~坂口安吾が”源氏の豪傑の剣法”だと評価していた「馬庭念流(まにわねんりゅう)」。埼玉県における武術が企画展で取り上げられ様々な流派のことが学べました。~
◆坂口安吾『安吾武者修業 馬庭念流訪問記』
「剣の諸流派の中で、馬庭念流だけが一ツ別格に扱われている。馬庭という片田舎の小村に代々その土地の農民によって伝えられてきた風変りな剣術がある。その村では村民全部が剣術を使う。むろん村民は百姓でふだんは野良を耕していることに変りはないが、かたわら生れ落ちると剣を握って念流を習っているから、それぞれ使い手なのである。」
「万人がそのふるさとの山河に寄せる愛情のようなものが常にこの流派にからんで感じられるような気がするのである。」
「村の農民によってまもられ伝えられてきた剣法。日本の講談の中で異彩を放っているばかりでなく、牧歌的な詩趣あふれ、殺伐な豪傑の中でユーモラスな存在ですらある。」
「これぐらい実用向きの怖ろしい剣法はないということが段々とわかってくるのである。彼らはいつも四五間の間をとって構えている。突然とびだして一撃で勝負を決しようというのだ。真剣勝負専門の構えなのだ。」
「突然とびだすに一番調法な構えである。両足を前後いっぱいに開いて膝をまげたこの構えは、疾走するランニング選手の疾走しつつある瞬間写真によく似ている。」
「馬庭念流を百姓剣法と云うのは、半分は当っているが、半分は当らない。むしろ源氏の剣法だ。」
「畑に同化するように、剣にも同化し、それを実用の武技としてでなく天命的な生活として同化しきった安らぎがある。」
「馬庭の剣客は剣を握って立つとき以外は、温和でただ天命に服している百姓以外の何者でもない。まったく夢の村である。現代に存することが奇蹟的な村だ。この村の伝統の絶えざらんことを心から祈らずにいられない。」(坂口安吾『安吾武者修行 馬庭念流訪問記』より)
◆「兵法三大源流」と流派の変遷
~神道流(しんとうりゅう)・念流(ねんりゅう)・陰流(かげりゅう)~
【参考文献】
・『博物館ブックレット第七集 埼玉武術英名録』(埼玉県立歴史と民俗の博物館・2022年)
・『完全保存版 剣豪の流派』(宝島社・2014年)
・『日本の剣術 (歴史群像シリーズ)』(学研プラス・2005年)
◆企画展『埼玉武術英名録』パンフレット
県立歴史と民俗の博物館 企画展『埼玉武術英名録』
【期間】2022年3月19日(土)~5月8日(日)
【会場】埼玉県立歴史と民俗の博物館 特別展示室
【住所】埼玉県さいたま市大宮区高鼻町4-219
【時間】9時~16時30分(受付は16時まで)
「埼玉県立歴史と民俗の博物館」は、1971年10月に竣工した、旧埼玉県立博物館の建物です。
建築家・故前川國男氏による設計で、日本芸術院賞、毎日芸術賞など数々の賞を受賞し、公共建築百選にも選定されています。
※詳細は、「前川建築のすすめ(PDF23MB)」(埼玉県立歴史と民俗の博物館編)をご覧ください。
◆企画展『埼玉武術英名録』~主な展示資料
◆企画展『埼玉武術英名録』ブックレット
◆本庄付近の剣術流派「分布図」
~万延年間(1860年)頃~
本庄宿や周辺の村々では、江戸時代初期に沼和田村の浦辺(卜部)外右衛門が剣術の奥山念流(おくのやまねんりゅう)を伝え、旧賀美・児玉郡に伝承されていきました。
江戸時代後期になると、農民の間に武術を稽古することが広まりました。
寛政年間には本庄宿の小林庄松が剣術の真之真石川流(しんのしんいしかわりゅう)を伝え、本庄宿を中心に児玉郡の村々に広まりました。
「幕末になると武術熱はますます高まり、沼和田村の須賀民右衛門が馬庭念流(まにわねんりゅう)を、本庄宿の小野金五郎が北辰一刀流を、栗崎の高橋三五郎が甲源一刀流を、宮戸の金井宇一郎が神道無念流を伝えている。剣術のほか、柔術や弓術なども稽古されている。」(『本庄市史 通史編2』P883-884より)
(参考)本庄の武術
~江戸時代から明治時代にかけて、本庄市における諸流派の師範~
江戸時代の中頃になると、本庄付近にも農民の間に武術が急速に普及されてきました。
◆奥山念流(おくのやまねんりゅう)
「奥山念流(おくのやまねんりゅう)」は、江戸時代初期から明治・大正・昭和にかけて、児玉郡上里町を中心とする旧賀美郡(現在の児玉郡上里町全域及び神川町・本庄市の一部)において、さかんにおこなわれた剣術及び柔術(現在の剣道と柔道)の流派です。※同じ念流である「馬庭念流(まにわねんりゅう)」とは別系統であると言われています。
流祖は奥山念僧で、永禄3年(1560年)2月、天狗から念流の奥義を会得して一派を起こしたと伝えられています。
