2021年7月30日(金) NPO法人『川越きもの散歩』代表理事の藤井 美登利(ふじい みどり)先生が戸谷八商店に来てくださいました。
藤井先生は、2021年4月より、埼玉県北部地域振興センター本庄事務所サイトにて、「NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を伝える県境の魅力めぐり」というテーマで連載をされています。今回、その取材のため、戸谷八商店をご訪問くださいました。
◆『NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を伝える県境の魅力めぐり』バックナンバー
農村ミュージアム「かねもとぐら」(本庄市児玉)
~「論語と算盤」がバイブル 高窓の里に生きる渋沢の精神と世界遺産とのつながり~
世界遺産「富岡製糸場と絹関連遺産」「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)
140年前に島村からイタリアへ! ~渋沢栄一の養蚕人脈をたどる~
旧渋沢邸「中の家」渋沢栄一生誕の地
深谷市指定文化財・埼玉県指定旧跡(深谷市)
渋沢栄一論語の師・尾高惇忠家と桃井可堂郷土資料館(深谷市)
渋沢栄一の養蚕人脈 飯島曽野(その)
~宮中御養蚕へご奉仕した埼玉県の女性~(深谷市)
繭で栄えたまち・本庄を歩く①
創業460年「戸谷八商店」15代目に聞く~戸谷八郎左衛門と渋沢栄一~(本庄市)
繭で栄えたまち・本庄を歩く②
渋沢栄一ゆかりの旧家諸井家と明治の郵便(本庄市)
■【その8】(New!)
繭で栄えたまち・本庄を歩く③
旧本庄商業銀行煉瓦倉庫~ローヤル洋菓子店の記憶~(本庄市)
当日は、本庄市役所の文化財保護課2名の方と、埼玉県北部地域振興センター本庄事務所の方も来てくださいました。ありがとうございます!!
◆戸谷家にある渋沢栄一翁の書
”春水満四澤(しゅんすいしたくにみち) ー”陶淵明の詩「四時歌」の起句ー
※写真は藤井美登利先生より送っていただいたものを掲載させていただきました。
戸谷八商店には、渋沢栄一翁からいただいた書があります。
書には、「春水満四澤(しゅんすいしたくにみち)」と書かれています。
この句は、陶淵明の「四時歌」の起句です。
残念ながら詳細な資料は残ってはいないのですが、おそらく、渋沢栄一と親戚関係であり、秩父セメントの創業者である諸井家とのつながりでいただいたものなのだと思われます。
戸谷家は、今から450年前に世良田(群馬県太田市)から出ており、新田氏の家臣でした。諸井家とは、中山道本庄宿を開拓した「花の木十八軒」と呼ばれる同志でした。(※諸井家についてはこちらへ)
渋沢栄一翁の書の前で、藤井先生と写真を撮らせていただくことができて、とても光栄に思います。
藤井先生は、幕末から明治にかけて養蚕・絹文化でつながっていた前橋、川越、横浜3市の人・史跡・観光施設を紹介するウェブサイト『前橋、川越、横浜の絹のものがたりー絹文化ゆかりの「歴史」と「ひと」をつなぐー』を作成されています。
川越、前橋、横浜を「絹文化」として横断的に結びつけるご活動は、とても意義深いものと感じています。
横浜と上武地域(群馬県・埼玉県)との絹文化のつながりについては、2021年2月・3月に戸谷八商店で開催した『本庄まちゼミ』でのテーマでもあったことから、藤井先生と、上武出身の横浜の生糸商人について楽しくお話させていただきました。
このたびは、素晴らしいお時間をありがとうございました!!
