~渋沢栄一翁の藍玉と、上段の間、上州藤岡諏訪神社の宮神輿のシンポジウムでのエピソードなどいろんなお話を聞かせていただきました~
◆神川町渡瀬の「神流川水辺公園のこいのぼり」
◆交通の要衝としての「渡戸(わたど)の渡し」
~「渡戸の渡し(神川町渡瀬)」は、秩父や群馬県藤岡、また群馬・長野県境の内山峠などをつなぐ重要な渡し場だった~
「神流川水辺公園」の上流には現在、「渡戸橋(わたどばし)」(昭和11年竣工)が架かっています。それ以前には「渡戸(わたど)の渡し」という板橋がありました。
■「渡戸の渡し」碑より
「川を渡る所を「わたるせ」「わたらせ」そして「わたせ」「わたど」などといい、ここは、渡瀬の渡戸といいますが、対岸の鬼石町の小字名も渡戸といいます。
この渡しは、秩父や長野県との人馬の交流や荷物を運ぶのに大切な渡しで、明治時代には、秩父の「まゆ」を群馬県富岡の製糸工場に運ぶのに使われました。
渡瀬から南へ行くと神流川を渡って鬼石町を通り抜け、また神流川を渡って神泉村の下阿久原から、杉の峠を超えて秩父へ行く「藤岡町道」があります。
また北へ行くと、新宿(神川町新宿)から川に沿って北へしばらく行き、神流川を渡って群馬県保美村の城戸という所(現在藤岡市)へ出て、右へ行くと藤岡から高崎や前橋へ行き「鬼石町道」といいました。左へ行くと鎌倉街道(今は国道254号線)に出て、吉井から下仁田を通り内山峠を越えて長野県へ行きます。
この渡瀬を中心にした道が昔の「秩父-前橋」街道です。今では道すじが変わり、群馬県側の道が主要地方道「前橋・長瀞線」となっています。
大水が出て川が渡れない時は、川ぞいの山道を通りました。いま、渡戸橋から山際にある道は、そのバイパス (秩父片瀬道)を改善したものです。
このように、渡瀬は街道を整えてつくられた宿場町で人足や伝馬も置いてあって、ここは大変重要な「渡し場」でした。
渡瀬と鬼石が一年交替で橋番をしましたが、往来するのが人馬ですから、昔の板橋は簡単なものでした。
大水が予想されると橋板をはずしました。
川の水がへってくると渡し船が出ました。人間用と馬用の二隻があって、水の深さが3尺(約1m)では人間用の船だけで、馬用は危険なので2尺(60cm)の深さまで水がへらないと出しませんでした。
明治27(1894)年8月の渡船科金
人1人(3尺水→1銭5厘/2尺水→1銭/1尺水→6厘)
牛、馬1頭(2尺水→1銭/1尺水→6厘)
荷駄(2尺水→1銭/1尺水→6厘)
交通が発達してからは、トラックも乗合バスも通れる板橋に改善されましたが、上流にある渡戸橋が昭和11年に完成したので、廃止されました。明治時代には秩父の繭(まゆ)を群馬県富岡の製糸工場に運ぶのに使われました。」
◆浅田 進氏とのお話から
父の代からお世話になっている浅田進氏が戸谷八商店に来てくださいました。
浅田氏は、神川町渡瀬(かみかわまち わたるせ)の元郵便局長で、渡瀬のまちの歴史に非常に通じておられる方です。
今回、渋沢栄一翁とのつながりや、絹文化等について貴重なお話を聞かせていただきました。
※浅田氏はかんな情報教育研究会の会長を務めていらっしゃいます。
かんな情報教育研究会のホームページ『塙保己一資料室』につきましては、こちらをご覧ください。
◆藍玉を売りにきていた渋沢栄一翁
浅田氏から渋沢栄一翁とのかかわりについてお聞きしました。
栄一翁は、明治時代、浅田邸に藍玉を売りに来ていたとのことです。
栄一翁は、藍玉を信州まで売りに行っていました。身近な方のお家にも栄一翁が寄られていたことがとても驚きました。
浅田邸には、現在もその時に使っていた藍甕(あいがめ)を記した図面があるとのことです。