その後、慶長年間に沼和田村(現本庄市)の浦辺(卜部)家に伝承され、その後、元禄の頃、根岸甚右衛門によって、矢沼九郎左衛門(上里町勅使河原)と大畠武兵衛昌栄(神川町)に伝えられ、大畠武兵衛から坂本義右衛門(上里町三町)に伝承されたことにより、上里町(三町・藤木戸・大御堂・三軒)で奥山念流が盛んになりました。
一六代の青木常八郎光澄の時、剣術と柔術とに分けられて伝承されるようになりました。剣術は松本武兵衛峯救と関口徳治光房に、柔術は子の青木音吉郎光長に継承されました。
松本峯救とその子峯秀に師事した橋爪国五郎(1826-1910)は、師峯秀の天逝に伴って奥山念流の跡目を預り、上里町七本木村の自邸敷地内に「奥明館道場」を建てました。
◆真之真石川流(しんのしんいしかわりゅう)
流祖 石川蔵人源政は、柳生宗矩の門人となり柳生派真々流(新陰流)を学び、自氏の二字を加えて改名し、諸国修行の末、開いたものと伝えられています。流祖の姓が源氏であった事から、歴代継承者の武号も「源」となっています。
安永から天明(1778年~1783年頃)にかけて真之真石川流を本庄付近に伝えたのは本庄宿の小林庄松(こばやししょうまつ)です。庄松は二木屋という屋号で旗本駒井氏の米御用商人でした。本庄宿と小島村との境付近(別伝承では本庄・新田町の金鑚神社周辺)に道場を開き、門弟の指導に当たりました。(『本庄宿町並絵図』には開善寺入口より東3件目に「間口6間・奥行9間半 百姓庄松」とあります。)弟子には本庄宿や近在の村々、上州や越後・常陸国などからも入門しています。最盛期の門人数は、数千人規模であったと伝えられています。
その後、幕末から明治時代にかけて児玉郡地方に普及されました。
児玉郡上里町七本木村の木村政右衛門が五代を襲名した後は、児玉郡上里町嘉美の黒沢家(六代~九代)と、本庄市東富田の四方田(よもだ)家(六代~八代)によって受け継がれています。
【流祖】
石川蔵人政春(源政春)
:清和天皇の後裔八幡太郎源義家三代孫石川義基(武蔵守)の二十三代石川信濃守の三男。
【2代】
井上齋宮(源光政):水戸藩士
【3代】
朝倉久馬(源恭良):小幡藩士
【4代】
小林庄松(源天宴):本庄宿(祖が本庄藩士)
【5代】
木村政右衛門(源濔豊):七本木村
【6代】
黒沢政八(源雅智):嘉美村の武士・真勇館を建てる
【7代】
黒沢熊次郎(源政一)
【8代】
黒沢政衛(源孝清)
【9代】
黒沢金作(源孝正)
【10代】
横田喜市
《四方田氏側の伝承者》
四方田氏は東富田村(現本庄市東富田)の代官です。6代から8代まで(計3代)受け継がれています。
【5代】
木村政右衛門(源濔豊):七本木村
【6代】
四方田幸作(藤原義次)
【7代】
四方田七郎(藤原弘継):文武二道で和歌を好み、両道の門人千人におよぶ
【8代】
四方田茂作(藤原義正):明治16年に継承
◆「陽雲寺(よううんじ)」(児玉郡上里町)
~武田家由来のお寺~
「陽雲寺(よううんじ)」は、正式には「崇栄山陽雲寺(すうえいさん よううんじ)」という漕洞宗のお寺です。
武田信玄・陽雲院夫妻画像のほか、新田義貞家臣の畑時能公の供養祠、銅鐘など多くの文化財があります。
※さきたま文庫『陽雲寺』(文・写真 小野英彦)より
■「陽雲寺」と”境目の城”金窪城(かなくぼじょう)
~金窪城の代々の城主が「陽雲寺」を庇護~
金窪城は、武蔵の最北端にあり上野国との”境目の城”として重要な拠点となっていました。
この金窪城の代々の城主が「陽雲寺」を庇護してきました。
【金窪城の歴史】
・治承年間(1177~1181年):武蔵七党の丹党・加治家季が築城。
・元弘年間(1331~1334年):新田義貞の四天王の一人、畑時能(はた ときよし)が居城。
・長録元年(1457年):上杉氏の武将、大畠昌廣が居城。
・大永の頃(1521~1527年):妻沼の斎藤実盛の子孫、斎藤盛光が居城。
・天正10年(1582年):神流川合戦で織田信長の家臣、滝川一益に攻められ落城。
・天正18年(1590年):徳川家康が関東へ入国すると、武田信玄の甥である川窪信俊(かわくぼ のぶとし)が、この地に陣屋を置く。
・元禄11年(1698年):川窪信俊の孫である武田信貞が丹波国に転封。金窪城は廃城となる。
【陽雲寺の歴史】
・元久2年(1205年)の創建と伝えられ、はじめ「満願寺」と称されていた。
・元弘3年(1333年):新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して「不動堂」を造立。
・天文9年(1540年):斎藤盛光の孫・斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を「崇栄寺」と改名。