◆藤井 美登利先生(プロフィール)
東京生まれ。1985年より10年間、欧州航空会社に勤務。東京とロンドンを往復する生活を送る。川越に都内より移住。川越むかし工房を設立し、川越の町雑誌「小江戸ものがたり」を発行。東京国際大学非常勤講師(「観光ガイド実習」)。NPO法人川越きもの散歩代表。さいたま絹文化研究会(秩父神社・高麗神社・川越氷川神社)会報担当。埼玉県人会善行賞受賞(平成25年度)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです。)
『埼玉きもの散歩ー絹の記憶と手仕事を訪ねて』より。
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藤井美登利先生は、日本の市民活動家で、NPO法人『川越きもの散歩』の代表理事としてご活躍されています。
毎月28日に、川越での「きもの散歩」の開催や、織物ゆかりの町(小川町・秩父・行田・越生・横浜・深谷・本庄・入間等)での「きもの散歩」の開催、埼玉県ブランド繭「いろどり」で顔の見えるきものつくり等、「きもの」を身近な暮らしに取戻し、次世代につないでいく活動をされています。
※藤井先生は「いろどり」でのきもの作りを、本庄の黒澤織物さんに依頼し、草木染、手織りできものを織ってもらっていました。
また、専門家ボランティア共助仕掛人として、6年間埼玉県庁に勤務され、市民活動団体やNPO法人、企業等のマッチングを行い、活力ある地域づくりに貢献されてこられました。
(2013年8月27日 NPO企業のマッチングフォーラム資料 PDF8MB)※川越きもの散歩HPより
さらに、「川越むかし工房」を設立し、川越の町雑誌『小江戸ものがたり』の編集発行(2021年8月現在第14号まで発行)や、さいたま絹文化研究会(秩父神社・高麗神社・川越氷川神社により結成)での会報を担当される等、まちづくりや伝統文化保存のため、多彩なご活動をされています。
ご著書に『埼玉きもの散歩―絹の記憶と手仕事を訪ねて』(さきたま出版会)があります。
平成25年度の埼玉県人会善行賞受賞。第12回 筑波大学茗渓会(めいけいかい)受賞。
◆藤井美登利先生についての掲載記事
『必殺! 埼玉県共助仕掛人シリーズ 共に支え合う豊かな地域づくりを目指して』(2021年3月18日掲載の埼玉トカイナカジャーナル編集部)
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【ホームページ・論文等】
(※藤井美登利先生のプロフィールやご実績等が掲載されています。)
(※藤井美登利先生が代表を務められていらっしゃいます。)
(※藤井先生が作られたホームページ)
(※藤井先生が編集長を務められている川越の町雑誌)
※川越一番街の書店「本の店太陽堂」(埼玉県川越市幸町7−5)さんや、「小江戸まるまる屋」さんのWEBサイトで購入できます。
(※会報誌の作成を藤井先生がなさっています。)
『官営富岡製糸所長・速水堅曹をめぐる人々~明治黎明期の起業家 清水宗徳の足跡をたどる~』(さいたま絹文化研究会 藤井美登利氏、2020年)PDF:1.62MB
(※Wikipediaを参照)
◆ご著書『埼玉きもの散歩』(さきたま出版会)
藤井先生が、埼玉県の各地域(川越、入間、日高、飯能、小川、東秩父、秩父地方、本庄、深谷、熊谷、行田、羽生、さいたま市等)を訪れ、繭や着物、伝統工芸、酒蔵、まちづくりにかかわる人たちの紹介をされています。
かつて上武地域(群馬県・埼玉県)は全国でも有数の養蚕・生糸・織物地域でした。それがあってまちが発展し、今につながっているのだということを藤井先生のご著書を通して感じさせていただきました。
今では見えにくくなっていますが、埼玉県内の各地で連携し息づいている「蚕糸・絹文化」を受け継いでいくことの大切さを学ばせていただきました。
『埼玉きもの散歩―絹の記憶と手仕事を訪ねて』(さきたま出版会)
◆川越の町雑誌『小江戸ものがたり』(川越むかし工房)
藤井先生から川越の町雑誌『小江戸ものがたり』3冊をいただきました。
現在、藤井先生は、川越の町雑誌『小江戸ものがたり』編集長を務められています。
