~「剣術の三大源流」の一つで、650年以上の歴史をもつ「念流」~
◆馬庭念流(まにわねんりゅう)
(高崎市指定重要無形文化財)
「馬庭念流(まにわねんりゅう)」は、上野国馬庭村(群馬県多野郡吉井町馬庭)の地で継承された「念流(ねんりゅう)」のことです。
「念流(ねんりゅう)」は、日本における剣術の三大源流の一つで、応安元年(1368)5月、兵法の奥義を感得された念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)によって創始されました。
「馬庭念流」は、その「念流」を天正19年(1591年)、樋口 又七郎定次(ひぐち またしちろう さだつぐ)が「馬庭(まにわ)」の地で再興した総合武術です。
650年以上の歴史がある「念流」の中で、約400年間以上が樋口家によって受け継がれています。
その伝統と精神は、現在の二十五世樋口定仁氏にいたるまで代々継承されています。
【1966年1月29日「上州の古武道」群馬県吉井町】
【念流剣術・樋ロ定仁氏・明治神宮日本古武道大会(2019年)】
◆念流の「型」と「教義」
【念流の構え】
念流の構えは、足先を「ハ」の字に開き、重心を後ろにかけ剣を切り結びます。その戦い方を支えるために、稽古ではまず「体造り」が重視されています。
念流は、相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守りの剣です。しかしただ、守りの剣といっても、”背水の陣”ではありません。相手を完璧に倒せるだけの実力があってはじめて、守りは可能になります。念流は、能動的に斬らないだけで、「もう切るまでもないでしょう」と相手に判らせて、戦いを止めさせる、そういう流儀の剣術です。
【念流の型】
「表五本」「裏三本」「長刀五本」「槍五本」「組十本」
念流剣術の稽古は、型に重点を置き、入門者は「表五本」を初歩として、「裏三本」・「長刀(なぎなた)」・「槍」などを適宜に錬磨し、技術が上達するにつれ、「組十本(真剣)」を習得するのが一般的な過程であり、これらの修得には数十年の稽古が必要であるとのことです。
【念流の教義】
「 古武道の中でも念流は現存する剣術流派の源流にあたります。
ところが、教義は他の流派とはかなり違い、後手必勝、徹底的な守りを理念として、すべての人生に通ずる剣法であること、和の剣法で人を倒すことを目的とせず、十分の負けに十分の勝ありの精神を持つことを掲げています。あくまでも争うことを善とせず、『剣は身を守り、人を助けるために使うもの』と考えています。この理念は念流の型のなかに、随所に現れています。」 (「念流」より)
◆念流道場『傚士館(こうしかん)』
(群馬県指定史跡)
念流道場は創建年代は不明ですが、寛政8年(1796年)以前とされています。
現存道場は、念流第二十世樋口定広の代、慶応3年(1867年)に建造されたものです。道場の名は『傚士館(こうしかん)』といい、士道を学ぶ、習うという意味とのことです。毎週日曜日に稽古が行われています。
昭和31年に「群馬県指定史跡」となっています。
【参考文献】
・『博物館ブックレット第七集 埼玉武術英名録』(埼玉県立歴史と民俗の博物館・2022年)
・『完全保存版 剣豪の流派』(宝島社・2014年)
・『日本の剣術 (歴史群像シリーズ)』(学研プラス・2005年)
・「馬庭念流について」(小沢丘・1971)PDF:144KB
・「上州の在村剣術馬庭念流と武芸のネットワーク」(高橋敏・2017)PDF:2.6MB
◆念流の祖「念阿弥 慈恩」(ねんあみ じおん)
念阿弥慈恩(ねんあみじおん)は、南北朝時代から室町時代にかけての、禅僧でありながら剣客です。
正平5年(1350年)に、奥州相馬(現:福島県相馬市)の相馬左衛門尉忠重(ただしげ)の子として生まれました。俗名は相馬四郎義元。父の忠重は、新田義貞に仕えて戦功があったと言われます。
義元5歳の時に父が殺されて、武州国今宿に逃れ、その後7歳で相州藤沢の遊行上人の仏弟子となり「念阿弥(ねんあみ)」と名付けられます。
仏門に入るも、父の敵討ちへの思いは強く、剣の修行もはじめます。
10歳で京都の鞍馬山にて修行、異怪の人物に出会ってここで剣術の妙法を授かりました。
16歳の時に、鎌倉で寿福寺の神僧・栄祐から剣の秘伝を授かります。
