2020年9月22日㈫諸井桃二氏の遠縁の方が戸谷八商店に立ち寄ってくださいました。
◆安養院ご由緒
※写真は翌日撮影したもの
安養院は、曹洞宗の寺院で、中山道本庄宿で最も大きな木造建築物で、本堂、山門、総門は市の指定文化財に指定されています。
「本堂」:寛政二年(1790年)に再建
「山門」:元禄十五年(1702年)の建築
「総門」:享保元年(1716年)の再建
安養院は、文明 7 年(1475 年)創建、山号は「若泉山」、寺号は「無量寺」です。
ご本尊は「無量寿如来(阿弥陀如来)」で、脇立として「観音」と「勢至」の 2 つの菩薩があります。
開山は玉岑慶珠(ぎょくしんけいじゅ)、開基は本庄信明とされています。
安養院のご由緒は、武蔵七党の一党である児玉党の本庄信明の弟、藤太郎雪茂(行重)が仏門に帰依し「伊安」と称し、当時の富田村(在の本庄市東富田)に「安入庵」を営みました。室町時代中期の文明七年(1475年)、上州沼田の迦葉山龍華院弥勒護国寺(かしょうざんりゅうげいんみろくごこくじ)3世の玉岑慶珠(ぎょくしんけいじゅ)を招き開山として「安養院」と改称しました。
しかし、その土地が水不足だったため、水源が豊かだった現在地に移設し、安養院を開基したと伝えられています。
(この敷地は全て宮内少輔信明より寄進されたものでありました。)
現在の地は水不足に悩まされることもなく、“若泉の荘”と呼ばれています。
※現在の若泉公園も当時は安養院の境内でした。
本庄信明は、延徳二年(1490年)逝去され、戒名は「開基安養院殿瑞室和光大居士」です。また、文亀二年(1502年)には雪茂(行重)「(戒名)中興開基心空伊安庵主」が逝去しました。これより本庄家が安養院の開基家とされます。
本庄城落城後は一時衰退しましたが、その後、迦葉山龍華院弥勒護国寺14世泰山保國が入寺して再興されました。
慶安 2 年(1649 年)には徳川幕府から 25 石の朱印地を受けています。
◆「扁額(へんがく)」について
山門の扁額には「若泉山」と書かれています。
総門には「東武祇園(祇園寺より東方の意味)」、本堂には「第一義(あるがままの真実の姿)」と書かれています。
総門と本堂は、心越(しんえつ)禅師によって揮毫されたものです。
心越禅師は、江戸時代前期に亡命した明の禅僧です。水戸光圀公に招かれて水戸で祇園寺(水戸)を建立されました。文化面でも活躍し、日本の琴楽の中興の祖・日本篆刻の祖とされています。
本堂扁額「第一義」
心越禅師による揮毫
山門扁額「若泉山」
総門扁額「東武祇園」
心越禅師による揮毫
◆戸谷半兵衛寄進の「結界石」
”不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず )”
禅系統のお寺では、「不許葷酒入山門」と刻まれた石がよく建てられています。
「葷酒、山門に入るを許さず」と読みます。「葷酒(くんしゅ)」=臭いの強い精力のつく野菜や、お酒のことです。
修行の場に妨げになるようなお酒や精力のつく野菜を持ち込んだり、食べた者は立入禁止、という意味です。
◆東諸井家墓
◆戸谷八郎左衛門墓
◆利根川のネットワークでつながった「花の木18軒」の仲間たち
諸井家は、楠木正成(くすのきまさしげ)の家臣であり、
諸井3家
諸井一族は3家(北諸井・南諸井・東諸井)を興して本庄宿の発展に貢献しました。
屋敷の位置関係から、「北諸井」・「南諸井」・「東諸井」と呼ばれました。
■北諸井家(宿屋諸井)
諸井治郎兵衛を代々襲名。屋敷は、南諸井家の向かい側にあった。江戸時代に問屋役を務めたことから、「宿屋諸井」と呼ばれました。父諸井治郎は照若町に名園「五州園」を開きました。息子の孝次郎は、明治27年本庄商業銀行の設立にも関わっています。
■南諸井家(本屋諸井)
諸井五左衛門を代々襲名。屋敷は、中山道の南側(現在の本庄市銀座1丁目8番16号辺り)。寛永14年本庄宿が旗本領とされた時に名主役を拝命し、最後の名主諸井興久は、初代本庄町長に就任しています。長男の諸井巴は、同人雑誌『同楽叢書』・『文華』を発行し、「春風書店」を開業したことから、「本屋諸井」と呼ばれました。
■東諸井家(郵便諸井)
諸井監物(もろいかんぶつ)を初代として、本庄に移住。
