2021年7月14日(水)、「渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会」の蛭川 隆司(ひるかわ たかし)理事と、永井 勲事務局長が戸谷八商店に来てくださいました。
渋沢栄一翁が生まれた深谷市には、栄一翁ゆかりの史跡等が数多く残されています。
「渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会」で、お二人は、渋沢栄一翁をはじめとする郷土の偉人(尾高惇忠、韮塚直次郎等)について、楽しみながら親しんでもらえるようご尽力なさっています。
「尾高惇忠生家(深谷市指定史跡)」でのボランティアガイド、「論語の里まち歩きツアー」でのガイド、「旧渋沢邸『中の家』で季節のおもてなしイベント」、「論語教室(全10回連続講座)」等、深谷の地で生まれた偉人たちのすばらしい志を、次世代につなげるため積極的にご活動されています。
今回のご縁をいただきまして、お二人とお話をすることができてとても光栄に感じています。
蛭川氏と永井氏から、本日、多くのことを学ばさせていただきました。
なかでも、10代目戸谷八郎治の頃、戸谷八商店では米屋も営み、12代目間四郎のときは石油の商売も行っていたお話をしたところ、深谷出身で「日本の石油王」と呼ばれた「小倉常吉(おぐらつねきち)」の偉業について教えていただきました。小倉常吉は、明治31年(1898年)には、新潟や秋田での油田開発を行い、第一次世界大戦後には、原油の輸入を開始し、日本で初めての輸入原油精製方式の導入に成功した方です。
小倉常吉の設立した「小倉石油株式会社」は、昭和16年(1941年)、「日本石油株式会社」と合併し、現在は石油元売り業界最大手である「ENEOSホールディングス」に受け継がれています。深谷出身の小倉常吉が多方面に活躍されていることを知り、もっと勉強しなくてはと思いました。
また、「小倉常吉」が本庄出身の諸井恒平と渋沢栄一翁と一緒に、秩父セメント株式会社の調査に行ったお話は非常にためになりました。渋沢栄一翁、小倉常吉、諸井恒平といった重鎮たちの、日本を股にかけての経済的なネットワークの存在を教えていただきました。
さらに、お二人から論語を学ぶ大切さについて改めて学ばせていただきました。
論語には、自分のあり方を正しく整え、人と交わる際の基本となる教えが書かれています。
渋沢栄一翁は、企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が必要であり、国ないしは人類全体の繁栄に対して責任を持たなければならないという「道徳経済合一」を説かれました。
渋沢栄一翁は約500の企業の設立に関わりましたが、そこには必ず、論語に裏打ちされた公益の精神が息づいていたとのことです。
蛭川氏と永井氏を通して、論語をバックボーンに持っている尾高惇忠と、渋沢栄一翁の奥深さを改めて実感しました。
離れでのお話の後、戸谷八の歴史建物をご案内させていただきました。
◆深谷の勤王の志士 川上鎮石(かわかみ ちんせき)
~尾高惇忠の門下生で、惇忠より渋沢栄一翁とともに論語・水戸学の教えを受けた。明治に入ると、「皇宮警察初代警察署長」に任ぜられた~
「渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会」の蛭川 隆司氏は、川上鎮石(かわかみちんせき)氏の子孫にあたる方です。
川上鎮石(かわかみ ちんせき)は、天保11年(1840年)、蛭川甚五郎(ひるかわ じんごろう)の次男として生まれました。名は宗吉。武蔵国榛沢郡下手計村(現在の深谷市)出身で、尾高惇忠が開いた尾高塾の門下生であり、惇忠から、「論語」と尊王攘夷論を主とした「水戸学」の教えを受けました。
同い年の栄一翁らとともに、高崎城乗っ取り計画の密儀に参加しましたが、尾高長七郎の説得により中止となりました。
この計画は役人に漏れ、師である尾高惇忠より「蛭川姓だと役人に捕らえられる恐れがあるので名前を変えるように」と言われ、蛭川が上(かみ)の家なので、川上と称し、名前を邦之助と変え、京へ向かいました。
京に到着後、中岡慎太郎率いる陸援隊に入隊。しかしながら、近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が暗殺されると、事態は急変。徳川軍と薩摩・長州藩軍で戦火を交える事となります(鳥羽伏見の戦い)。
薩摩藩からの要請により、川上は、兵を集め、高野山全光院を本陣として総勢八百人の軍隊を組織しました。
鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸に帰った後、川上は京に戻りました。