18歳の時(1368年)に、九州の筑紫・安楽寺での修業において剣の奥義を感得し、「兵法三代源流」(念流、神道流、陰流)の最古の兵法流派といわれる「念流(ねんりゅう)」を創始。
各地での修行を終え、故郷に戻った念阿弥は還俗して「相馬四郎義元」と名乗り父の敵討ちを果たしましたが、喪に服すこと3年後再び仏門に入り、僧名を「慈恩」としました。その後は諸国を巡り、「念流」を伝えました。
応永15年(1403年)長野の阿智村に長福寺を建立。「念大和尚」と称しました。没年は不明。
長福寺のあった麻利支天山(現:念流山)の中腹には、江戸時代に樋口定雄(馬庭念流16世)が建てた念阿弥慈恩の石祠(せきし)が残ります。
◆念流山の「摩利支天」の石祠
長野県の念流山の山頂には、武道の護り神とされる「摩利支天の石祠」があります。
この祠は応永15年(1408)に建立され、寛政8年(1796)が再建されたことが、祠の左面の文字からうかがえます。
祠の再建にあたっては2体の御神体が作られ、1体は浪合村に、もう1体は馬庭村(群馬県多野郡吉井町)の道場の脇に立てられた、摩利支天社に納められたということです。
(案内板より)
「阿智村有形文化財 摩利支天の石祠(まりしてんのせきし)
浪合 宮の原 所在 昭和四十八年二月一日 指定
伝承によれば、念流山(ねんりゅうざん)頂には慈念和尚(じねんおしょう)が信仰した摩利支天を祀るお堂があったとされます。
今ある石祠(せきし)は寛政八年(一七九六)、念流の樋口家第十六世 樋口定雄が再建したもので、高さ70cm、間口40cm、奥行き52cm、安山岩で流れ造りの祠です。
祠には次のように刻まれています。
正面『念流元祖相馬四郎 義元入道念大和尚』
左側面『応永十五年戌子五月建 後上野国多胡郡馬庭住 樋口十郎右衛門源定雄 寛政八年丙辰九月十五日再建之』
また、右側面に定雄の門弟、裏面に祠建立に協力した「浪合左源太」以下村役人四人の氏名があります。祠の中に寛政八年(一七九六)九月に納めた御神体(木札)が安置されています。
樋口定雄は山頂の土を持ち帰り馬庭(群馬県吉井町)の道場脇に摩利支天社を建立し現在も祀つづけられています。
阿智村教育委員会」
※摩利支天(まりしてん)
『太平記』巻第五「大塔宮熊野落事」(是偏に摩利支天の冥応…)
「摩利支天(まりしてん)」は、仏教の守護神で、陽炎(かげろう)が神格化したものです。
陽炎のように目に見えなくとも、隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされます。日本では、中世に武士の間に摩利支天信仰がありました。
摩利支天像は、三面六臂で、走駆する猪に乗っているとされるものが多いです。ここから、猪が神使とされました。
日本で中世以降信仰を集めました。
楠木正成は、兜の中に摩利支天の小像を篭めていたといいます。また、毛利元就や、山本勘助、前田利家、立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられています。
日本三大摩利支天は、東京アメ横の「摩利支天徳大寺」、金沢市の「宝泉寺」、京都建仁寺塔頭(たっちゅう)の「禅居庵」です。
念阿弥慈恩は、摩利支天を信仰し、信濃の念流山(ねんりゅうざん)には、摩利支天を祀るお堂があったと伝えられています。
◆あらゆる流派の祖となった「念阿弥慈恩」
~弟子「十四哲」~
念阿弥慈恩には、坂東(関東)に8人、京都に6人の弟子がおり、彼らは「十四哲」と称されました。
その一人が、樋口家11代の樋口太郎兼重と伝えられており、慈恩から念流を習いました。
その他の「十四哲」には、「念首座流・正法念流」を伝えた慈恩の弟の赤松三首座や、「陰の流」を伝えた猿御前、「中条流(ちゅうじょうりゅう)」を伝えた中条長秀や甲斐豊前守、「二階堂流」を伝えた二階堂右馬助などがいました。
「陰の流」はその後、「陰流」・「新陰流」・「柳生新陰流」として伝承され、「中条流」は、「冨田流」として伝承され、伊藤一刀斎の「一刀流」をはじめとした多くの流派を生み出しました。
念阿弥慈恩は、剣術界の礎を作った人物であり、もし慈恩がいなければ、現在の剣術や剣道が無かったとも言われています。
◆念阿弥慈恩の弟子「樋口 兼重(ひぐち かねしげ)」
~木曽義仲”四天王”の一人・樋口 兼光の子孫~
