は約30名のうち、麓原会の人が4人も含まれていたことがあり、3人は常連だったそうです。
本庄・児玉地域は、戦後間もない時期から、日本の水彩画の水準を高め、支え続ける拠点となっていました。
(参照)
◆公募展 麓原展(ろくげんてん)
毎年秋の、11月3日の文化の日を中心に本庄市立西小学校体育館において一般公募の絵画展「麓原展(ろくげんてん)」が開催されています。(春には春季展、夏には夏季展が行われています。)
※麓原会 夏季展につきましてはこちらもご覧ください。
市内また周辺地域一円から、多い時には150もの出品があります。展示は「麓原会員」「会友」「一般」に分けられています。
麓原展は昭和22年(1947年)に第1回の公募展が開催されてから、70年以上続いています。
70年もの間、公募展が継続しているところは全国的にも珍しく、現在も、堀英治先生の弟子である中村民夫先生、菅野鈾一先生(菅野公夫先生のお父様)、本庄第一高校の美術部顧問として27年間指導され多くの教え子を入選させた実績をもつ菅野公夫先生、現在の本庄第一高校の美術部顧問の棚澤寛先生、本庄第一高校の生徒たちによって脈々とその伝統が受け継がれています。
「本庄には、このような水彩画に革命を起こした麓原会という絵の会がある。これは、歴史的な意義のある革命である。これも本庄の魅力の一つとして多くの皆さんに知っていただきたいことだと思う。」※絵画指導 菅野公夫先生のブログ「麓原会の歴史的存在意義」より
◆公募40周年記念『麓原会画集』
『公募40周年記念 麓原会画集』の「発刊にあたって」より
昭和20年10月は、太平洋戦争の敗戦直後で世の中は混乱していました。食料や物資は極度に不足し、人々は生きるのに、精一杯の状態でした。秋のある日、当時の本庄高等女学校の一室で、古川弘先生を中心に集まった4人の画家が、 絵画制作の将来への展望やグルーブをつくることについて話し合いました。その話題は絵画を通じて、美をきびしく追求することでした。 絵画制作の中に自己を見つめ、仲間たちと切磋琢磨して自己を高めると同時に、友愛と郷土愛の精神で、地域の文化向上のために寄与しようというものでした。
この呼びかけに賛同し、集まった人たちによって麓原会が創立され、昭和21年12月、第1回会員展が本庄町杉山呉服店において開催されました。翌22年第2回会員展が新緑の頃、児玉小学校で行われました。その頃、会員中に公募展を希望する声が高まり、話し合いを重ねた結果、昭和23年1月、公募第1回麓原展を本庄高等女学校の講堂において開催することになりました。その後回を重ね、今秋40周年記念展を迎える運びとなりましたが、このことは戦後の世相の変化と共に、麓原会の歴史をしみじみ感じさせるものがあり、誠に感慨深いものがあります。
本庄児玉の地は上毛三山、秩父連峰に囲まれた麓の原です。したがってこの地に生まれた会は、麓原会という名に決まりました。
展覧会、写生会、デッサン研修会、作品互評会など会の行事は、すべて事務所を中心に企画され、会員の賛同を得て民主的に運営されてきました。経費は各自の納める会費によってまかなわれ、他からの援助は受けていません。会長という役職がないのも本会の特色です。
ここに40回展を迎えるにあたり、その記念事業の一環として画集を刊行することになりました。これは創立以来の麓原会の歴史の集約であり、又新しい未来への出発点でもあります。刊行の運びに至るまでには、会員相互で活発に意見を交換し調整してきました。
画集は現在の会員会友、 並びに在会中逝去された方々の作品で編集してあります。掲載作品は、各自がその全作品の中から1点を厳選し、物故作家については遺族が選び、総点数55点からなっています。麓原会ではこの画集を会以外の方々にも、見て頂くことを願っています。それぞれの作者の心をこめた作品が、形と色を以って、強く烈しく、あるいは優しく静かに、又素朴につつましく鑑賞者に訴えかけることを、 期待して止みません。画集を通して創立以来の麓原会を理解して頂くと共に、これを機会に絵画制作に精進する若い世代が育つことを切望しております。
私たち麓原会の会員会友は、この画集を単なる記念的出版物に終らせることなく、常に座右に置き、頁を繰り、互いに他の長所に学び合いつつ、画道の研鑽に勉めることを誓うものであります。
昭和62年10月15日 麓原会
(公募40周年記念『麓原会画集』より)
中村民夫先生や菅野公夫先生のご活動を通して、本庄・児玉の地域が、戦後日本において絵画文化の拠点であったことや、美をきびしく追求し、郷土愛をもって地域の文化向上のためにご尽力された先人の方々がたくさんいらっしゃったこと、そして、その伝統が今も確実に受け継がれていることを学ばせていただきました。
美術館としてスタートされた「ぎゃらりー和可」が、今後、本庄・児玉地域の人たちにとって、様々なアートを体験する拠点となり、自分たちの住む地域の魅力や文化、歴史に対する理解を深めていける場になれば素晴らしいと感じました。