ガイドブックには載っていない川越情報(川越の職人、歴史、老舗の話、季節の行事等)が満載です。
■ネットから『小江戸ものがたり』のお申込みができます。 「小江戸〇〇や」のサイトをご覧ください。
※『小江戸ものがたり』のバックナンバー(創刊号~第14号)もそちらからご覧いただけます。
◆『さいたま絹文化研究会』
「さいたま絹文化研究会」は、日本の蚕糸・絹文化を次代に伝えるために、秩父神社(薗田 稔宮司)・高麗神社(高麗 文康宮司)・川越氷川神社(山田 禎久宮司)の三社の宮司が発足された研究会です。
協力団体として、NPO法人 川越きもの散歩と一般社団法人 高麗1300がかかわっています。
藤井 美登利先生は、会報の編集を担当されています。
「神社は地域のひとたちが集う場所であり、蚕糸絹文化にも深く関わりがあります。各地で絹文化やその歴史、地域の記憶を掘り起こす活動をしている人たちと一緒に、先人の歩みを学び、日本の絹文化について考える機会になればと思います。」※『さいたま絹文化研究会通信』(第2号、P9より)
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『さいたま絹文化研究会通信』につきましても取材の当日に藤井先生からいただきました。
埼玉県の蚕糸・絹文化について、貴重な研究内容が数多く掲載されておりとても勉強になります。藤井先生のお気遣いに心より感謝しています。
◆藤井先生との当日の会話から
~渋沢栄一翁・田島弥平・下村善太郎・速水堅曹・星野長太郎・清水宗徳・吉田幸兵衛など~
戸谷八商店で開催している「第4回本庄まちゼミ」では、「渋沢栄一翁が与えた本庄地域への影響力」というテーマで行いました。テーマに関連して、「横浜と上武地域の生糸商人の関係〈横浜の都市開発に必要なインフラの整備・日本の近代化に多大な貢献をしたのは上武の絹商人だった〉」ということについても触れさせていただきました。
今回の藤井先生の取材では、『本庄まちゼミ』についてのお話もさせていただきました。
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■渋沢栄一翁を生んだ上武地域は、江戸時代すでに貨幣経済の浸透した先進的な地域であったこと。
■栄一翁と「絹文化」の関係について。
※栄一翁の生家「中の家」は、藍玉製造・養蚕で財を成し、栄一翁は養蚕に精通していた。
※横浜開港以来、日本の経済を大きく支えて来たのは生糸貿易。当時ヨーロッパでは「微粒子病」(蚕の病気)が流行しており、日本からの輸入に頼らざるをえない状況だった。そのため日本では、一時期は「生糸」と「蚕種」が輸出の80%を占めた。(外貨獲得の最重要産業だった。)
※急激な輸出の増加により、粗悪な生糸が大量に出回ることとなった。明治3年、富国繁栄・殖産興業をめざした明治政府は、生糸の品質改善・生産性向上・製糸産業の育成を目的として「官営の器械製糸工場」を設立することを決定。
※大蔵省時代、養蚕や蚕種に詳しかった栄一翁は、富岡製糸場設置主任に任命され、尾高惇忠、韮塚直次郎らと共に、「官営富岡製糸場」の設立に尽力した(明治5年完成)。
※「田島弥平」は、渋沢栄一翁のアドバイスを受けて、優良蚕種の製造・販売を行う「島村勧業会社」を設立し、「イタリアへの蚕種の直輸出」(明治12年~15年)を始めた。
※今も皇后陛下に引き継がれている「宮中ご養蚕」は、栄一翁が相談役となって復活させた。養蚕教師は栄一翁の縁戚にあたる田島武平・弥平が養蚕教師を務め、島村の4人の女性たちが宮中で養蚕を行った。4人の女性のうち1人は田島弥平の妹で、深谷宿本陣の飯島家の妻、飯島曽野(その)だった。
※明治14年(1884年)、横浜の生糸売込商(原善三郎、茂木惣兵衛、渋沢喜作など)と外国商館との間で起きた「生糸荷預所事件(きいとにあずかりしょじけん)」では、栄一翁が中心となって外商との和解に尽力したこと。
■前橋の発展のために多大な貢献をした絹商人下村善太郎のこと。