◆「時宗(じしゅう)」の高貴な方を迎えた上段の間
また、江戸時代には、「清浄光寺(しょうじょうこうじ・神奈川県藤沢市)」から、「時宗(じしゅう)」の高貴なお方が立ち寄られ、浅田邸には、その方をもてなすための「上段の間(じょうだんのま)」が今も残っているとのことです。
その方は、上段の間で袈裟に着替えて「鬼石(おにし)」の方に向かわれていたそうです。
鬼石町(おにしまち)は、埼玉県秩父地方などに密接な関係のある地域で、薪炭や和紙、蚕の繭などの市場で発展してきました。三波川(さんばがわ)や神流川(かんながわ)から採取される三波石(さんばせき)は、庭石として珍重され、伊勢神宮内宮前にある階段に用いられています。
江戸時代、関東一円から多くの人々が「大山詣り(おおやままいり)」をし、本庄にも「大山講(おおやまこう)」がつくられました。
大山(神奈川県伊勢原市)は、「阿夫利山(あふりやま)」「雨降山(あめふりやま)」とも呼ばれ、古くから信仰の名山として栄えてきました。当時は今とは異なり、一人で遠出をするのは大変難しいことでした。そこで近所同士、あるいは職業同士で「大山講」と呼ばれる組織をつくり、それぞれの「講」による大山詣りが盛んにおこなわれていました。(※「大山講」についてはこちらへ)
本庄宿の大山講では、本庄から神奈川県への参詣でした。一方、神川町では、その逆の流れもあったのだと思い、交流によるまちのにぎわいや文化の豊かさを感じました。
■鬼石町にある時宗のお寺「満福寺」
◆渡瀬村を開拓した人たち
浅田氏は、渡瀬村は、永享年間(1429~1441)に信州諏訪から移住した「須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人等」の草分け旧家によって開拓されたことをお聞きしました。
上記の「原大学」の子孫は、文久2年(1862年)に横浜で生糸売込商「亀屋(原商店)」を開き、横浜でも1、2位を争う商人に成長して、横浜の経済界のリーダー的な存在となった「原善三郎(1827~1899)」です。善三郎の生家の裏手には、横浜の「三渓園」と同じ庭師によって造られたという「天神山庭園」があり、毎年4月に一般公開されています。
今から450年以上前に群馬県の世良田から移住し、本庄宿を開拓した、戸谷・関根・内田・森田・丸橋・諸井・田村・江原・小暮・今井・織茂・五十嵐・真塩等「花の木18軒」のような人たちが、渡瀬村ではそれよりかなり以前に活躍していたことを知って、とても親しみを感じました。
※参照
須藤家系図に「永享十二年(1440)須藤伊与守が信州諏訪より移住し、渡瀬村を開白す」と書かれ、
武蔵国児玉郡誌に「渡瀬村の木宮神社は、永享年間(1429~1441)に須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人、等の協力によって興隆す」とあります。
◆上武で最大となった藤岡の絹市
~江戸時代、藤岡は月に12回も絹市が立ち、天明元年(1781年)には藤岡における生絹の取引量は上州・武州で最大となった~
さらに、浅田氏は、絹文化の話の中で、江戸時代、藤岡市は、関東屈指の絹市だったことを話してくださいました。
江戸時代、藤岡の絹市は、笛木町(現在の本通り)と動堂町(現在の中央通り)の2つの通りで行われました。
「江戸時代の藤岡は絹市で大変にぎわいました。藤岡で絹市が行われるようになったのは、西上州や上武(児玉・比企・秩父など)の絹の産地を周辺に抱えていたこと、それら産地を結ぶ下仁田道、十国街道などと中山道、利根川水運を結ぶ交通の要であったこと、江戸に比較的近く、絹商人の西上州への買い付け拠点となり絹が集積されたこと、幕府の直轄領で早くから町の区画が整備されて商地に向いていたことなどによるといわれています。」
