~利根川のネットワークで結ばれた仲間「花の木18軒」~
世良田(太田市)は、中世では、利根川で一番大きな「港」(川の港・河岸)でした。
450年前、新田家家臣の末裔「花の木18軒」の仲間は慣れ親しんだ世良田から離れ、本庄へと結集しました。
●『諸井貫一記念文集』では、楠正成の死後、諸井家は、南朝の忠臣新田義貞を頼って上野国一本木付近に土着し、その後、1559~1560年頃に本庄に移住したことが書かれています。
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「吾が諸井家の祖先は勤王(きんのう)の志篤く楠氏に従って南朝の為に尽瘁(じんすい)してゐたが、正成(まさしげ)戦没し~中略~遂に同じく南朝の忠臣新田氏を頼って上野国へ来たり一本木付近に土着するに至りしものである。(P492)」
「一本木諸井家の一族たりし諸井監物が一本木を去って中山道の新天地の開拓に志し、同志と共に本庄へ移住したのは大体永禄二、三年の頃である。(P493)」(出典:秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻』1969)
●『本庄村開発旧記』では、関根、戸谷、内田の3名が世良田から本庄に移住したことが記載されています。
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「新田義貞公譜代関根兵庫、戸谷隼人、内田行春の3名が世良田より本庄に引き移り、茅野(ちの)、藪等を切り開き田畑を開墾する。猪、鹿が多く作物を食い荒らす。」(出典:真塩治右衛門『本庄村開発旧記』1826)
11代目
12代目
※9代・10代の母方は太田市細谷の細谷家出身です。
※13代目の桂吉は、桐生市新川の吉田家から婿養子を迎えました。
以上のように戸谷家と群馬県は昔から縁が深い関係があります。
(※戸谷家の分家筋にあたります)
埼玉県立文書館で開催された「戸谷半兵衛展」
(開催期間:平成30年4月24日(火)~7月22日(日))
光盛 通称戸谷三右衛門(1703~1787)
本庄宿で太物、小間物、荒物などを商う「中屋」を興し、財をなして江戸、京都にも支店を持つにいたる。明和8年(1771年)に久保橋(くぼばし)、安永2年(1773年)には馬喰橋(うまくらばし)を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川(かんながわ)に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡し(むちんわたし)とした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する。
光寿(1774~1849)
父が早世したため祖父の後見を受けて2歳で跡目を継ぐが13歳で祖父を亡くし、その後は母の再婚相手である義父横山三右衛門の助力により商才をみがき、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸22ヶ所、京都3ヶ所を所有。「関八州持丸長者富貴鑑(かんはっしゅうもちまるちょうじゃふうきかがみ)」「諸国大福帳」等に名を連ねる豪商となる。その財は立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守等への大名貸し(だいみょうがし)だけでも15万数千両に及んだ。寛政4年陸奥、常陸、下総の村々への小児養育費として50両、文化3年公儀へ融通金千両、文政4年岩鼻代官所(いわはなだいかんしょ)支配の村々の旱魃(かんばつ)救援金百両を拠出。文化9年京都知積院(ちしゃくいん)へ大理石石畳(だいりせきいしだたみ)を寄進。また神流川無賃渡し(かんながわむちんわたし)を継続し、文化12年旅人の安全を祈り神流川に常夜灯(じょうやとう)を建立している。翌13年足尾銅山不況の際に金千両を上納、吹所世話役を仰せつけられる等、数々の慈善事業により苗字帯刀を許されている。名主格年寄役を勤めるが、俳号を「双烏(そうう)」と名乗り、俳諧面での活躍も大きかった。(参考文献:柴崎起三雄『本庄人物事典』 2003)