明治5年、10代諸井泉衛(もろいせんえい)が本庄郵便局の初代局長となり、「郵便諸井」と呼ばれました。
【東諸井家家系図】※「本庄人物事典」(柴崎起三雄著)より
初代監物→2代伝左衛門→3代伝左衛門→4代伝左衛門→5大仙左衛門→6代伝五右衛門→7代仙右衛門元輔→8代伝左衛門為隆→9代泉衛門(弱泉)→10代泉衛(水竹)→11代恒平→12代貫一→13代勝之助
東諸井家の人々
◆東諸井家と養蚕業
東諸井家は多くの逸材を輩出し、日本の近代化に深く貢献してきました。
中山道本庄宿は、利根川舟運の集積地として繁栄した町です。江戸時代後期から、東諸井家は、本庄の大絹商として知られるようになります。幕末には横浜港の開港以来、生糸・蚕種貿易の波に乗って、更に発展を遂げました。
明治時代以降も、富岡製糸場の原料の買い付けを請け負い、場長の尾高惇忠と取り交わした書簡などが残されています。
◆諸井泉衛(もろいせんえい)10代目
【真ん中】諸井泉衛
【写真左側】逸郎・恒平・時三郎・四郎
【写真右側】泉衛の妻佐久・(佐久の抱いている)六郎・寿満・なみ
諸井泉衛(もろいせんえい)は、東諸井家10代目当主(元南諸井家)です。
明治4年(1871)飛脚制度から、日本の近代郵便制度が発足します。明治5年(1872年)前島密の依頼により、自宅に本庄郵便取扱所を開設し、初代の本庄郵便局長に就任。
局長職は泉衛→恒平(つねへい)→貫一と受け継がれていき、東諸井家は【郵便諸井】と呼ばれました。
明治13年(1880年)の建築と推定されています。諸井泉衛(もろいせんえい)が横浜の洋館を手本に建築し、当初は本庄郵便局と居宅を兼ねていました。県の文化財に指定されています。当初は「本庄郵便局」として居宅と兼ねていました。
◆諸井恒平(もろいつねへい・泉衛の次男)11代目
親戚関係である渋沢栄一と親交が深く、「セメント王」と呼ばれた
諸井家と渋沢家は江戸時代より親戚関係がありました。
(泉衛の妻佐久は、渋沢栄一の従姉妹です。)
●1887年(明治20年)渋沢栄一の推薦で恒平は、日本煉瓦製造に入社。1907年(明治40年)には専務取締役。
●1910年(明治43年)に秩父鉄道株式会社取締役となり、武甲山の石灰岩に注目し、セメント製造事業の開拓を手掛ける。
●1923年(大正12年)セメントの需要拡大を見込み、秩父セメント会社を設立し、「セメント王」と呼ばれる地位を築く。
●1925年(大正14年)には秩父鉄道(株)の社長に就任する。1937年(昭和12年)には取締役会長。
渋沢栄一・尾高惇忠・原富太郎(三渓)といった近代日本を代表する財界人達との親交がありました。
谷口吉郎氏によって設計された「秩父セメント第2工場」(昭和33年施工)
~日本で最も美しい工場建築~
諸井恒平氏の長男である諸井貫一氏は、秩父セメント第2工場の設計を谷口吉郎氏に依頼しました。
諸井貫一氏は、このセメント工場が、明るく、そして美しくあることで、日本のセメント技術の模範になりたいと願ったということです。
「石灰石は武甲山から、粘土は南東の採掘場から、水は西に沿った荒川から運び込まれ、製品は隣接する秩父鉄道で熊谷・東京へと運ばれていく。
そんな物流の要に工場が位置し、セメント生成のラインに沿って建物が配置されている。
建築としての造形の基調となっているのは、ゆるやかなヴォルト屋根と、軽やかな障子のようなカーテンウォールの外壁だ。(中略)
屋根のスカイラインは、そのまま秩父の山並みのメタファー(暗喩)だろうか。」(埼玉新聞2013年6月5日「埼玉の建築スケッチ」の連載第44回目『徹底的な合理の美(旧秩父セメント第二工場)』より
◆諸井恒平と埼玉学生誘掖会
諸井恒平はまた、経済だけではなく、明治33年(1900)渋沢栄一・本多静六とともに、埼玉県の学生のための寄宿舎「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」を都内に創立し、教育支援にも尽力しました。
◆諸井貫一(もろいかんいち・恒平の長男)12代目
日本経済界のリーダーとして活躍
東諸井家12代当主。