明治になると、高山長五郎は、通風と温度管理を調和させた「清温育(せいおんいく)」という蚕の飼育法を確立しました。翌年の明治17年(1883)、「養蚕教育機関高山社」が設立され、その技術を全国及び海外に広め、清温育は全国標準の養蚕法となりました。
平成26年(2014年)「高山社跡」は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の4つの遺産の一つとして、世界文化遺産に登録されました。
■「笛木町」と「動堂町」で行われた藤岡の絹市
■関東生絹仕入れの中心地 藤岡
「地理的には藤岡は中山道の脇往還にあたり、富岡・下仁田方面、渡瀬・鬼石・秩父方面、児玉八幡山・寄居方面、高崎・前橋・安中方面と、生絹生産地帯の各方面に通じる要地であった。ほぼ生絹生産地帯の中心点に位置していたのである。」※『関東生絹の流通構造』林玲子著・1963年(PDF1.95MB)より
◆三井越後屋によって奉納された2基の藤岡諏訪神社「宮神輿」
藤岡の諏訪神社には、平成24年(2012年)にぐんま絹遺産に登録された「諏訪神社宮神輿(すわじんじゃ みやみこし)」があります。
この神輿は、安永9年(1780年)12月、藤岡の「笛木町通り」(現在の藤岡市藤岡本通り)に出店し、大商いのあった江戸の豪商「三井越後屋」(現在の三越伊勢丹HD)の三井八郎右衛門より奉納された、男女2柱の宮神輿です。
この神輿の製作者は、江戸人形町通り長谷川町の大佛師、安岡良連・安岡忠五郎です。
男女2基の宮神輿は、それぞれ「諏訪様」(秋神輿で男神輿)と「八坂様」(夏神輿で女神輿)といいます。
・諏訪様:堂の三方龍で力強さや豪快さを表現(諏訪神社の社紋)
・八坂様:鳳凰や龍虎、朱雀などを彫って華やかさを表現(八坂神社の社紋)
平成25年(2013年)5月11日には、東京の「神田祭」に参加し、日本橋三越から三井本館、室町一丁目町内、日本橋を5時間かけて巡行し「233年ぶりの日本橋への里帰り」を果たしました。
平成27年(2015年)には諏訪様、平成28年(2016年)には八坂様の「平成の大修理」が行われ、奉納された当初の輝きを取り戻しました。
平成30年(2018年)には、諏訪神社宮神輿2基が、藤岡市指定重要文化財に指定されました。
現在は、諏訪神社並びに諏訪神社神輿保存会により江戸三大祭の一つである2年に1度、5月に行われる「神幸祭」への参加や、8月の「藤岡まつり」にて、その輝かしい姿を表しています。
参照:
◆平成24年ぐんま絹遺産登録記念シンポジウムでのこと
平成24年(2012年)11月25日、宮神輿2基が「ぐんま絹遺産」に登録されたことを記念して、『近世・近代絹の道IN藤岡シンポジウム』(With 中央区名橋「日本橋」保存会)が藤岡市の諏訪神社にて開催されました。
その際のエピソードとして、浅田氏が偶然そのシンポジウムに行かれたとき、元三越社長の中村胤夫(なかむら たねお)氏がシンポジウムの主催者の一人として出席されていたとのことです。
浅田氏と中村胤夫氏は、慶応義塾大学の同級生です。現在、中村胤夫氏は「名橋『日本橋』保存会」の会長を務められて、日本橋の保存と管理、川の浄化や水辺を生かしたまちづくりに向けてご尽力されています。
浅田氏はその時のことを、とてもうれしそうに話してくださいました。
浅田さん、渋沢栄一翁とのかかわりや、絹文化についての貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました!!今後ともよろしくお願いいたします。