番付表には3人の本庄宿商人(戸谷半兵衛・森田助左衛門・森田市郎左衛門)が名を連ねています。
「遠祖を楠正成とおなじ橘諸兄とし、正成の湊川合戦討死後、諸井家は上州に退いて土着、200余年後の本庄市築城に際して当地に移り、本庄村の開発に尽力し、「花の木18軒の古百姓」の一軒と称された。その後、一族は3家を興して本庄宿の発展に貢献した。その屋敷位置から、「東諸井」「北諸井」「南諸井」の名で呼ばれた。(P228)」(「本庄のむかし」柴崎起三雄より)
「全員反対したものだけが、一考に値する。経営者はこうしたマイノリティの論理を駆使しなければならない」(諸井 貫一の言葉)
【真ん中】諸井泉衛
【写真左側】逸郎・恒平・時三郎・四郎
【写真右側】泉衛の妻佐久・(佐久の抱いている)六郎・寿満・なみ
「諸井家一般公開資料」(平成9年11月2日本庄駅北口まちづくり研究会)をもとに作成
・諸井監物(かんぶつ)を初代とし、上州から本庄に移住。
・江戸時代、代々「鳥見役」を務める。
・明治5年(1872年)、10代諸井泉衛(せんえい)が初代郵便局長となる。
・居宅を事務所に営業したため、「郵便諸井」と呼ばれる。
・明治12年(1879年)に建築した和洋折衷型の住宅は、埼玉県指定文化財である。
・11代諸井恒平(つねへい)は、秩父セメントを創設。日本工業倶楽部の創設にも関わる。
・恒平の長男 12代諸井貫一(かんいち)は、初代日経連会長。日本経済界のリーダーとして活躍した。
・恒平の兄弟、子供たちは各界で活躍し業績を残している。
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【東諸井家家系図】※「本庄人物事典」(柴崎起三雄著)より
初代監物→2代伝左衛門→3代伝左衛門→4代伝左衛門→5大仙左衛門→6代伝五右衛門→7代仙右衛門元輔→8代伝左衛門為隆→9代泉衛門(弱泉)→10代泉衛(水竹)→11代恒平→12代貫一→13代勝之助
東諸井家10代目諸井泉衛は、前島密の依頼により、明治5年(1872年)、自宅に「本庄郵便取扱所」を開設し、初代本庄郵便局長(当時は郵便取扱役)に就任。
明治10年(1877年)に慈恩寺より出火した火災は、仲町まで飛び火し、諸井家も類焼した。
上記「諸井家住宅」は、10代目諸井泉衛が、大工に横浜市の洋風建築を学ばせ、明治13年(推定)に建築したもの。
コロニアル風のベランダ、漆喰でアーチ状に仕上げた天井、色ガラスの窓など、随所に洋風の建築手法が散りばめられている。
~創立開局日:明治5年(1872年)3月21日~
●明治4年(1871年)、「日本近代郵便の父」前島密によって「郵便制度」が開始。
●明治5年(1872年)、前島密の依頼により、10代諸井泉衛(せんえい)が自宅に、「本庄郵便取扱所」を開設。初代郵便局長となる。
●明治10年(1877年)、慈恩寺火災により「諸井家」焼失。
→諸井泉衛は、大工を横浜につれていき洋館を観察させる。
●明治13年(1880年)、諸井泉衛は、「諸井家住宅」(埼玉県指定文化財)を建設。
※当初は「本庄郵便局」として居宅と兼ねていた。
●郵便局の局長職は、初代局長:諸井泉衛氏、2代:逸郎氏、3代:恒平氏、5代:貫一氏と受け継がれる。
(※戸谷家12代目の戸谷 間四郎は、3代目諸井 恒平氏と5代目諸井 貫一氏の間に4代目郵便局長をしていました。)
●昭和9年(1934年)、諸井恒平が「本庄仲町郵便局」を建て替える。
●平成10年(1998年)、「本庄仲町郵便局」(昭和9年に建て替えられたもの)が「国の登録有形文化財」となる。
