~「台町の山車」と「本町の山車」~
はにぽんプラザ(本庄市市民活動交流センター)の展示ホールにて、本庄まつりの山車2台(台町と本町の山車)が展示されていました。(※追記:2/6はにぽんプラザでの山車の展示は終了しました。)
「本庄まつり」では、各町内(宮本町・泉町・上町・照若町・七軒町・仲町・本町・南本町・台町・諏訪町)の山車10台が金鑚神社前に勢揃いし、中山道を巡行します。
※本庄まつりの山車については「本庄市観光協会HP」をご覧ください。
令和2年(2020年)に引き続き令和3年(2021年)も、新型コロナウィルス感染症対策のため、本庄まつりは中止となってしまいました。はにぽんプラザでの山車の展示は、約2年ぶりとなるとのことです。
お祭りの時でも、ここまで山車を間近で拝見することができないので、見上げるばかりの山車の大きさとその存在感に圧倒されました。
※正面から向かって、左側が「台町の山車」、右側が「本町の山車」。
◆【本庄まつり】台町(だいまち)の山車
~人形「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」~
【台町の山車】
■人形:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
■製作者:浪花屋・庄田七郎兵衛
■製作年:明治十八年
■山車の高さ:538センチメートル
■山車の幅:210センチメートル
■囃子:「大間」「神田丸」「屋台囃子」「ヒョットコ囃子」「貴船」
台町の山車は、当初宮本町の山車と同じように車軸が車台に固定され、主体部(囃子台・二重)がぐるぐると回転するようになっていた。この装置を固定したのは、昭和二十五年頃に前車軸を動くように改良した時である。
昭和十年頃に唐破風(からはふ)と腰板を本町から譲り受け、改造修理を行った。大工は清水林平氏、塗り物は野村源光氏が請け負った。二重幕の刺繍もこの時、福島梅吉氏が請け負ったと伝えられる。
山車に掲げる木札の表側には「明治十八年十二月 東京浅草 浪花屋七郎兵衛」、裏側には「東宝斎壽山(とうほうさいすざん)作」と書かれている。
最近、児玉町仲町の古文書からわかった事であるが、この山車は「浪花屋・庄田七郎兵衛」が請負者として製作し、人形は「東宝斎壽山(とうほうさいすざん)」が製作を担当した合作と考えられる。なお、「浪花屋・庄田七郎兵衛」は照若町・本町の山車を作った人でもある。
人形は、日本神話の「素盞鳴尊の八俣大蛇退治(やまたのおろちたいじ)」に題材を求めた。三重幕には、八俣の大蛇が刺繍され、二重幕には大蛇に飲ませる酒槽(さかぶね)八個配置されている。ちなみに、町内の八坂神社の祭神も素盞鳴尊である。
「䑓街(だいまち)」と書かれた額は、渋沢栄一翁の師である「尾高藍香(おだからんこう)」が揮毫した。下手計村(現深谷市)の人で、幕末から明治にかけ水戸学に傾倒し、後に彰義隊(しょうぎたい)に入り、振武軍(しんぶぐん)を創設したり波乱な人生を送った。明治になり、民部省に召され富岡製糸場の初代場長となった。
「屋台囃子」は年輩の人が「さんてこ」と呼んでいるように、地が「さんてこ」で、「変わり目」が「屋台囃子」となっている。
なお、現在の山車は、平成十一年、有限会社社寺建築戸部・斎藤漆工芸・土屋金属工によって修復された。
(「台町の山車」展示パネルより)
■台町の人形「素盞嗚尊 (すさのおのみこと)」
◆【本庄まつり】本町(もとまち)の山車
~人形「石橋(しゃっきょう)」~
本町の山車の胴幕類は、日本の能装束研究分野での大功労者である山口憲(やまぐち あきら)先生によって製作されたものです。ビニールの雨除けのない状態で、直に胴幕類を拝見して、その色合いの美しさに目を奪われました。
【本町の山車】
■人形:石橋(しゃっきょう)
■製作者:浪花屋・庄田七郎兵衛
■製作年:明治二十八年
■山車の高さ:581センチメートル
■山車の幅:219センチメートル
■破風の幅:294センチメートル
■囃子:「大間」「篭丸」「屋台囃子」「数え唄」「ヒョットコ囃子」「通り囃子」
まず最上部をご覧下さい。金糸・銀糸をふんだんに織り込んだ眩いほどの装束に身を包み、獅子口(ししくち)の面と、白く長い赭熊(しゃぐま)をつけた能役者の勇壮な舞い姿を。
目を下に移すと正面が牡丹唐草(ぼたんからくさ)の五色の揚幕(あげまく)、左右が桧垣地に牡丹(ひがきじにぼたん)、見送り幕が狩野永徳筆の獅子図が刺繍で表現されています。
そして、囃子座(はやしざ)の上には丸龍(まるりゅう)に雲気文様(うんきもんよう)の水引幕(みずひきまく)を、下には稲妻地に釘抜文様(くぎぬきもんよう)の腰幕(こしまく)を、周り三方には五色の幕(ごしきのまく)に聖獣神鳥文様(せいじゅうしんちょうもんよう)の胴幕(どうまく)を配すことによって山車全体が守られており、囃子座(はやしざ)の奏者が背にする老松(おいまつ)は能舞台の鏡板(かがみいた)を現しております。
そうです、本町の山車は、寂昭法師(じゃくしょうほうし)が唐(から)・天竺(てんじく)の霊地を巡り清涼山(せいりょうざん)に至り、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が住む浄土へ渡る石の橋の前に、菩薩(ぼさつ)の霊獣(れいじゅう)の獅子が現れ、咲き匂う紅白の牡丹(ぼたん)に戯れて豪壮に舞い遊ぶ様を演ずる、「能」の祝言物「石橋(しゃっきょう)」を山車全体で表現しているのてす。
なお、山車人形から面や赭熊(しゃぐま)をはずせば身長は約七尺、足袋は十二文半で端正な顔立ちの能役者となります。また、人形の腕は人形の昇降に連動して下ろしたり横へ大きく聞いたりするカラクリ仕立てとなっております。
【過去の主な新調・改修・修復】
●「関羽(かんう)」:明治二十四年の存在事実有、詳細資料無し
●「翁(おきな)」: 明治二十八年製作、大正十四年人形手足修理
●「石橋(しゃっきょう)」:
昭和九年…二重・三重勾欄と、三味線胴を残し他は全て新調、車輪を前輪馬車式に変更
平成十年…本体木部の修復
平成十六年…人形の修復と装束の新調(製作者:山口能装束研究所・山口憲)
平成十九年…胴幕、水引幕、腰幕の新調(製作者:山口能装束研究所 ・山口憲)
(「本町の山車」展示パネルより)
台町の山車の「䑓街(だいまち)」の額は、渋沢栄一翁の師である尾高惇忠によって揮毫されたものであることや、本町の山車は、それ自体、「能」の祝言物「石橋(しゃっきょう)」を山車全体で表現していることがとても興味深かったです。
今回、台町と本町の山車を拝見して、明治時代から大切に受け継がれてきた本庄の歴史文化の重みを感じさせていただきありがたかったです。