・天正10年(1582年):神流川合戦の兵火で焼失。
・天正19年(1591年):徳川家康が関東へ入国すると、金窪の領主となった川窪信俊は、養育してくれた伯母の武田信玄夫人を招いて、境内に住まわせる。
・元和4年(1618年):信玄夫人は97歳で没する。信俊は、夫人の菩提を弔うため寺名を「崇栄山 陽雲寺(すうえいさん よううんじ)」に改称。
・元禄11年(1698年):川窪氏の丹波への転封後は、陽雲寺は衰退する。
・安政3年(1856年):寺の衰えを憂いた武田信敬は、養子の武田正樹を住職として入山させる。
・文久2年(1862年):武田正樹が24歳で陽雲寺の住職となり、陽雲寺再興に尽力。(以降、武田信玄子孫の武田氏が代々ご住職を務める。)
◆歴代の金窪城主によって崇拝された陽雲寺の「鞍馬太郎坊大神」
「太郎坊様」の右にある「鞍馬太郎坊大神の石碑」には、「太郎坊様」の由来が記されています。
※書は元埼玉県知事・畑和(はた やわら)氏によるものです。畑和氏は、新田義貞の家臣で金窪城主であった畑時能(はた ときよし)の御子孫に当たるそうです。
「太郎坊様」は、鞍馬太郎坊より授かったものであるという火盗除けの神様です。寛正2年に勧請され、歴代の金窪城主が崇拝したといいます。火防の守りである、鉄製の「神印」が伝わっています。
明治12年、太郎坊主催の上武剣道奉額大会が行われました。この大会が「剣聖・高野佐三郎」の出世道場となりました。昭和23年2月13日、疎開者の失火のため社殿が全焼。現在の「太郎坊様」の社殿は、隣にあった額堂を改装したものです。
太郎坊様の中には、元東京美術院理事審査委員の羽石光志(はねいし こうじ)画伯によって奉納された御神体像があります。
◆「剣聖」高野佐三郎(たかの ささぶろう)の出世道場「陽雲寺」
~「陽雲寺」(児玉郡上里町)で行われた武道大会での大敗北が、後に「剣聖」高野佐三郎を生み出すきっかけとなりました~
明治12年(1879年)、当時18歳の高野佐三郎(たかの ささぶろう)は、埼玉県児玉郡賀美村(現:児玉郡上里町)の「陽雲寺(よううんじ)」境内で開かれた『上武合体剣術大会』に出場。
もともとは、佐三郎の祖父・中西派一刀流の高野佐吉郎(75歳)と、元安中藩・撃剣取締役助教授であった岡田定五郎(30歳)が試合をすることになっていましたが、佐吉郎は病気のため、代わりに、孫の佐三郎が18歳の若さで立ち会うことになりました。
佐三郎は故郷の秩父では「秩父の小天狗」の異名をとっていました。一方、相手の岡田定五郎は上州の安中では「鬼岡田」と恐れられていました。この両剣士が遂に立ち会ったのです。
結果は、高野は片手上段に構えたため、若輩に上段をとられた岡田は怒り、何度も強烈な突きを放ちました。喉を破られ袴まで血に染めた佐三郎は昏倒(こんとう)してしまいました。
この後、佐三郎は奮起し江戸へ出て、山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)の道場「春風館」で鍛え、その後岡田を訪ね試合を申し込んだが、岡田は丁重に詫び、試合を断ったといいます。
後に、高野佐三郎は、昭和初期の剣道界において中山博道(なかむら はくどう)と並ぶ最高権威者となり、『昭和の剣聖』と称されました。
埼玉県には江戸から明治にかけて、馬庭念流(まにわねんりゅう)や、甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)、神道無念流(しんとうむねんりゅう)、柳剛流(りゅうこうりゅう)など、数多くの武術の流派が存在し、現在も武術の貴重な伝統が受け継がれていることを学ばせていただきました。
自らも神道無念流を修めた渋沢栄一翁は、講道館柔道を創始した嘉納治五郎(かのう じごろう)氏や、「剣聖(けんせい)」と呼ばれた秩父出身の剣道家の高野佐三郎(たかの ささぶろう)氏とも親交が深く、修道学院設立時に高野氏への支援をしたり、講道館や明信館本館(秩父市)の役員を務めるなど、武道の振興にも貢献されていたことを知り大変勉強になりました。
「陽雲寺」(上里町)での大会が、その後の高野氏の人生にとって、とてつもなく大きな意味を持っていたこと、その貴重な場所が本庄のすぐ側にあったということを、今回の企画展をきっかけにして気づくことができました。
また、本庄と上里町とのゆかりが強い、奥山念流(おくのやまねんりゅう)、真之真石川流(しんのしんいしかわりゅう)といった流派は、なぜ特定の比較的狭い地域でのみに発展したのかについて、この土地ならではの特性をふまえながらこれから学んでいけたらと思いました。