初代局長:諸井泉衛氏、2代目:逸郎氏、3代目:恒平氏、5代目:貫一氏
(※戸谷 間四郎も、3代目諸井 恒平氏と5代目諸井 貫一氏の間に4代目郵便局長をしていました。)
東諸井家の人々
出典:『新公開 諸井(三)家文書』平成26年6月 埼玉県立文書館にて開催された資料より
【渋沢家と2重の縁で結ばれた東諸井家】
■初代渋沢宗助(宗安)の娘「加與(加代)」が本庄の「諸井仙右衛門(7代)」と婚姻
■3代宗助(誠室)の娘「佐久」が本庄の「諸井泉衛(10代)」と婚姻
・諸井治郎兵衛を代々襲名。
・中山道北側(現在の本庄市中央)、諸井五左衛門(南諸井)の屋敷の向かいにあったことから、家の北側に屋敷があったことから、「北諸井」と呼ばれる。
・問屋役・年寄り役を務める。
・北諸井家は旅籠屋(浪花講協定の旅籠屋)を営み、「宿屋諸井」として知られる。
・一族の七兵衛も西隣で宿屋を営んでいる。
・諸井治郎(号:採芹)は、関流の和算を上州の岩井雅重に学び、 明治5年に群馬県碓氷峠の熊野神社へ算額を一門で納める。
・諸井治郎は、明治10年前後、維新後に始めた金融業を息子の孝次郎に譲り、引退後、照若町に名園「五州園」を開く。
・明治22年、陸軍演習の際に小松親王を五州園に招き、その眺望を絶賛された。これを記念して「五州山荘記」碑が建立される。※撰文は栗本鋤雲(号:匏菴・ほうあん)。
※五州の山… 赤城山(上州)、三国山(越州) 、浅間山(信州) 、 日光山(野州) 、筑波山(常州)
・息子の諸井孝次郎は明治27年、 「本庄商業銀行」を設立し頭取となっている。その後本庄を離れる。
・諸井五左衛門を代々襲名。
・中山道南側(現在の本庄市銀座1丁目8番16号辺り)にあったことから「南諸井」と呼ばれた。
・名主役(受持ち区域は、中山道南側の自宅から新田町西端に至る一帯)を務める。
・脇本陣を経営している。
・長男の泉衛が東諸井家の養子となったため、弟の興久が「南諸井家」を継ぐ。
・最後の名主諸井興久は、1889年初代本庄町長に就任した。
・小暮雪堂の「本庄八景」に読まれた「笠森稲荷」は、後に南諸井家の屋敷神となる。
・興久の息子諸井巴は、「春風書店」を開業したことから「本屋諸井」とも呼ばれる。
(1733~1810)
「本庄宿本陣を勤める田村家は、戦国時代に本庄村を開発した『花の木十八軒』の中の一軒にあげられる田村権左衛門を祖としている。
寛永10年(1633)、加賀前田侯は江戸の母訪問の際に田村作兵衛方に本陣を置き、これを例に幕府は寛水12年(1635)、参勤交替制を確立した。
寛永19年(1642)、親藩・外様大名の参勤交替が始まると中山道を通行する諸大名の本陣を田村家が勤めるようになる。
田村家では代々作兵衛を襲名し、本陣を営むかたわら元禄年中より年寄役を勤め、宿政にも関与してきた。しかし、時代が明治に変わるとその任務を終え、業務日誌である『諸御大名様御休泊帳』を残して一切の財産は処分されてしまった。(P106)」(「本庄のむかし」柴崎起三雄より)
「田村本陣」は、もともと埼玉りそな銀行本庄支店の西側(本庄市中央1丁目6番付近)にありましたが、門だけが「旧本庄警察署(埼玉県指定有形文化財)」前に移築されています。
「田村本陣休泊帳(たむらほんじんきゅうはくちよう)」は、本庄宿の田村家が経営していた本陣の休泊記録で、参勤交代の諸大名や公用で通行した幕府の高官の名が細かく記録されています。
文久元年(1861)11月11日には、14代将軍家茂(いえもち)に降嫁のため江戸へ向かう皇女和宮(かずのみや)の宿泊記録が残されています。
文久元年(1861)10月20日、和宮一行は江戸に向かって京を出発。約530キロの道中、「24泊25日」の長旅でした。
(生年不詳~1828)
森田助左衛門(豊香)の墓(※墓所は安養院)
森田助左衛門(もりた すけざえもん)家は本庄宿の名主であり、戸谷半兵衛(とや はんべえ)家と共に本庄宿を代表する豪商です。酒造株高は500石で、関東随一の酒造家として知られています。『関八州田舎分限角力番付』では西方最上段に名が表記されています。