下村は、幕末・明治期の生糸商。初代前橋市長。群馬県前橋で家業を継ぐも、賭博や米相場に手を出して失敗し、嘉永3年(1850年)八王子に転居した。安政6年(1859年)には横浜が開港し、八王子が生糸取引の中継地となったことで、買い付けた生糸を横浜の中居屋重兵衛に売り、生糸商として成功。父の死後、文久3年(1863年)に前橋に帰郷すると、糸繭商として外国取引を開始し、「早飛脚」を使い、他の糸商より1日早く横浜の糸相場を把握するなどした結果、大富豪となった。川越藩主の前橋帰城に伴う前橋城再築に多額の寄付金を納め、1866年には生糸改所取締となり、また永年苗字帯刀を許された。明治維新後は、社会慈善事業家として、前橋本町大火災での被災者支援、十八郷学校(桃井小学校の前身)の校舎新築への寄付、利根川の架橋、前橋の迎賓館と言われる「臨江閣」の建設、第三十九国立銀行の経営危機救済、日本鉄道の前橋延長、県庁の前橋誘致運動「前橋25人衆」の先頭にも立ち、巨額の私財を投じて前橋発展のために尽力した。
■明治時代、日本で初めて生糸の直輸出を実現させて、生糸貿易を著しく発展させた星野家11代「星野長太郎」(黒保根町水沼:現桐生市)のこと。
(星野長太郎は、速水堅曹※に技術、経営を学んで、群馬県最初の民間の器械製糸所「水沼製糸所」を設立した人物。長太郎はまた、速水堅曹らとともに「横浜同伸会社」を設立し、弟の新井領一郎をアメリカに派遣し、日本で初めて生糸の直輸出を実現させた。横浜の外国人商人を仲介せずに、中間マージン削減に成功。)
※速水堅曹は、川越生まれの旧前橋藩士。明治2年(1869年)、横浜本町2丁目(現在の横浜市中区本町4丁目)に、藩営の生糸売り込み商店「敷島屋庄三郎商店」を開設。明治3年(1870年)、日本で最初の器械製糸所である「藩営前橋製糸所」を開設し、全国への器械製糸の普及に多大な貢献した。堅曹はその後、富岡製糸場、水沼製糸所、二本松製糸場の立ち上げにかかわり、明治8年(1875年)には「研業社・関根製糸所」を開業した。官営富岡製糸場の所長を2度務める。日本初の生糸直輸出会社である「横浜同伸会社」を同志らとともに設立し、日本の製糸業の発展に尽力した。
※「横浜同伸会社」…初代社長を速水堅曹、副社長を高木三郎(元ニューヨーク駐在領事)、取締役を星野長太郎、新井領一郎、清水宗徳(高麗郡上広瀬村[現狭山市]の世襲名主。1877年埼玉県で初めての器械製糸工場を設立。)が務める。
※清水宗徳は、天保14年(1843年)武蔵国高麗郡水富村大字上広瀬に生まれる(現在の埼玉県狭山市)。狭山市の偉人。清水家は世襲名主を務めるかたわら、広瀬神社の神官を兼ねる家柄。蚕糸業の発展につとめ、明治10年(1877年)、埼玉県最初の器械製糸工場「暢業社(ちょうぎょうしゃ)」を開設。暢業社の生糸は富岡製糸場や二本松製糸に次ぐ高い評価を受けて取引された。明治14年(1881年)、同志とともに「横浜同伸会社」を設立し、生糸の直輸出をはかった。埼玉県会議員ののち、23年衆議院議員。川越鉄道(現在の西武新宿線、国分寺線・国分寺~本川越間)の発起人、酪農、馬車鉄道、砂利採掘など狭山市の殖産興業に尽力した。
『明治立志編』によると慶応2年(1866年)、23歳の時に前橋藩主の命により武州松山の陣屋にて兵術を学び農兵隊(郷兵)の隊長となったこと、また、時期は不明であるがお台場の警備に出仕したことが判明。
参照:「官営富岡製糸所長・速水堅曹をめぐる人々~明治黎明期の起業家 清水宗徳の足跡をたどる~』(藤井美登利氏著・PDF1.62MB)より
■星野長太郎の曽祖父である星野家8代「星野七郎右衛門」のこと。
(星野七郎右衛門は、江戸時代後期に、上州と本庄宿の豪商らとともに「吹所世話役6人衆」として共同で足尾銅山の経営にあたっており、本庄にもゆかりのある人物であること。)
■「吉田幸兵衛」(大間々町:現群馬県みどり市)について
(吉田幸兵衛は、横浜が開港時、いち早く横浜に進出し「吉村屋」を開き、原善三郎や茂木惣兵衛と肩を並べる程の生糸の大売込商となる。1879年渋沢喜作に営業権を譲渡し引退したこと。)
※吉田幸兵衛の本家筋の吉田家と戸谷家とは縁戚関係にあります。
等についてたくさんのお話をさせていただきました。
なかでも、下村善太郎の「早飛脚」のお話はとても興味を引き起こされました。
(2021年2月と3月に戸谷八商店にて実施)