樋口家は現当主まで25代、500年を越える歴史を持っています。
もともと樋口家は、信州伊那郡樋口村(現:長野県上伊那郡辰野町大字樋口)に住居を持っていたので「樋口」と名乗っていました。樋口家は11代の当主・樋口兼重(ひぐち かねしげ)が相馬義元の「念流」を学んでその高弟となり、それから樋口家は「念流」を家伝としていました。
※樋口兼重は、平安時代末期の源平時代に活躍した、木曽義仲(きそよしなか)の「四天王」の一人、樋口兼光の子孫です。樋口兼光は、巴御前(ともえごぜん)の兄に当たります。
《木曽義仲(きそ よしなか)の四天王》
今井兼平(いまい かねひら)・樋口兼光(ひぐち かねみつ)・・根井行親(ねのい ゆきちか)・楯親忠(たて ちかただ)
※義仲の四天王については、YouTube「木曾義仲の幼なじみ 義仲四天王の生涯 」をご覧ください。
◆中興の祖 念流八世「樋口 又七郎定次」
※「念流HP~歴史と系譜」と「馬庭念流について」(小沢丘・1971)PDF:144KB・『本庄市史 資料編』をもとに作成
後に、樋口家13代当主の樋口高重の時、上野国吾妻郡小宿村(現:群馬県吾妻郡長野原町)に移り住み、さらに明応9年(1500年)、上州多胡郡馬庭村(現:群馬県高崎市吉井町馬庭)に移転したために、この地で盛んな「新道流」を家伝とするようになりました。
樋口家17代当主・樋口 又七郎定次(ひぐち またしちろう さだつぐ)の時、父から新道流を受け継ぎましたが、家伝の念流がすっかり廃れていることに危機感を抱いた定次は、偶然知り合った念流正統七世・友松清三藤原氏宗(偽庵)に師事し、じつに20年以上の厳しい修業ののち、慶長3年(1598年)、「念流正統8世」を継承し、「中興の祖」と仰がれました。
定次の道場は評判となり、江戸時代中後期には隆盛期を迎え、門人数千を超えたといいます。
そんな定次に対し、慶長5年(1600年)、馬庭にほど近い高崎で天道流兵法指南をしていた村上権右衛門(村上天流)という人物が挑戦状を叩きつけてきます。無用な戦いを避けたい定次はその挑戦を断り続けていたのですが、村上の挑発はやまず、双方の弟子同士が一触即発の事態となってしまいました。事ここにいたっては定次も事態の収拾に動かずにはおられず、村上との宗家同士の対決で決着をつけることになりました。
この戦いは双方木刀による対決でしたが、村上はひそかに木刀から刃が飛び出る「振り出し剣」を使い、定次に切りつけてきます。しかし、その剣を見切った定次は渾身の一撃を繰り出します。とっさに木刀で受け止めようとした村上ですが、定次の一撃はその受けとめようとした木刀もろとも村上の頭蓋骨を打ち砕いてしまいました。
この戦いの前に、「山名八幡宮」に三日三夜祈願した定次は満願日に「神明の力により本望が達せらるならぱ、この木剣にて神前の大石を打ち割らせお力添えあるを示し給え」とその場にあった大石に琵琶の木剣で打ちこんだところ、見事大石は打ち割られたと言います。このときの石は「太刀割石(たちわりいし)」と呼ばれ、山名八幡宮に現存しています。
◆山名八幡宮の「太刀割石(たちわりいし)」
高崎市山名町の「山名八幡宮」には、樋口定次が琵琶の木刀で断ち割ったと言われる「太刀割石(たちわりいし)」があります。
この石は、慶長5年(1600年)、高崎藩主 井伊直政の許しを得て、馬庭念流中興の祖、樋口定次(ひぐち さだつぐ)が、高崎で天道流兵法指南をしていた村上権右衛門(村上天流)と試合をするにあたり、山名八幡宮に神助を祈り参籠し、見事大石は打ち割られたと伝わる石です。
このときの石は「太刀割石(たちわりいし)」と呼ばれ、山名八幡宮に現存しています。
◆山名八幡宮と関口文治郎の彫刻
山名八幡宮は、平安時代より続く由緒ある八幡宮です(創建840年以上)。
源氏の一族、新田氏の祖・新田義重の子、山名義範が、平安時代後期安元年中(1175〜77年)、 大分県に鎮座する八幡宮の総本宮である宇佐八幡宮より勧請して創建されました。
応仁の乱の西軍総大将の山名宗全も系譜に連なっており、全国の山名氏にとっての総氏社とのことです。
本殿の彫刻は、「上州の左甚五郎」と呼ばれた江戸時代の彫物師、関口文治郎(せきぐち ぶんじろう・1731~1807年)によって手掛けられたものです。
本殿裏には「裏神様(獅子頭様)」が鎮座。人気のカフェやパン屋さんも併設されており、とてもすてきな神社でした。