※名主としての管轄区域は中山道北側部分、慈恩寺入り口より東側一帯。
4代目森田助左衛門「豊香(とよか)」は、文化13年(1816年)に足尾銅山が不況におちいった際は、戸谷半兵衛、森田市郎左衛門(『関八州田舎分限角力番付』では、西方二段目「田畑」で名が表記)などと共に1000両を上納し、困窮者の救援にあたりました。
(明治9~昭和31)1876-1956
山王堂村に五十嵐九郎の三男に生まれ、3歳の時に石川家の養子となります。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家でした。本庄小学校卒業。明治34(1901)年に東京法学院(中央大学の前身校)を卒業。
翌35年萬朝報社に入り、幸徳秋水、堺利彦等の影響を受け、萬朝報が日露戦争開戦論側に立つと、幸徳、堺等と共に同社を脱退し平民新聞を発刊して戦争反対を唱えました。社会運動家として活動を続けてきた三四郎は、明治36年「平民社」に合流し、平民新聞等を通じて「非戦論」を訴えました。「政府=支配者」を無くし相互扶助を基調するアナキストとしても知られ、生涯を通して社会主義思想による平和をうたい続けました。
この時期、田中正造と行動をともにし足尾銅山鉱毒事件に取り組みました。同40~41年、足尾銅山暴動事件の報道内容を罪に問われ、獄中でカーペンターやクロポトキンの著作からアナーキズムを学びました。石川は、明治43(1910)年の大逆事件に大衝撃を受け、ベルギーや中国のアナキストの支援を受けてヨーロッパへ渡りました。亡命中に出会った、フランスのルクリュ一家とともに百姓生活を送ります。この生活が石川の思想を深化させました。第一大戦後の大正9(1920)年日本に帰国後、デモクラシーを「土民生活」と翻訳※し、独自の「土民思想(どみんしそう)」を主張します。大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としました。(「農本思想」とは、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において異なるものでした。)
大正12(1923)年の関東大震災直後には警察に「保護」とい名目で留置されます。(病気等で)危機的状況でありましたが、親交のあった侯爵徳川義親(よしちか)が「身元引受人」になってくれたことで危機を脱します。大杉栄死後は、三四郎は、日本アナキズムの中心人物の一人となりました。
現在、図書館本館2階には石川三四郎記念室が設けられており、生涯を通して願い続けた平和への思想に触れることができます。
参考文献:北沢文武『石川三四郎の生涯と思想 完結編』(鳩の森書房、1976)/柴崎起三雄『本庄人物事典』 2003/本庄市HP
※democracy(民主主義)を「土民生活」と翻訳したことについて
ヨーロッパ滞在中に、イングランドの詩人エドワード・カーペンターから「Demos」とはギリシャ語で ”土地につける民衆” という意味であるとの説明を受けた石川はそれを「土民」と訳し、「Kratos」の方を「生活」と訳し、『即ち土民生活とは、真の意味のデモクラシイといふことである』と述べています。
”吾等の生活は地より出で、地を耕し、地に還へる、是のみである。之を土民生活と言ふ。
真の意味のデモクラシイである。地は吾等自身である。”
”地の子、土民は、幻影を追ふことを止めて地に着き地の真実に生きんことを希ふ。地の子、土民は、多く善く地を耕して人類の生活を豊かにせんことを希ふ。地の子、土民は、地の芸術に共鳴し共働して穢れざる美的生活を享楽せんことを希ふ。土民生活は真である、善である、美である。”
(石川三四郎「土民生活」より)
碑には、「私は何時も永遠を思ふが故に 時間を限った成業を願はない」と刻まれています。