◆栄一翁を生んだ上武地域(群馬県・埼玉県)の特性
~江戸時代すでに貨幣経済の浸透した先進的な地域だった~
渋沢栄一翁というと、パリ万博を通じてはじめて近代にふれたというイメージで語られます。
これに対して、渋沢史料館の館長である井上潤氏は、栄一翁が西欧の近代文明を理解できたのは、栄一翁が育った環境にすでに近代に通じるものがあったからではないかと述べています。
「渋沢が生まれた血洗島村の周辺は、貨幣経済が浸透した非常に先進的な地域であることが分かったんです。渋沢と言えば、パリ万博を通じて、初めて近代に触れたというイメージで語られていました。しかし、西欧の近代文明を理解できたのは、渋沢にその素地があったからではないか。」(『青天を衝け~渋沢栄一とその時代』(NHK出版)「令和に生きる渋沢栄一」渋沢史料館館長 井上潤氏特別インタビューより)
江戸時代からすでに、上武地域(群馬県・埼玉県)は、利根川の水運を利用して、貨幣経済が浸透した先進的な地域でした。
本庄宿においても、利根川の水運の集積地として大きく発展し、中山道最大規模の宿場となりました。
当時発行の『関八州持丸長者富貴鑑(かんはっしゅうもちまるちょうじゃふうきかがみ)』には、武州本庄の中屋半兵衛(戸谷半兵衛)や、上州大戸の加部安兵衛(安左衛門)が名を連ねています。
◆「足尾銅山 吹所世話役六人衆」について(江戸時代)
~渋沢栄一翁へとつながる上武商人たちの「公益」の精神~
岩鼻赤城神社(群馬県高崎市岩鼻町)には、上武の商人の名前が刻まれた「常夜灯」があります。
まだ江戸幕府が銅山経営をしていたころに、「吹所世話役」というのがありました。
「吹所」というのは製錬所のことで、現場の鉱山師(やまし)と経営の吹所世話役が中軸になって、実質的な銅山経営を担っていたとのことです。そして、その吹所世話役というのは、近隣地域の財力・人望を兼ね備えた人物が各地から選ばれました。彼らは、「世話役六人衆」といわれていました。
(彼らは社会慈善事業家としての側面がありました。天明3年の浅間山大噴火や、天明の大飢饉・天保の大飢饉の際には財産を惜しまず使い、被害にあった多くの人たちの救済にあたりました。足尾銅山の不況時には経営面で支援しました。)
1816年(文化13年)、上州の10代加部安左衛門(大戸宿[現吾妻郡東吾妻町大戸])、星野家8代星野七郎右衛門(黒保根町水沼[現桐生市])、宮下孫右衛門(白井村[現渋川市白井])、本庄宿の森田助左衛門、森田市郎左衛門、戸谷半兵衛ら六人衆は、岩鼻代官所から「足尾銅山吹所世話役」に任ぜられ、5,000両を上納し、銅山の危機を救いました。(加部・戸谷…各1,000両、星野ら4名…各750両)
1817年(文化14年)吹所世話役六人衆が合議し、岩鼻赤城神社に「常夜灯」を奉納しました。
横浜が開港すると、加部家の12代加部安左衛門は、中居屋重兵衛(嬬恋村出身)らとともに横浜に進出し、星野家11代の星野長太郎は、日本で初となる生糸直輸出を実現させて、生糸貿易を著しく発展させました。
◆吉田幸兵衛の「吉村屋」
~1859年に横浜に進出し「吉村屋」を開業。原善三郎や茂木惣兵衛と肩を並べる生糸の大売込商となる。1879年渋沢喜作に営業権を譲渡し引退する~
1836年(天保7年)、吉田幸兵衛は、和五郎の長男として上野国山田郡大間々町(群馬県みどり市)に生まれました。
和五郎家は、新川村[現桐生市新里町]吉田家の分家にあたります。
安政6年(1859年)、幸兵衛は横浜が開港するといち早く横浜に進出し、「吉村屋」を開業します。
明治元年(1868年)、明治政府より「横浜商法司為替御用人」に任命され、明治3年(1870年)には、伊藤博文を団長とする「金融制度調査団」に加わり、渡米し米国の金融制度を調査しました。
幸兵衛は、「委託販売経営方式」※を採用し、原善三郎や茂木惣兵衛と肩を並べる程の生糸の大売込商となりました。明治12年(1879年)の生糸売込量の記録では、第3位という実績を残しています。
明治12年(1879年)、渋沢喜作に営業権を譲渡し引退しました。
※自分が直接生糸を買い付けるのではなく、生糸生産者を荷主として販売先である外国商館に紹介し、生糸生産者に直接販売をさせて吉村屋は仲介手数料を取るという方法。