その後、パークス襲撃事件で一度は隠岐島に送られますが、明治時代には復帰し、皇宮初代警察署長に任ぜられました。明治44年(1911年)8月10日死去。従四位勲三等。72歳。(のんちゃんの気ままなダイアリー 深谷上杉顕彰会の第七十回歴史講座:『川上鎮石について-深谷の勤王の志士の生涯ー』講師:蛭川隆司氏 をもとに作成)
◆大川平兵衛(おおかわ へいべえ)の頌徳碑(しょうとくひ)
「大川平三郎翁記念公園(坂戸市横沼)」の南にある大川家墓所には、大川平三郎はの祖父 「大川平兵衛(おおかわ へいべえ)の頌徳碑(しょうとくひ)」があります。
明治4年(1871年)9月に大川平兵衛が70歳で没すると、平兵衛を慕う門人たち569名により、「頌徳碑(しょうとくひ)」が建立されました。
頌徳碑(しょうとくひ)の裏面には、門下たちの名前が刻まれています。
筆頭に「渋沢栄一翁」、「渋沢喜作」と続き、6番目に「桃井宣三」、7番目に「川上鎮石(かわかみ ちんせき)」の名前があります。
門下たちの名に続き、最後に尾高惇忠の名が刻まれています。
頌徳碑の表面は、
■篆額「大川先生墓表」:元福井藩主の松平慶永(春嶽)
■撰文:尾高惇忠
■書:明治三筆の一人である日下部鳴鶴(東作)[くさかべめいかく(とうさく)]によるものです。
◆神道無念流の剣術家で川越藩剣術師範の「大川平兵衛」
ー「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた大川平三郎の祖父ー
大川平兵衛(へいべえ)は、享和元年(1801年)生まれ。上野村(現在の熊谷市)の渡辺家に生まれ、同じ上野村の小鮒家(こぶなけ)の養子となった後に、横沼の大川家に婿入りで来た人物です。
体格、体力ともに優れており、箱田村(現在の熊谷市)の剣豪・秋山要助の門人となって修行に励み、二十歳で免許皆伝を授けられました。剣術家として優れていたばかりでなく、人徳も備えていたため門人たちに慕われて、横沼と川越の通町の道場は栄え、後に秋山要助が没すると、秋山門下の多くは平兵衛の門弟となってその総数は三千人を数えたと言います。
剣術家として名声が高まると、川越藩主松平直克(なおかつ)の目に留まって、藩の剣術指南役に取り立てられ、藩士の指導にあたりました。後に、藩主が前橋に移封になると、これに従って前橋に移り住み、その後松山(現在の東松山市)の陣屋で剣術を指導しました。
平兵衛は、渋沢栄一翁や尾高惇忠に剣術を指導しました。平兵衛は渋沢や尾高などの豪農の家へ出張して、一、二日ほど泊まって出稽古をしていました。
(坂戸市役所作成「青天を衝け」と大川家 PDF[299KB] より)
●大川平兵衛は、平三郎の祖父です。
●大川平三郎は渋沢栄一翁の甥です。栄一の妻である千代の姉みち子が平三郎の母です。
(大川平三郎の妻は栄一翁の四女、照子です。)
さらに、平三郎は尾高惇忠の甥でもあります。惇忠の妹みち子が平三郎の母です。
■大川平三郎翁記念公園(大川道場跡)
「大川平三郎翁記念公園」は、大川平兵衛(おおかわへいべえ)の孫である大川平三郎(おおかわへいざぶろう)を顕彰する事業の一環として平成19年(2007年)に開園した公園です。元は、大川平三郎の祖父で神道無念流の剣術家である大川平兵衛が道場を構えていた場所です。
「大川道場跡
この公園は、神道無念流の剣術家・大川平兵衛英勝の道場があった場所です。
平兵衛は、享和元年(一八〇一年)熊谷市上之の渡辺家に生まれ、幼い頃に、小鮒家の養子となって、栄治郎と称していました。その頃の県北地方では、神道無念流が栄えており、熊谷付近の箱田村に道場を構えていた秋山要助の弟子となり、厳しい稽古に耐えて、文政五年(一八二二年)には、二十歳で免許皆伝を得ています。
二十二歳の時、横沼村(現坂戸市横沼)の大川与佐衛門婿養子となって、名を平兵衛と改め、邸内に道場を設けて、多くの門弟を育てています。
文久二年(一八六二年)には、川越藩主松平大和守直克に登用され、剣術師範となって仕えました。
後に、藩主の前橋移封に伴い、平兵衛親子も移り住みますが、藩の飛地であった松山(現東松山市)の陣屋で、剣術を指導している時、幕末を迎えています。
明治四年(一八七一年)九月に七十歳で没すると、平兵衛を慕う門人たち「五六九名」により、隣接する大川家墓地に「頌徳碑」が建立されました。
この碑の篆額は、前福井藩主・松平春嶽の筆であり、撰文は、尾高惇忠によるものです。
平成二十七年二月 坂戸市教育委員会」
(大川道場跡 案内板より)
尾高惇忠生家では、「渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会」の蛭川氏と永井氏が活動されています。
蛭川様、永井様、この度は戸谷八商店をご訪問くださり、貴重なお話を聞かせていただきましてありがとうございました!!