五十嵐九十九(つくも)氏 ※無冠帝ピープルより
石川三四郎を大叔父に持つ五十嵐九十九(つくも)氏は、以前二度、戸谷八商店を訪ねてきてくださいました。
(石川三四郎の著書には、山王堂に移り住んだ生家に関する記述※があるのですが、その頃の五十嵐家と本庄宿とのかかわりについてお話したり、九十九氏が西武でテーラーをされているお話、利根川の近くにお墓をつくろうとされていることなどをお聞きしました。)
五十嵐氏は、太平洋戦争中は埼玉県本庄市に疎開し、戦後は、石川三四郎の勧めで洋服店に勤められ、日本を代表するテーラーとなられました。シャルル・ド・ゴールの軍服や三島由紀夫の「楯の会」の制服のデザインを担当されています。
五十嵐九十九氏は石川三四郎とゆかりの深い利根川を深く愛され、現在、安養院(本庄市)に五十嵐家のお墓があります。
※五十嵐九十九氏と石川三四郎について詳細はこちらをご覧ください。
安養院(本庄市)にある五十嵐家のお墓
※石川三四郎『石川三四郎著作集 第八巻』(青土社、1977)
「この小部落を開拓した一味は六百年前に新田義貞といふ一人の英雄とともに勤王の師を起して鎌倉幕府を打つた人々でありますが、新田氏が亡びて、故郷の上野(古代の毛の國)に蟄伏し、子孫代々好機の到るのを待つたのでせうが遂にその望を失ひ永祿三年(西紀一五六〇年)に私の出生地たる埼玉縣兒玉郡山王堂を開發したり、諸方を廻つて兵法や算書の指南をしたり、その間は利根川にて魚を取つたりして渡世したと開發舊記にあります。然るに半里ほど隔つた本庄村の方の仲間から頻りに、その村方の開發に加勢せんことを要請して來るので、親類相談の上、弟の九十九完道は依然山王堂村に留まり、兄の大膳長國一家が本庄村西部に移つて大勢の人夫を督して開墾することになりました。當時この地方は茅野や藪野が廣く、猪や鹿が多くゐて作物を喰ひ荒し難儀至極であるといふ仲間の訴へに基き、援に赴いた譯であります。この開拓により、後の中仙道が漸く開通する端緒が始められた譯であります。(p38)」
”利根川の烈しい流れを連想して始めて諒解が出来る”
「私の生地は日本最大の関東平野の一角で、武蔵国(埼玉県)と上野国(群馬県)との境を流れている利根川べりの一船着場でありました。徳川幕府の江戸城下から西北方に百キロメートルを隔てた土地でこの地方と江戸とを結ぶ交通の要衝でした。今は本庄町から伊勢崎に通ずる県道が走り、阪東橋という大きな鉄橋が架っていますが、私が子供の頃は利根川を通る帆船が主要な運輸交通機関であり、私の故郷には何時も大小二十隻以上の帆船が行き来していたものです。御年貢米を始め主要な産物は、みなこの船によって江戸まで運ばれていったのです。いま私の故郷の歴史を顧みますと、この地方の住民がどれほど深く利根川の感化を受け、いかに密に利根川と運命を共にしたかが、しみじみと感じられます。いや、私の故郷だけではありません。関東の大部分がこの利根川の子であると言っても言い過ぎではないでしょう。関東の大平野はその大部分が利根川の流域及び沖積層を以てなり、徳川三百年の歴史はこの利根川の流れによって、もたらされたとも言えるでしょう。…(P26)」
「この平野から生れた古来の政治形態、文化形態は頗(すこぶ)る雄大な姿を示しています。またこの平野からは古くから様々な傑出した人物が出て、歴史に花を添えています。武人で言うならば熊谷直実、秩父の荘司畠山重忠というような特色あり、気品の高い人格者がその一例です。足利氏にも、新田氏にも、また北条氏にも、日本の歴史上、頗(すこぶ)る著名な人物が生れています。三百年間政権を維持した徳川氏は関東平野が生んだ一族ではありませんが、徳川時代の文化に活躍した知識人、学者、芸術家などには、この関東平野に生れた者が多かった。徳川末期から日本の生んだ文化的産物というものは日本の文化の特殊性を発揮したものとして、重きをなするのであって、それは日本の文化史上に特に未来性を持つということが出来ましょう。