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幸兵衛の父 和五郎の実家である吉田本家には、幸兵衛が横浜から上州に送った大量の手紙(約1,000通)が残されていました。この資料(吉田家文書)は、開港当時の生糸貿易の状況を知る上で貴重な資料となっているとのことです。
※吉田幸兵衛の本家筋の子孫である故吉田宰治氏(新川村吉田家本家22代当主)は、戸谷家14代(故戸谷全克)の従兄弟にあたります。宰治氏は、妹(全克の末娘)の結婚式の時に長唄をうたってくださいました。
◆本庄市および周辺地域の近代化遺産(絹産業遺産)
利根川や烏川、神流川をはさんで群馬県と埼玉県両県には絹産業遺産が多く残されています。
2014年「富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県)」が世界遺産に登録されました。
構成資産は、日本初の本格的な器械製糸の工場「富岡製糸場(富岡市)」、蚕種業の「田島弥平旧宅(伊勢崎市)」、養蚕改良に貢献した「高山社跡(藤岡市)」、蚕種貯蔵施設の「荒船風穴(下仁田町)」です。日本の世界遺産の中で近代化遺産としては初です。
本庄市内にも、養蚕改良と普及の「競進社模範蚕室(きょうしんしゃ もはんさんしつ)」や、繭を保管した「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」など、「世界遺産富岡製糸場と絹産業遺産群」の関連文化財として紹介されています。
◆木村九蔵と競進社模範蚕室(きょうしんしゃ もはんさんしつ)
【埼玉県指定文化財】
競進社模範蚕室(きょうしんしゃ もはんさんしつ)は、養蚕技術の改良に一生をささげた木村九蔵(きむらくぞう)が、明治27年(1984)に建設した絹産業遺産の貴重な建物です。4基の高窓を持つ特徴的な外観をしています。最新の飼育法を学ぶため、日本各地から多くの生徒が集まりました。
蚕室は、近代の養蚕業の発展を具体的に伝える重要な遺産として、埼玉県の文化財に指定されています。
木村九蔵(きむらくぞう)※1は、高山社を創始した高山長五郎(たかやまちょうごろう)の弟にあたります。
長五郎は「清温育」※2、九蔵は「一派温暖育」※3という蚕の飼育法を考案しており、長五郎、九蔵兄弟は生涯をかけて養蚕に取り組み、近代日本の養蚕業の発展に大きく貢献しました。
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※1「木村九蔵」は、生涯を養蚕の改良普及に捧げた人物です。
明治5(1872年)に「一派温暖育」という蚕の飼育法を公開しました。この飼育法を発表したことにより、九蔵のもとには飼育法を学びたいという人がたくさん訪れるようになりました。
明治10年(1877年)には「競進組」を結成し、蚕の飼育法の普及に努めました。
その後、九蔵は、よい繭を得るには蚕種の改良が急務であるという信念から、蚕種の品種改良に取り組み、明治13年(1880年)に「白玉新撰(しらたましんせん)」という新品種を発表し、明治22年(1889年)の内国勧業博覧会で一等賞となりました。一時期、日本の全流通の50%を「白玉新撰」が占めました。
明治17年(1884年)には、「競進組」を「競進社(きょうしんしゃ)」と改めて、現在の「埼玉県立児玉白楊高校」の前身にあたる「養蚕伝習所(ようさんでんしゅうじょ)」を開設し、さらなる養蚕の普及に励みました。
明治22年(1889年)明治政府より、木村九蔵は蚕糸使節としてパリ万国博覧会に派遣されました。
視察後、九蔵は、日本にも近代的な蚕種貯蔵が必要であることを痛感し、多くの有志者の出資によって、明治24年(1891年)「日本蚕種貯蔵株式会社」を設立。明治25年(1892年)、元埼玉県令吉田清英邸内に、日本初となる近代的な「(換気式)蚕種貯蔵庫」(辰野金吾の設計・氷と換気装置で低温を保持できる蚕種貯蔵所)を設け、蚕種貯蔵の先駆けとなりました。(元県令吉田清英は、九蔵の考えに全面的に賛同し、自から株式の50%をもち、敷地は自宅を無償貸与するなど積極的な援助の手をさしのべました。)