秩父セメント(現太平洋セメント)社長、秩父鉄道会長、埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)会長、日本煉瓦製造会社会長を歴任し、1948年(昭和23年)には秩父セメント会社の3代社長に就任。
本庄市の仲町郵便局局長を14年間務めました。
経団連、日経連、経済同友会の創設に参加するなど、財界活動にも積極的に取り組まれました。
日経連では初代会長に、経済同友会では初代代表幹事に就任し、日本経済界のリーダーとして活躍しました。
諸井貫一は、日本経済界のリーダーとして、
「マジョリティ(多数派)が現在を作り、マイノリティ(少数派)が未来を創る。全員反対したものだけが一考に値する。経営者はこうしたマイノリティの理論を駆使しなければならない」と経営者の心構えについて述べています。
諸井貫一によって奉納された「寳登山神社の大鳥居」( 埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞 )
◆秩父鉄道(令和元年11月8日創業120周年)
~「生活(交通インフラ)」・「観光(長瀞・秩父)」・「産業(セメント事業)」が一体となって発展~
明治32年(1899年)11月8日、「郷土の発展には鉄道が不可欠」という信念のもと、柿原万蔵は上武鉄道(秩父鉄道の前身)を創業します。明治40年(1907年)頃、日清戦争後の不況により経営危機に陥り、渋沢栄一による資金援助を受けました。その際に、秩父鉄道の経営陣として諸井恒平が加わりました。恒平は武甲山の石灰岩に注目し、セメント事業を視野に入れていました。大正3年(1914年)秩父駅まで開通。大正5年(1916年)には秩父鉄道(株)と改称。大正11年(1922年)からは秩父セメントにも輸送し、業績を伸ばしました。
■初代社長 柿原万蔵(1899年就任)
■2代社長 柿原定吉(1907年就任)
■3代社長 諸井恒平(1923年秩父セメント設立・1925年秩父鉄道社長就任)
秩父鉄道はまた、現在まで観光開発にも力を入れてこられました。
■【秩父鉄道直営事業】「長瀞ライン下り(1923年営業開始)」「宝登山ロープウェイ」「宝登山小動物園」「有燐倶楽部」「ガーデンハウス有燐」
■【秩父鉄道関与事業】「長生館」「養浩亭」「秩父自然博物館(現・埼玉県立自然の博物館)」
【秩父鉄道の路線】
◆諸井勝之助(もろいかつのすけ・貫一の婿養子)13代目
曾祖父は尾高惇忠と渋沢栄一
東京大学名誉教授(企業会計)、LEC会計大学院学長顧問、公認会計士審査会委員。
その他の多才な諸井家の人々
◆諸井時三郎(泉衛の三男)
日本最初のビル・ブローカーとなった人です。
時三郎はまた、「春畦(しゅんけい)」と号して、書家としても有名です。
書の大家である西川春洞に学び、2,000人を越す門弟の中で、「春洞門下の七福神」と称せられました。
妻クラ(号は「華畦」)も七福神の一人です。
◆諸井四郎(泉衛の四男)
東亜製粉の社長を務めたほか、西部鉄道株式会社・秩父鉄道会社・東京毛織会社の取締役を兼務。昭和8年には日本レンガ製造会社専務取締役、兄恒平の没後は同会長となる。
◆諸井六郎(泉衛の五男)
官界に入って外交官となり、中国、イギリス、ベルギー、ドイツ、アメリカ、イタリア他数か國で領事、外交書記官、公使などを歴任。
また、六郎は、歴史に深い関心を持ち、明治45年に『徳川時代之武蔵本庄』を出版しており、郷土史研究の名著として高い評価を受けています。以降、本庄の歴史書のほとんどが同書を原点としています。
◆諸井三郎(恒平の三男)
日本作曲界のパイオニア
諸井三郎は、ドイツ音楽の技術と精神を学び、日本クラシック音楽初期に本格的なソナタや交響曲を残した作曲家です。
本庄中学校、本庄東中学校の校歌も作曲されています。
三郎の長男には、実業家の諸井虔(もろいけん)、次男に音楽評論家の諸井誠がいます。
※「新公開 諸井(三)家文書 ―近代へと続く道―」(平成26年6月開催資料・埼玉県立文書館)・「諸井家一般公開資料」・「本庄のむかし」(柴崎起三雄著)・「本庄人物事典」( 柴崎起三雄著)を参照
◆埼玉県立文書館「新公開 諸井(三)家文書」
出典:『新公開 諸井(三)家文書』平成26年6月 埼玉県立文書館にて開催された資料より