例えば北斎、歌麿、広重というような絵画芸術家にしても、これは徳川時代の関東平野にして始めて生むことができる芸術だと言えましょう。或いは寛政の三奇人と言われた高山彦九郎、林子平、蒲生君平など、典型的な関東平野の産物です。もっと時代が下れば新島襄、田中正造、内村鑑三等のような個性の強い人物が生れています。彼等は何れも気骨ある性格をもってその特徴としたように思われます。これは関東平野の自然が、自らそこに生れてくる諸人物を教育する結果でありましょう。(P27-28)」
「ところがここにもう一つ注目すべき現象があります。それは関東の平野が人間の個人的な能力に対して余りに大きく、まとまりがつかないという事情によるものです。(中略)この大平野の中心を流れる利根川という大動脈、その周囲から落ちてくる様々の支流、西から北から南から流れて利根川という大主流に注ぐ種々の方向を持った河川が、この平野に住む民衆の社会的団結を妨げたのだと言えましょう。徳川幕府という大きな勢力、または日本政府という大きな勢力によって関東八州は一つの政治団体の一部分にはなりましたが、関東八州そのものは独立の組織にはならなかったのです。ここに関東としての政治生活、社会生活の特徴が現われています。その特徴は、一つにまとまらないという点にあり、関東八州が一つの政治的勢力にならない理由がここにあるのです。前にあげた高山彦九郎、林子平、蒲生君平の三人はみな関東から生れた人物ですが、一種の奇人として伝えられただけで、一つの組織された勢力をつくらず、政治的には殆んと何の影響をも日本の社会に与えていません。また田中正造翁はあれだけの大運動を渡良瀬川並びに利根川沿岸に起した立派な聖者でしたが、一種の奇人ででもあるかのように世間一般には伝えられています。(中略)関東から起ったさまざまの人物や学説を見るに当っては、この点を注意しなければならないと私は思いますが、どんなものでしょうか?(P28-30)」
「国破れて山河あり、大利根の奔流(ほんりゅう)は依然として関東の大平野に注ぎ、更に、妙義、榛名、赤城の深い諸溪谷から流出する吾妻、烏、御陣場等の諸川はその渾々(こんこん)と尽きない清泉をこの利根川に注いでいます。
この流域に成長する桑は世界に稀れな良質の餌を蚕に供給するのです。従って、この流域に産する蚕糸が、また他に比類なき良質をもって有名になりました。明治時代になって、日本で最も早く近代的製糸工場が建てられたのはこの付近でした。絹織物がこの地方から産出されて地方の名産となったのは当然でありました。秩父銘仙、伊勢崎銘仙などは、まさにその一例です。これは利根川の生む文化の一片鱗と称すべきでありましょう。明治維新並びに交通機関の発達、即ち鉄道の敷設に伴う経済革命に亡ぼされた私の故郷は、今や再び大利根の恵みによって復活の呼吸を吹きかえしつつあると言えるのです。自然は奸悪な人間に対して惜しみなく慈愛を注ぐのであります。(P33)」
「この利根川は四六時中、その流れを停止することなく、常に慈愛の波を住民の前に湛(たた)えるのであるが、しかし、時あってか、滔々(とうとう)たる濁流を氾濫せしめて、或いは堤防を決潰(けっかい)し、或いは人畜、或いは民家を押流し、また暴風の際などはその旋風(せんぷう)が人家の屋根を吹き上げ、利根川の水を川魚と共に空中に高く捲(ま)き上げて、空一面を真黒の渦と化し、不意に人々の恐怖をかきたてます。それは実に河畔の住民のみが知るところの驚異であります。茫漠(ぼうばく)たる広い小石河原が一夜の内に一面の泥奔流と化し、高い両岸の堤防をも越え溢れんとする、すさまじい光景は単なる自然現象と思われないほど神秘な印象をさえ感じさせます。質朴な村民達が心から厳粛に水神様を奉祭する所以がおのずから諒解されるのです。それと同時に、この地方の住民が一体に熱狂的な気質に富んでいるのは、また自然現象のこうした光景の自らなる感化によるものではあるまいか、とも思われます。利根川は偉大な活物である、とさえ私は常々考えています。前に話した寛政の三奇人でも、田中正造翁でも、内村鑑三でも、新島襄でも、みなこの利根川の烈しい流れを連想して始めて諒解が出来ると思います。(P34-35)」『石川三四郎著作集 第八巻(青土社)』より
