~こころの時代~宗教・人生~・選「“今ここ”に気づく」2019年12月8日放送~
◆こころの時代 『"今ここ"に気づく』
2019年12月8日(日)NHK Eテレ「こころの時代『今ここに気づく』」が放送され、タイで出家した日本人僧侶プラユキ・ナラテボー師がご出演されました。
今回の放送は、2018年10月28日の再放送です。
「こころの時代」は、人生のさまざまな困難を乗り越えた人々の生き方をたどるNHKの長寿番組です。
本放送が毎週日曜日 午前5時〜6時に、再放送が毎週土曜日 午後1時〜2時に放送されています。
◆プラユキ・ナラテボーさんについて
プラユキ・ナラテボー師は、1962年埼玉県生まれ。上智大学哲学科卒業。現在タイ・スカトー寺副住職です。
これまで2,000人以上の不安や悩みを抱ええた日本人が、スカトー寺を訪れています。日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、瞑想会などが大盛況のもと開催されています。
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このたびNHKの放送を拝見しまして、プラユキ師が、かつて戸谷八商店の隣にお住まいになっておられたことを思い出し、とても温かい気持ちになりました。
現在、プラユキ師がタイと日本で、多くの人たちの心の安らぎのために大変ご尽力なさってることを知り、とても感動しています。
先日姉が、子どもの頃プラユキ師と遊んだ思い出を話しておりました。さらに、上智大学出身という共通点もあって、とても光栄に思っております。また、本庄市にも、かつて講演にお越しいただいたことを聞いております。
このようなことから、プラユキ師のすばらしいご活動を本庄の人たちに届けられたらと思い、恐れ多いことでございますが、戸谷八商店のホームページにプラユキ師のことをご紹介させていただきました。
昭和50年頃の中山道沿いの写真
◆プラユキ師と仏教
番組では、プラユキ師が仏教に関心をもたれたきっかけについて尋ねられていました。
「そうですね。一番のベースは、母親ですよね。非常に母は真面目に何事もやるタイプという感じだったんですけど、特にお経読んだりとか、母は保育園に勤めたりしていたんですけども、勤めていた保育園が浄土宗のお寺だったりして、そういったこともあって、信仰心もありました。それで「みんなが幸せになるように、人さまのため」という、そういったボランティア活動とか、そういったことも非常に熱心にやられていて、そういった後ろ姿をちょっとズーッと見てきて、なんかそういったものがじわじわと自分も仏さまを大事にしたりとか、みんな一緒に幸せになりたいという、そういった気持ちが、そういったところから薫陶を受けたのかもしれませんよね。」
◆プラユキ師の手動瞑想
プラユキ師は、大学在学中より、ボランティアやNGO活動に関心をもたれ、深く関われたそうです。
上智大学卒業後は、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究されています。
1988年には、瞑想指導者として有名な「ルアンポー・カムキアン師」のもとに出家され、以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動されています。
プラユキ師はまた、ブッダの教えをベースに不安を抱える多くの日本人のサポートを行ってこられました。
心の安らぎを取り戻してもらうために実践しているのが「手動瞑想(しゅどうめいそう)」です。
手動瞑想とは、手を繰り返し動かし、今この瞬間に意識を向ける修行です。
ブッダは、「過去や未来を思いわずらうのではなく、今をしっかり見つめることで、自由な生き方ができる」と説かれました。
プラユキ師は、ブッダの教えを読み解きながら、「手動瞑想」を紹介し、心をどう調えていったらいいかについて、これまで多くの人々を導かれてこられました。
「手を動かしながら、手の位置をしっかりと気づいていく。手動瞑想をすると、「いまここ」に帰って来られます」
出典:「気づきの瞑想・マインドフルネス・いまここ」ホームページ
~「気づきの瞑想」のポイントを解説されるプラユキ師~【福祉交流センター】2013年11月17日より
◆タイでの修行
タイで修業を始めたプラユキ師は、当初壁にぶつかっておられたそうです。