その後、明治27年(1894年)には、伝習所内に、「一派温暖育」の理念と方法を実現した模範蚕室を建設しました。
これが現在の埼玉県指定文化財(建造物)「競進社模範蚕室(きょうしんしゃ もはんさんしつ)」です。
さらに、ヨーロッパ視察での知見から九蔵は、これからの養蚕の普及には実技伝習だけでなく学科を加える必要性を痛感したことから、学校教育を始めるために明治30年(1897年)に、伝習所を「競進社蚕業講究所」と改めました。
明治31年(1898年)54歳の生涯を閉じる。金鑚神社(神川町二の宮)に木村九蔵の頌徳碑が建立されています。(頌徳碑の額字は、伊藤博文によるものです。)
※2「清温育」は、それまでの自然に任せた島村の「清涼育」と、人工的に温湿度を管理した東北地方の「温暖育」を折衷した養蚕法。
※3「一派温暖育」は、炭火と換気によって蚕室の温度・湿度を調節して蚕の病気を防ぎ、飼育の日数を短縮する養蚕法。蚕室の構造と一体のものとして捉えられていた。
【参考】
・『本庄市の養蚕と製糸 養蚕と絹のまち本庄 本庄市郷土叢書 1』(PDF19.7MB)
・中村高樹『故競進社々長木村九蔵先生 蚕飼の鑑』中村高樹、1900年
・埼玉県立児玉白楊高等学校「令和3年度1学期始業式・校長講和」
2018年11月に開催されたこだま芸術祭(会場:競進社模範蚕室)
アーティスト(屋内:関美来さん/屋外:長谷部勇人さん)
◆旧本庄商業銀行と赤レンガ倉庫
明治5年(1872年)、富岡製糸場開設にあたり、場長の尾高惇忠は、諸井泉右衛門たちに繭の買い入れを依頼しました。
かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治16年(1883年)に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとして発展しました。
「株式会社本庄商業銀行」…明治27年(1894年)、本庄町最初の銀行として設立。
「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫(赤レンガ倉庫)」…明治29年(1896年)、融資の担保となった大量の繭を保管するために建てられました。絹産業が盛んであった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。
◆渋沢栄一翁の本庄地域での影響力
戦国の乱世を鎮めて日本全国を統一し、260年続く太平の世「近世」を築いた徳川家康。
幕末から昭和にかけて、日本の「近代化」を牽引した渋沢栄一翁。
渋沢栄一は、約500社の企業の創設に携わり、「日本の資本主義の父」と称されます。メガバンクに鉄道、ガス、電気などのインフラ、ビール、セメント、紡績業など製造業の他、商法講習所(現一橋大学)や日本女子大学校など、教育機関の設立にも関わっています。「株式会社」という組織や、「銀行」という金融システム、「鉄道」という物流システムを日本に根付かせて「民間力」を高め、教育機関の創設にも携わった渋沢栄一翁は、日本全国にわたって近代日本の土台を築いた偉人です。
栄一翁は、地方にもかなり足を運んで、さまざまな企業の設立に携わっています。
当時、栄一翁の銀行設立にかかわった各地方の経済人たちが、それぞれ何個も会社をつくり、日本全体として民間力を高めていった時代だったのだと思います。(戸谷家では10以上の会社を設立しました。)
本庄において、渋沢栄一翁の影響力が最も大きかったのは諸井家です。
諸井家(東諸井家)は、江戸時代から渋沢家と縁戚関係にあります。
11代諸井恒平は、明治20年、渋沢栄一翁の推薦で日本煉瓦製造株式会社に勤務した後、明治40年には専務取締に就任します。大正12年には秩父セメントを創設し、「セメント王」と呼ばれる地位を築きました。
恒平の子、12代諸井貫一は、日本経団連・経済同友会を創設し、その他にも一族からは領事館公使や、芸術家などを輩出し、日本の近代化に貢献しています。(※諸井家についてはこちらもご覧ください。)
藤井先生、このたびは、戸谷八商店までご訪問くださいまして、誠にありがとうございました!!