「利根川の帆掛け舟」(本庄市西沢写真館蔵) ※『本庄地元学だより』(増田未来望著)より
※10艘ほどの帆掛け舟が利根川で漁をしている風景がみえます。
「本庄八景」(幕末)の一つに「利根川帰帆」があります。
利根川には「高瀬舟」が行き来し、その港として、各地に河岸が栄えました。
江戸時代になると、沿岸には多数の河岸ができ、江戸と結んでいました。本庄宿には、「一本木河岸」と「山王堂河岸」がありました。江戸へは(下り荷)は、米、薪、炭、木材などを、江戸からは(上り荷)、塩、醤油、干鰯(ほしか)、瀬戸物、お茶などが、木造の高瀬船で運ばれていました。
◆『利根川筋河岸場紛争 本庄宿外港としての一本木河岸および山王堂河岸』島崎隆夫著(1954 )より
遠く江戸表との物資の交流や、遠隔地との交流、連絡には、主として中山道の交通網を利用する「陸運」と、利根川を利用する「水運」との二つの交通機関によっていた。とくに、かかる交通機関の整備利用は、諸侯の江戸への年貢米、蔵米の運搬、地方米穀の江戸市民への供給という必要よりして発展せしめられたものである。
「陸運」による物資の運搬は、中山道その他の諸街道に施設せられていた交通組織を利用して行われていた。すなわち、本庄宿の私貨の運搬は主として、「享保3年(1718年)紙屋平左衛門、飛脚屋を上州高崎に始め、同14年(1729年)島屋佐七、飛脚問屋を上州伊勢崎に開き、享保20年(1735年)近江屋五兵衛、飛脚問屋を上州藤岡に開き、宝暦元年(1751年)江戸飛脚商等、上野国より三都に通する定期飛脚を開き、その賃残を定め」、これによって行われた。しかし、その運搬する貨物の数量には自ずから限度があった。
陸運による江戸表とは別に、利根川を利用する「水運」による物資運搬が早くより開かれていた。利根川は、申すまでもなく、関八州の大動脈を形成した。江戸幕府は開府とともに、江戸川、荒川、利根川の水運に着目して、河川の浚渫(しゅんせつ)、開疏(かいそ)に努力し、だびだび行われた大規模の利根川の治水工事=河川の改修は、単に治水の目的以外に、利根川を利用しての水運の利用を一層拡大するというひとつの重要な目標がおかれていた。
河川改修のうち、文禄3年(1594年)新利根川の開疏、元和7年(1621年)以降伊奈氏の新川道および寛永17年(1640年)あらたに関宿より江戸川を開疏した改修事業は極めて重要であって、これによって利根川の水運は非常な便宜を得た。
江戸表より上州、北陸方面への水運は江戸川を遡江(そこう)し、関宿より利根川本流に入り、利根川と烏川の合流点以下が急に水量が増すことを利用して、大型船は下流より平塚河岸、中瀬河岸にまで及び、(大型船の遡江は古は、八丁河原を終点としていたが、後に山王堂河岸より中瀬河岸へと下流に推移していった。主として洪水その他を原因とする川床、水流の変化による)そこにおいて、積替を行い、そこより上流は主として上州のシッポ切りと呼ばれる小舟を通じ、川船遡江の終点である烏川においては倉賀野河岸にまで及び、それより上流の水運は困難で、陸運によった。
水運の発達とともに、利根川を利用しての物資の移動は激しくなり、それにつれて、利根川沿岸には、下流より上流まで、河岸場(かしば)が数多く開設され、無数の問屋がそこに発達してきた。
河岸場の問屋は相互に組合を結成し、川船役所に統括され、文化、文政度には組合の基礎も固く、利根川の上、中流より江戸川筋には利根川の南側と北側にいわゆる「南通し」「北通し」の二大組合が組織され、さらに、関宿より上流と下流にはそれぞれの側に組合が組織されて、厳重なる統制が行われた。幕府はこれら組合を掌握するのみでなく、利根川を通過する街道の重要なる渡河点には、「川関所」(中川関、市川関、松戸関、栗橋関、川俣関、五料関、中瀬改所)を設け、往来の旅人や荷物を検査した。
