成身院百体観音堂(さざえ堂)建立のきっかけ
~天明3年の浅間山大噴火の犠牲者への供養として~
「百体観音堂(さざえ堂)」建立のきっかけは、天明3年(1783)の浅間山大噴火です。
火砕流や岩屑なだれによる洪水で1500人余の人が亡くなり、多くの遺体が流れ着いた戸谷塚(現 伊勢崎市)では、村人総出で収容し埋葬しました。成身院69世元真上人は利根川の河原に壇を築き、近隣の僧と共に、七日七夜法華一万部を読誦して弔いました。
・寛政4年(1792年):百体観音像完成(元真上人発願・元照上人建立)
・寛政7年(1795年):観音堂完成
・明治時代の廃仏毀釈:成身院は無住寺となる
・明治21年(1888年):火災により観音堂焼失
・明治43年(1910年):現在の百体観音堂は、79世猪鼻元照和尚が、地元小平地区の寄進と尽力でにより20年余の時をかけて再建したもの(戦後の荒廃期には半数の観音像が盗難に遭う。その後観音像の寄進をお願いした結果、現在の姿となる。)
本庄講による寄進
◆賓頭匵尊者像(びんずるそんじゃぞう)
「百体観音仏像寄附帳 賓匵蘆尊一体」(大正元年8月20日)
賓頭匵尊者像(びんずるそんじゃぞう)
百体観音堂(さざえ堂)入ってすぐの護摩堂の前に、「賓頭匵(びんずる)様」があります。
大正元年(1912年)に本庄講の人たちによって寄進されたものです。
賓頭匵(びんずる)様は、お釈迦様の弟子で、釈迦の正法を伝える十六羅漢の一人に数えられます。
日本では”なで仏”の風習が広がりました。像を撫でると除病の功徳があるとされ、「おびんづるさま」と呼ばれ親しまれてきました。
◆西国三十三所第27番札所「如意輪観音像」(本庄講奉納)
【世話人】戸谷八郎左衛門・戸谷磯吉・岡田源次郎・藤尾仙太郎・乾藤八・江原長左衛門
さざえ堂3階には、西国三十三所の観音様が祀られています。
左側の第27番札所(圓教寺)の観音像は「如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)」です。本庄講によって寄進されました。
如意輪観音像は、首をかしげ、片膝をたてて座っている姿が魅力的で人気の観音様です。左手の法輪(ほうりん)で悩みを打ち砕いて、右手の如意宝珠(にょいほうじゅ)で願いを叶えてくれる仏様。「如意」と「法輪」の”輪”をとって「如意輪観音」という名称になりました。
「圓教寺(えんぎょうじ)」は兵庫県姫路市にある天台宗のお寺です。
西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、天台宗の三大道場(比叡山・大山・圓教寺)と呼ばれました。山号は「書写山(しょしゃざん)」。
開山は康保3年(966年)性空上人(しょうくうしょうにん)、開基は花山天皇(かざんてんのう)です。
(性空上人と圓教寺の如意輪観音像についてはこちらを参照させていただきました。)
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◆3階の様子 ~西国三十三所~
【3階左側】
【3階中央】
【3階中央】第29番札所(松尾寺)
馬頭観音像(ばとうかんのんぞう) 小平念仏講中
【3階右側】
【天井画】
◆百体観音建立和讃
(武蔵国児玉郡秋平村成身院持)