◆本堂
成身院(じょうしんいん)の本堂は、百体観音堂(さざえ堂)の北東にあります。
真言宗豊山派の寺で、ご本尊は不動明王です。
児玉三十三霊場の第一番札所となっています。
このお寺の起こりは、南北朝時代より以前と伝えられています。
江戸時代は檀家を持たない寺院で、僧侶を育てる談林(学問所)として高名な僧侶を輩出し、北武蔵四箇本寺の一つとして、現在の児玉三十三観音のうちの10寺を初めとして、上州と武州にわたり100ヶ寺の末寺をもつ繁栄を誇っていた寺院です。
大正8年(1919年)の火災で本堂を失い、79世猪鼻元照和尚は※失意の内に翌年亡くなり、その後無住職となりました。
昭和49年(1974年)、庫裡(文政7年・1824建立)を改修し本堂が再建されました。
※寛政7年(1795年)、元映上人によって建立された百体観音堂は、明治21年(1888年)の火災により焼失しました。79世猪鼻元照和尚は、20年余の歳月をかけて明治43年(1910年)、百体観音堂を再建しました。ところが、9年後の大正8年(1919年)に、今度は、本堂が火災に遭いました。2度の火災に遭った79世猪鼻元照和尚は、翌年失意の内に亡くなりました。
◆仁王門
仁王門には山号「平等山」の扁額が掲げられています。
門の両脇には、江戸時代創建の金剛力士像(仁王像)が祀られています。
◆山門
■正式名称:平等山 金剛寺 成身院
■宗派:真言宗豊山派
■御本尊:不動明王
■開山:元空上人(南北朝時代の康永年間1342-1344年頃)
■中興開基:足利持氏(1399年)
■中興開山:元昭大和尚(1399年)
■札所等: 児玉三十三霊場(第一番札所)
■本庄市指定有形文化財
◆成身院百体観音堂(じょうしんいんひゃくたいかんのんどう)
◆「成身寺百体観音堂」建立のきっかけ
~天明3年浅間山大噴火の犠牲者への供養としての百体観音堂~
百体観音堂(さざえ堂)」建立のきっかけは、天明3年(1783)の浅間山大噴火です。
火砕流や岩屑なだれによる洪水で1500人余の人が亡くなり、多くの遺体が流れ着いた戸谷塚(現 伊勢崎市)では、村人総出で収容し埋葬しました。成身院69世元真上人は利根川の河原に壇を築き、近隣の僧と共に、七日七夜法華一万部を読誦して弔いました。
さらに、元真上人は、百体観音像造立を発願しましたが、果たせずに亡くなりました。
弟子の元映上人は、大日如来像造立の寄進を勧めるとともに、江戸に上って観音堂建立のために寄付を呼びかけました。
観音堂は、寛政7年(1795年)完成しましたが、火災により焼失し、現在の百体観音堂は79世猪鼻元照和尚によって明治43年(1910年)に再建されたものです。
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■寛政4年(1792年):百体観音像完成(元真上人発願・元照上人建立)
■寛政7年(1795年):観音堂完成
■明治時代の廃仏毀釈:成身院は無住寺となる
■明治21年(1888年):火災により観音堂焼失
■明治43年(1910年):現在の百体観音堂は、79世猪鼻元照和尚が、地元小平地区の寄進と尽力でにより20年余の時をかけて再建したもの(戦後の荒廃期には半数の観音像が盗難に遭う。その後観音像の寄進をお願いした結果、現在の姿となる。)
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◆児玉三十三霊場巡り
~浅間山大噴火の犠牲者への供養としての児玉霊場めぐり~
百体観音堂建立と同じく、「児玉三十三霊場めぐり」も、江戸期天明3年(1783年)の浅間山大爆発による犠牲者の供養が始まりと伝えられています。人々は児玉地方の三十三ヶ寺の巡礼を重ね震災犠牲者の心の平安を祈願しました。
◆さざえ堂とは?
さざえ堂(栄螺堂)は、江戸時代後期に関東~東北地方に見られた特異な建築様式のお堂です。
螺旋構造をもち、外観がサザエに似ていることから通称でさざえ堂(栄螺堂)と呼ばれています。
順路に沿って三十三観音が配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶う合理的な構造となっています。
※本庄と太田のさざえ堂は百体観音(西国三十三・坂東三十三・秩父三十四)
※会津のさざえ堂は三十三観音(西国三十三)
この構造は、「右繞三匝(うにょうさんそう」という仏教の礼法に基づいています。仏教では、右回りに3回匝る(めぐる)ことが死者に対する最上の礼をつくすという意味があります。「右繞三匝(うにょうさんそう)」の礼法にちなんで、さざえ堂は本来は「三匝堂(さんそうどう)」と呼ばれます。
◆日本三大さざえ堂
「本庄のさざえ堂」
埼玉県本庄市の成身院(じょうしんいん)、寛政7年(1795)建立・火災により明治43年(1910)再建、本庄市指定文化財
「太田のさざえ堂」
群馬県太田市の曹源寺(そうげんじ)、寛政10年(1798)建立、日本に現存するさざえ堂のなかでも最大規模、国の重要文化財
「会津のさざえ堂」
福島会津若松市飯盛山の円通三匝堂(えんつうさんそうどう)、寛政8年(1796)建立、国の重要文化財
◆唐銅造大日如来坐像(からどうづくりだいにちにょらいざぞう)
像高85cmの金剛界大日如来で、台座に「御鋳工武州金屋住倉林治兵衛国義 補鋳工野州佐野住丸山林八長暉」とあり、本庄市児玉町の 金屋鋳物師が郷土に残した文化遺産と言われています。本庄市指定有形文化財となっています。
◆大鰐口(おおわにぐち)
大鰐口は寛政7年(1795年)に鋳造されたもので、明治21年(1888年)の観音堂の火災でも奇跡的に残ったものです。
直径180㎝、厚さ60cm、重さ750kgもある大きな鰐口です。本庄市指定有形文化財に指定されています。
◆起点足型
観音堂正面には、百観音霊場の「起点足型」があります。
起点の下には百観音霊場の境内の土が埋められています。「この足型を踏む人に、上記各霊場巡拝と同じ功徳があります様に」と書かれた木札が、横の柱に掲げられています。
◆三仏様
◆左「薬師如来像」寛正7年(1466)
◆中央「阿弥陀如来像」応永12年(1405)
◆右「釈迦如来像」応永12年(1405)
百体観音堂よりも350年~400年くらい古い室町時代に作られたものです。
これら三仏は成身院境内堂の三仏堂の本尊でしたが(三仏堂の)老朽化に伴って、現在は百体観音堂(さざえ堂)の2階に安置されたとのことです。
◆護摩堂
◆1F(秩父三十四観音霊場)
◆2f(坂東三十三観音霊場)
◆3f(西国三十三観音霊場)
(下へ向かう階段)