水運によって運搬された貨物は、天領旗本領および、関東、中山道、北陸諸侯の年貢米、蔵米の廻漕を第一とし、つづいて諸種の財貨があった。江戸が消費地としての膨張するに伴い、米穀(べいこく)、薪炭(しんたん)、木材等をはじめ、各種の農産物、農産加工物にいたるまで需要が増大し、それに対しての供給地である広範なる関東内陸、中山道、北陸の諸地方は、利根川の水運の便に結ばれて、非常に重要な供給地となり、広く各地よりの産物が河岸場より津出し(港から物資を送り出すこと)された。他方、各地の村落は、大体自給自足的であったとはいえ、海産物たる魚貝藻や魚肥、特に塩は生活上必需品である関係より、江戸表を通じ、赤穂塩(あこうじお)、江戸斉田塩、行徳塩、が多量に農村に送り込まれ、その他の物資と相まって、江戸より農村への輸送量は増大し、河岸場より農村に入り込んだ。かくて、利根川の水運の急速なる高まりは、遂に利根川沿岸に、廻船問屋、河岸場の開設を進めるにいたったのである。
利根川「南通し」の山王堂、一本木および中瀬河岸等は、本庄宿の急速なる発展と、大型船遡江がおおむねこの付近にまで制限されてきた関係より、奥地への積替、水運より陸運への切替とを根因として、水運の発達・河岸場の繁栄は一層著しいものとなった。
本庄宿に対して行われた揚荷(あげに)および、江戸表その他の地への積荷(つみに)は、従来より本庄宿の外港としての利根川の「一本木河岸」および「山王堂河岸」、深谷宿の外港としての「中瀬河岸」を通じて行われた。これらの河岸は、前述のごとく、利根川利用の大型船の積荷換地(つみにかんち)として極めて重要な地位を占めていたとともに、その背後にある宿場町、農村の成長に伴い、水運の中心地として、問屋その他の施設が備わってきた。
一本木河岸は山王堂河岸と並んで本庄宿の外港であった。一本木河岸の名は、他の諸河岸よりもずっと古くから知られ、本庄宿より上州境町、太田、足利、桐生の諸町連絡する交通路の重要な渡津(としん)であった。
中瀬河岸は深谷宿の外港であったが、本庄宿とも密接な関係にあった。対岸の上州平塚、徳川河岸への渡場を経て、伊勢崎、前橋を経て、三国街道へ、両毛地方と北武蔵とを連絡し、高崎、中山道への物資、川船(かわぶね)の改番所(あらためばんしょ)として、関所が設けられた。特に、天明年間浅間山噴火以後、漸次利根川、烏川の川床が堆積されるに伴い、遂に元船(※小船に対して、大船のこと)の遡江終点となり、明治年間にいたるまで利根川屈指の河岸場として繁栄を極めた。申すまでもなく、これら三河岸のうち一本木・山王堂両河岸は本庄宿の外港として特に重要であった。
『利根川筋河岸場紛争 本庄宿外港としての一本木河岸および山王堂河岸』(島崎隆夫著)より
『河岸に生きる人びと 利根川の水運の社会史』(川名登著)より
「本庄宿」は、利根川の水運で大きく発展し、中山道最大の宿場町として栄えました。
河岸は賑わい、宿には市も開かれ、様々な人・物の交流によって、最先端の文化が花開くきっかけを作った場所でもあります。
本庄宿というと、商人の町と思われがちですが、文化面でも厚みがありました。
本庄の文人の多くは俳諧をはじめ、漢詩文、書画などを嗜んでおり、中央からも多くの文人墨客が本庄宿を訪れました。
寺子屋も早くから開設されており、その普及率も埼玉県内で極めて高いものでした。
【参考文献】
・柴崎起三雄著 『本庄人物事典』
・柴崎起三雄著 『本庄のむかし』
・柴崎起三雄著 『本庄のむかし こぼれ話』
・『本庄市史(通史編Ⅱ)』
・『本庄市史(資料編)』
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