集中して瞑想ができるようになったのはいいけれども、それによってかえって、集中を妨げるような外部の出来事が生じたとき、心が乱れてしまったそうです。
集中系の瞑想で壁にぶつかっていたプラユキ師に対して、お師匠様のルアンポー・カムキアン師は、ブッダが教えた瞑想の一番の核心を諭されます。
「瞑想というのは、ただ集中して静かになっていって、そこにしがみついて、その境地にズーッとはまり込みなさいということではない。そうではなくて、どういう心の現象であっても、それが例えばそういった静かな時も、あるいはちょっとフッと何かいろんな思考が湧いてきたり、雑念とか妄想とか、と言われているものが本当に湧いてきても、あるがままにそれ気づいてみることだよ。こっちの修行がよりブッダの教えた瞑想の一番核心なんだよ」
◆瞑想 2つの方法論
「集中系の瞑想」と「気づきの瞑想」
瞑想には、「集中系の瞑想」と「気づきの瞑想」の2つの方法論があるということです。
「集中系の瞑想」は、日本人に比較的親しまれておりまして、呼吸瞑想など、集中して心を安定させコントロールしていく瞑想です。
それに対して、「気づきの瞑想=手動瞑想」は、コントロールはまったくせずに物事をあるがままに観察する瞑想です。
「手動瞑想法はそれの非常にダイナミック版というような感じのの瞑想法なんです。しかしコンセプトは同じなんですよ。手動瞑想法の方も、正しくやればちゃんと観察して気づいて覚醒していくという。集中して心を安定させコントロールしていくのが集中瞑想の目指しているところなんだけど、手動瞑想は全然そういうコントロールは要らないんですよ。ただ本当に生じてくるものを、ほんとに起こってくるがままに、ただちゃんと観察して気づいていく。そういったようなスタイルの瞑想法であるということです。」
ブッダが大事にしたのは「気付き」と「洞察」ということを重視した瞑想法であったということです。
◆「手動瞑想」を行うときに大切な2つのこと
プラユキ師は、「手動瞑想」を行うときに、大切な2つの点について述べられました。
①「気づき」の感覚
自動的に手を動かすのではなく、その都度「気づき」を入れていくことが大切です。
手の感覚にずっと集中し続けるのではなく、パッパッと手の位置を確認するような感覚。
手を後ろにまわしてジャンケンしたときに、何が出ているか気づいている感覚。
それが「気づき」の感覚です。
②雑念が出てきたときの「対応」について
「反応ではなく対応を・否定ではなく受け止めてあげようと対応すること」
手動瞑想をやっているときは「今ここにいる」ますが、いつの間にか、「心の癖」「雑念」が出てきます。
雑念がわいてきたときに、「ダメだ」と言って攻撃すると、どんどん思考が増幅して、それがまた苦になってしまいます。
そうではなく、心を開いて「受容してあげよう」「受け止めてあげよう」と対応することが一番重要であると述べられました。
「ですから、一番大事な対応は、「受容してあげよう」「受け止めてあげよう」という感じ。どういう感じかと言ったら、「ブツブツブツ起こってきたな、OK(オッケー)」みたいな。
ただあるがままにそれを起こってきたものとして認めてあげて、そしてそれまたパッと「今ここ」に戻ってくる。このプロセス、何かクッションみたいな、これすごい大事です。」
手動瞑想によってそのプロセスを繰り返すうちに、仏教的には「捨」の力、すなわち、「受容力」や「手放す力(無執着力)」が培われてくると述べられました。
「気づいて「ブツブツ・・・OK」そうしたら「受容力」がどんどんどんどん培われていくんですよ。「受け止める力」が。
仏教語で「捨(しや)」という言葉あります。「捨てる」と書いて、あれは別に無関心という意味ではなくて、「無執着(むしゆうちやく)」という意味なんです。「手放せる力」なんです。「ブツブツ(雑念)・・・受容OK」そういったプロセスを経ていくことによって、受容力も培え、そして無執着力というものも培えてきます。」
「こうやって心って起こってきて、そのまんま知らず知らずのうちにやっていると、どんどんどんどん膨らんできちゃって、苦しみも増えていく。でもパーッと手放すと、また今度は楽になっていく。ああ、こうやって苦しみって起こるし、こうやって苦しみが消えていくんだな」ということがどんどん体感的にわかっていくのが「洞察力」、「智慧の力」ということになるわけです。ですから何が何度起こっても、全部学びになっていくというか、それが自分のパワーになっていくというか、そんな感じになるんですよね。」