◆山名八幡宮・本殿彫刻◆
~彫刻師:上州の左甚五郎「関口 文治郎(せきぐじ ぶんじろう)」~
(山名八幡宮・裏神様)
「獅子頭」は、山名八幡宮の象徴であり、疳の虫や厄を喰い切る神獣として伝わっています。
(天然のパン屋さん・ピッコリーノ)
◆神社を中心としたまちづくり『みんなの神社と鎮守の杜づくり』
パン屋さんに、高崎市のフリーペーパー『ちいきしんぶん(2022年3月18号)』が置いてあり、「みんなの神社と鎮守の杜づくり」について紹介されていました。山名八幡宮では現在、「神社を中心としたまちづくり」が行われています。
子育ての孤立化・悩みを緩和するための親子カフェ『ミコカフェ』。身体に優しい天然酵母のパン屋『ピッコリーノ』。日本文化と英会話を両軸とするこども向け多目的教育機関『マナパル&イームズ」。未就学児の発達支援施設『山名ベース』。発達障害児を支援し、その子に合った成長を促す放課後等デイサービス『はちまん』。かわいプリンセス雛人形や提灯を製造販売する『アート香月』。おいしい漬物屋さん『宮石青果店』。美しいお団子やおはぎを販売する『予祝』。どこか懐かしいエシカルなおやつとおいしいカレーを提供する『DAICON』。自由にみんなでつくる公園など、これらすべての施設が境内や境内周辺に誘致されています。
創建840年以上の山名八幡宮(高崎市)の27代宮司、高井俊一郎さんは次のように述べられています。
「神社は信仰の場であると同時に、お祭りなど催しを行う場、集会所の役割を担う場、歴史や文化を伝える場でもあったので、神社がなくなると、地域のアイデンティティが失われてしまうと考えました。」
「2つ決めたことがありました。1つは、『100年後を見据え、地域共同体の核としてのみんなの神社と鎮守の杜をつくること』。自分が携われるのは山名八幡宮の永い歴史のほんの一瞬。その中で何をやるべきなのかと真剣に考えた末の結論でした。もう1つは、地域へ出ていくこと。人が来るのを待っているのではなく、地域の人と交流し、信頼感を築き、地域に根を下ろそうと考えたのです。」(高崎市『ちいきしんぶん(2022年3月4日号)』PDF:6.5MBより)
かつて神社の境内には「市」や「芸能」が発生し行われてきたように、「祈りの場」としての神社に、本来神社がもっていた、”地域の人びとが集い、繋がり、活動ができる場”としての役割を再生させようという試みは、とても素晴らしいと思いました。
さらに、第一線で活躍するトップクリエイターの方々によってリニューアルされたという神楽殿、授与所、待合所、神社のロゴ(社紋)、カタログ、授与品など、それらに施された丁寧なデザイン性にも感動しました。
「”神社のかつての姿”を蘇らせる」「100年後にも残るデザイン」というコンセプトから生み出された一つ一つのデザインは、シンプルでありながらも、神社の本質とつながっているような、深い味わいを感じました。
山名八幡宮は、何度も参拝して歩きたくなる、歩いていてとても楽しい神社でした。
【参考文献】
・高崎市『ちいきしんぶん(2022年3月4日号)』「山名八幡宮宮司・高井俊一郎さんに聞く 100年後を見据えた『みんなの神社と鎮守の杜づくり』」(PDF:6.5MB)
・高崎市『ちいきしんぶん(2022年3月18日号)』「山名八幡宮 みんなの神社と鎮守の杜づくり こんなメンバーで取り組んでいます」(PDF:7.6MB)
・EDIT LIFE~安産と子育ての神社、山名八幡宮がリニューアル。トップクリエイターと考えた「祈りの場」の本質~
・EDIT LIFE~安産と子育ての神社、山名八幡宮が目指す、お母さんが子育てをしやすいコミュニティづくり~
・コロカル「山名八幡宮リニューアルプロジェクト トップクリエイターが創建840年の神社を一新」
・山名八幡宮ホームページ「【メディア掲載情報】高崎パリッシュ11月号」
・京都芸術大学通信教育課程芸術教養学科WEB卒業研究展「山名八幡宮リニューアルプロジェクトについて(片岡淳氏)」
◆馬庭念流の門徒には「堀部安兵衛」も
門弟の中には、『忠臣蔵』で名高い「堀部 安兵衛(ほりべ やすべえ)」がいました。