◆「怒り」について
「怒っている」ことがまず見えてくると、今度は怒りがどんどん暴走するんじゃなくて、より奥の気持ちの方に目がいくことが可能になってきます。「怒りには必ず原因がある」は、ブッダの教えです。」
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■「気づきの瞑想=手動瞑想」によって「怒り」の感情に及ぼす影響
・「怒り」に気づく
・その奥にある「満たされないもの」に気づく
・「怒りはその満たされないものをどうにかしてくれという叫びである」ということが見えてくる
・「その満たされない辛さの奥には願いがある」というところまで見えてくる
さらにあるがままに眺めていると、
・「その願いをもっと大事にしてあげよう」という意識が出てくる
・「その奥にある願いを叶えていくには本当にどうしたらいいのだろう」という意識まで出てくる
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「自分に生じた思考や感情に巻き込まれずにただそれに気づき、覚めた意識であるがままに眺める練習をします。自分の心の動きに少しでも早く気づくようにするのです。」
「一言で表現すれば「怒る人」から「怒りを見る人」になるということです。」
「さらに続けていくと、やがて苦しみが「私」や特定の誰それのものではない、苦しみそのものとして体験され、理解されるときがやってくる。こうして「私」から解放された苦しみは、以降、他者を深く理解し、他者とより密につながる紐帯の役目を帯びはじめる。そして、他者を受容する力、他者と共感する力として展開していくのです。」
「人生はほんとに多様なものが起こってくるけど、ちゃんとすごくシンプルなポイントを押さえた対応さえすれば、誰でもがシンプルにある種変容を遂げて、また良い関係をそこに生み出せるのです。」
◆nhkラジオ「宗教の時間」より
『心のホームに帰る―タイの日本人僧侶プラユキ・ナラテボー』(2016年11月20日放送)
NHKEテレ「こころの時代」の2年前の2016年11月20日に、NHKラジオ番組「宗教の時間」で、『心のホームに帰る―タイの日本人僧侶プラユキ・ナラテボー』が放送され、「心のホームに帰る」ことの大切さについて述べられました。
「今ここを、心を開いて受け止めていく、あるがままに。
痛みも痒みも、暑さ寒さやお腹がすくのもすべて身体の知恵なのです。
だからそれらの感覚にも「ありがとう」ということです。手動瞑想や歩行瞑想といった動きを伴う瞑想を重点的にやっていきなさい。」(ルアンポー・カムキアン師の言葉)
◆悩みを抱いている人にとっての大きな転換点とは?
悩みや苦しみを抱いているときは、外側に何か場所を求めていたり、具体的なところに解決があると思っていることが多いです。「こんな世界には、私は生きてはいけない」と思い、どこにも居られなくなって心がさまよっている状態です。
手動瞑想を続けていくと、悩みを抱いている人にとって、大きな転換点が訪れます。
すなわち、拠り所とできる場所、自分の心のホームは、外ではなく「今ここに」あったという気づきが起きます。自分の心の拠り所が今ここにあることに気づき、確信できたとき、その人にとって内面の大きな変革が起こります。
そして、気づいた後は、たとえ何があってもいつも絶対安心の場所がここにあり、いつでも心のホームに戻ってこられるようになります。
「心の帰って来られる場所」についての気づきが起きたとき、
「今ここを拠り所にし、自分の心にホームを持っている」という気づきが起きたとき、深いやすらぎが内面に訪れる
(30代DVの家庭で育った女性が大きな気づきを得た具体例)
「彼女にとって、先ほど申し上げた虐待を受けて非常に自己嫌悪、そして世界に対して苦しみを抱いていた方が大きな変化のきっかけになったのが、まさに「自分の帰って来られる場所」に気づいたということなんです。
というのは、今まで彼女は、そういったいうなれば外側に何か場所を求めていたというか、それはお父さんお母さんがいる過ごした家とか、そういった具体的なところにあると思っていたんだけど、そういうものでもないと気づかれた。
自分が過去や未来、あるいは苦しみのイメージやいろんな物語からしっかりと戻ってこれる、拠り所とできる場所があったというか、ここって本当の自分の心のホームなんだってということに気づかれた。
そういったことをぽろっと気づいて語られたんですよね。それが凄い大きな転換になりましたね。
それまではもう本当に「こんな世界には、私は生きてはいけない」という、そんな感じでどこにもこう居られなくて、心がさまよっていたのが、ちゃんと自分に拠り所ってあるじゃない。今ここにあるじゃないということを自覚できた、確信できたというのが、非常に彼女には大きな変革、きっかけにはなりました。(中略)
「プラユキさん、わかりました」的な感じで、また言われたんですよね。「何が?」という感じで問いかけたところに、「私、わだかまりで何かこう混乱して、互いに憎しみあったり、喧嘩したりしていたんですね」。「どういうこと?」っていうと、「お父さんって凄く暴力ふるって悪い人だというか、そんな感じだったけど、お父さんは今は自分のようにわからなくて、充たされないものがあって、なんかそれが怒りになったり、暴力になったりしていたんですね。それを私もわからないから、それにまた憎しみを感じて、またお父さんに罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたりとか、そういった感じだったんですね。プラユキさん、無明(むみよう)って悲しいね」みたいなそんな感じのことを言われたんです。」
◆他者と共感する力が高まる
~「私」から解放された苦しみを通して
「心のホーム」に対する気づきが起きてくると、周りの人たちへの意識にも変化が現れてきます。
これまで人を憎んだり争ったりするときは、相手のこの部分が悪いときめつけて憎んできたかもしれません。けれども、「今ここにある心の拠り所」についての気づきが起きると、周りの人たちも、心の拠り所がわからなくて満たされていなくて、怒りとなって現れ出てきていたことがわかってくるのです。
手動瞑想を続けていると、やがて苦しみが「私」や特定の誰それのものではない、苦しみそのものとして体験され、理解されるときがやってくます。こうして「私」から解放された苦しみは、それ自体、他者を受容する力、他者と共感する力として展開していくのです。
◆プラユキ師からのメッセージ
今日本人に伝えたいメッセージについて尋ねられ、プラユキ師は以下のように述べられました。
「一つは、「無理しすぎないでいいよ」ってことですね。まぁ人に頼ったりしてしてもいいし、孤独になっていろいろ考え込んで悩み苦しみを深めていくということで、それが自殺に至ったり、あるいは精神を病むような所に至ったりする。でもそうじゃなくて、よく周りを見回して見ればやっぱりそういった人を思いやって何か助けてあげようとしている人がいたりする。自分でもどうにもならないようなものが、そういう人たちとの出会いによってもちょっと元気になっていく。そういったものから離れていける。自分が辛いところを、ちょっと離れてみるということをやりまして、これをブッダはすごくそういったことを大事だよということは実際言っているということですね。
もう一つは、私たちこうしなければならないいろんな物語というか、世間には流通したりしていますよね。「勝ち組、負け組の物語」であるとか、こういう人は負け組だみたいな、やっぱりそういったものってラベルが貼られたりしていますけど、そんなにそこ信じこまなくていいんじゃないか。もっと自分の身体と心をしっかり見て、自分が本当に幸せだなぁって感じるものを、よくよく見てみれば、いろんな生活の一コマ一コマの中に、そういった幸せの種というか、そういうのが見つけられると思うんですよね。そういったことにちゃんと気付いていく。だから即ちあんまり妄想とかで、心ここにあらずに、彷徨わせずにやっぱり「今ここ、今ここ」をしっかり見ていくという、そういったことによって本当に自分らしい幸せというのが、一人一人が見つけていけるんじゃないかなと。そういったことを是非是非日本人の方にお勧めしたいなと思います。」
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※今回参照させていただいたホームページです。
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※プラユキ師公式ホームページ