堀部安兵衛は、寛文10年(1670年)、越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男として生まれました。母は出産後まもなくして死去し、安兵衛は祖母に育てられました。祖母が死去すると、以降は父に男手一つで育てられました。父は、新発田藩から庭の設計も頼まれるほど造園の素養があったといいます。父は安兵衛に文武の教えだけでなく、造園の素養も伝えました。
安兵衛が13歳の時に、父は城の櫓を失火させ、責任を負って浪人となっていまいます。浪人後ほどなくして父も死去しました。安兵衛はその後、母方の実家溝口盛政の元に引き取られたが、天和5年(1685年)、盛政が死去したため、姉の嫁ぎ先の中蒲原郡牛崎村(現新潟市南区庄瀬)の豪農の長井弥五左衛門の元へ引き取られ、文武に励んだといわれています。
元禄元年(1688年)に、安兵衛は、剣術修業のため、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸に出ます。
最初に門をたたいたのが、当時評判の高かった「馬庭念流」の道場でした。
安兵衛は、念流12世樋口定貫を訪ね入門を許され、江戸赤坂に道場を持つ13世樋口将定に稽古をつけてもらいました。
その後、樋口将定の勧めで、小石川牛天神下にあった堀内源左衛門の道場に入門します。
天賦の才と努力でたちまち頭角をあらわした安兵衛は、すぐに免許皆伝となって「堀内道場の四天王」と呼ばれるようになりました。
こうした中、元禄7年(1694年)、高田馬場で、菅野氏の助太刀を行い、安兵衛は一躍有名となりました。(高田馬場の決闘)。これがきっかけで安兵衛は、赤穂藩士・堀部弥兵衛の養子となりました。
元禄14年(1701年)3月14日藩主浅野長矩の死後、元禄15年(1702年)12月14日、安兵衛ら赤穂浪士四十七士は吉良邸へ討ち入りを決行。赤穂浪士は吉良上野介を討ち取って本懐を遂げました(赤穂事件)。
討ち入り後、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、2月4日、安兵衛もその生涯を閉じました。法名は刀雲輝剣信士。 享年34歳。四十七士の亡骸は、主君が眠る「泉岳寺」に葬られています。
※旧下田邸の作庭は堀部安兵衛によるもの
高崎市箕郷支所に隣接する『旧下田邸の書院と庭園』は、箕輪城主長野(ながの)氏の重臣であった下田大膳正勝(しもだ だいぜんまさかつ)の子孫が、代官として居を構えた屋敷跡です。 下田家は、天和3年(1683年)、安房・勝山藩の陣屋が白川村に置かれると同時に代官に任命され、以降、明治維新まで代々その役職をつとめました。(※余談ながら、下田氏の子孫の方は戸谷家と親戚にあたります。)
庭園は、堀部安兵衛が造ったと言われる池泉回遊式庭園です。
安兵衛は、馬庭念流13世・師匠の樋口将定に伴い、年に1~2度この箕輪や下田邸に滞在することがあったそうで、その際にこの城郭式庭園を作庭。『青翠園(せいすいえん)』と名付けられ、文人墨客からも好まれたとのことです。
旧下田邸の書院と庭園は、群馬県の重要文化財に指定されています。
◆土と身体に根差した「念流」を受け継ぐ聖地
~樋口家が念流の伝統を馬庭の地において400年以上継承し続けていらっしゃいます~
今現在も高崎市にある馬庭念流の道場においては、稽古が続けられています。
5月15日(日) に道場の見学におうかがいしたら、気合の入った迫力ある掛け声が聞こえてきて感動しました。
※コロナ禍のため、遠くから見学させていただきました。
武田家・上杉家・北条家の大大名に囲まれた場所である上州・武蔵の国境地帯。本庄宿を開拓した商人たちは、その国境地帯を苦労しながら開墾したと伝わっています。その開拓する時の源には、自主独立の精神がありました。本庄宿をつくった仲間たちは、先祖の記憶や、土地の記憶を大事にしながら、大大名に取り込まれないでやっていこうという気概を持って文化活動や商業活動を行っていました。
一方、馬庭念流の方たちは、歴史的な経緯のことを調べれば調べるほど、上武国境地帯に特有の歴史の記憶を忘れず自分たちの剣術の道を究めていったように私には感じられました。
馬庭念流は「土」の剣術でありながら、どの流派よりも勝負に強いです。
じっさい坂口安吾は、馬庭念流のことを”痛快な”剣術だ述べています。この上武国境地帯である馬庭の場所に、以上のような歴史を持った剣術が今なお同じ場所で伝えられていることは本当に奇跡的でうれしいことです。